鴎外が目を覚ましたのは明け方であった。
先の出来事ははっきりと覚えている。
見知らぬ部屋にいるのもすぐに理解した。
賊の刀が目前に突き立って、誰かに抱き起こされた。それが見知る人であったから思わずしがみついてしまった。誰であったろうかと身体を起こしながら考えている間に、居る部屋の掛け軸や刀の見覚えがあることに気づいた。
五年同じ敷地に住んで一度か二度入ったことがある、石田三成の私室である。
慌てて身体を起こすと自分の身なりがいつもの寝巻きとちがうことにも気づいた。
寝巻きはいつもの木綿ではなく、上等の絹だ。
腕が痛くてびっくりした。曲者に縁側に落とされたときに打撲でもしたのだろう。袖をもちあげると右腕に包帯と添え木がされていた。
次に鴎外の意識は寝具に吸いつけられた。
見るに、どうやらこれは石田三成の寝具である。さもなくばこれほどの上等のもの二つとこの城にはあるいまい。動揺した鴎外はとりあえず布団の上にいるのが失礼なような気がしてきて畳の上に出た。布団の外は震えるほど寒い。
「鴎外殿」
右隣の部屋に続く襖の向こうから声がかかった。
「起きられたか」
声は石田三成の、あの抑揚のない声だった。
「入りますよ」の声とほぼ同時に襖が開いた。
明け方、外から差し込む光で目は見える。石田三成は袴と上着に羽織をかけていた。
足袋まで履いているし帯刀している。およそ常の明け方の格好ではない。賊が屋敷に侵入したのだから当然のことだろう。もしや今は大晦日の夜の明け方だろうか。
ともすれば差し込む陽光は初日の出か。
でもなぜ石田三成の寝室に寝かされているのだろうか。ほかの従者の部屋はいくらでもあいているし空き部屋もある。鴎外が「今は会えない」と左近に伝言してもらってからはじめて会うのだ。それがこんなかたちで、三成の寝室で元旦に顔をあわせることになろうとは。
「ごめんなさい」
鴎外の言葉はほとんど反射的に出たものだった。
「なにがです」
「・・・いろいろ」
「いろいろではなにもわかりません」
「ご、ごめんなさい」
三成はため息をついて、鴎外はばつが悪そうに伏礼をした。
「とにかく布団に入っていてください、また気を失われると面倒ですから」
気を失ったことは覚えていないが雪の中で誰かにすがりついてからここにいるまでの記憶がないのだからそれこそ気を失っていたのだろう。面倒とはどういうことだろうか。なぜ三成の部屋なのだろうか。すがりついてしまったのは誰だったのだろうか。
まさかと思い当たる人物が目の前にいて、鴎外は二歩、三歩と後ずさる。
布団の端を踏んで、ずるっと滑って身体が後ろへ傾いた。羽毛のやわらかい掛け布団の上に落ちたのでほとんど痛みはなかったけれど鴎外はいますぐここから立ち去りたかった。
恥ずかしい。
別の男と口付けをする裏切りをして、
賊に襲われて気を失って
部屋を借りて
転んで。
ここで泣いてはまたため息をきくことになる。
鴎外はぐっとこらえた。
「まったく」
ため息をきいた。せっかくこらえたのに。
三成は鴎外ののっている掛け布団を一気に引き抜いて、鴎外はごろんと転がった。
敷き布団に彼女の身体が転がったところに掛け布団を落とした。かけた、などという生やさしいやり方ではなかった。
「賊は捕らえました。今は左近に取調べを任せております。大晦日に警備の薄くなる隙をつかれました」
「・・・」
「離れには土塀の上に柵を作らせますが、鴎外殿には御寝所を母屋へお移りいただく」
「では、そちらに」
鴎外は三成に背をむける形に上半身を起こした。
「まだ部屋の準備が整っておりませんのでこちらに」
「準備を手伝います」
「あなたが行っても普通に邪魔なだけです」
鴎外の肩が強張った。
普通に邪魔、言ってから三成はきまりが悪そうに口をつぐんだ。
鴎外は肩をおとす。
三成は今度は随分重そうに口を開いた。
「・・・あなたに」
おとなしく肩を落としている鴎外の膝の上まで布団をかけた。優しく、である。
「弓の心得がおありとは存じませんでした」
「・・・ちゃんとうったのははじめてです。作法だけは臣下に教わりました」
「上出来です。あの矢音がなければあなたも他の兵もいくらか殺されていたでしょう」
三成の羽織が鴎外の肩にかけられた。
「その・・・あなたの機転に・・・感謝します」
ようやく言えて三成は内心で安堵した。
左近に礼を伝えてくれと言ったら自分で言えと返れされて、三成はしぶしぶ自分で言うことにした。
けれどさっきから出てくるのは別の言葉ばかりで一向に感謝の辞は述べられなかった。今、その荷をおろした。
あらたな荷が目の前にあることも知らず、三成は顔をあげた。
表情のない鴎外の白い頬を涙がつたっていた。いくつもいくつも流れ落ちていく。まだまだ下のまぶたにたっぷりと潤いを抱えている。鴎外が息をするだけで涙がおちていく。
ぱたぱたと三成の布団に涙がおち、鴎外ははっとして袖で目を覆った。
「申し訳、りませ・・・三成さまの、お布団が」
目を袖でこすってもこすってもその合間に涙が流れていた。
「布団はかまいません、洗いますから。腕が痛むのですか」
「いえ、いいえ、痛っ」
腕を交互に動かして涙を拭こうとしたら、負傷した腕まで動かそうとして痛がった。
腕が痛いのかなんなのかわからず、三成はただそこに座っているしかできなかった。
膝の上で握られた彼の拳は緊張していた。
「なんで泣くのです、普通に意味がわかりません」
「ごめ、なさっ・・・三成様のお役にたてて・・・」
といった瞬間に感極まって声が止まった。
「べ、別に泣くほどのことではないでしょう」
三成は困惑し、動揺し、声が無意識に強くなってしまった。手の中は汗をかいていた。
ひどい仕打ちをしたのだ。五年間ろくにかまわずに離れに住まわせているだけだった。
欲しいものなど何も言ってこないから特に贅沢もさせなかった。
集めた薬はどれもちっとも効かない。
へたに会ったりすると萎縮させてしまうので、会わずにいた。
会わずにいたら遠縁の親戚の親戚くらい疎遠になった。
怪我をしたときいて駆けつけてみればひどい言葉を投げ放って傷つけて。
婚約破棄の期日が決まり、突き放した。
突き放していたら、警備の薄い離れが賊に襲われた。
それでどうして自分の役にたったくらいで泣くのだ。それとも石田三成の役にたってしまったのがくやしくて泣いているのか。どうして憎まない。
「これまでにいただいたご恩を少しでもお返しできればと、ずっとそうしたくて、できなくて」
目の辺りをこするから赤くなっていた。その手に触ったのは拭くのをやめさせようとしたからだったような気がする。
手を
膝の上で
縫いとめて
私はなにをしようとしているのか。
鴎外殿も驚いている。
私のほうが驚いている。
唇に唇で触れようとして顔を寄せた。
「三成、いるか?」
手を放し、顔も離れた。唇はまだ触れ合う前である。
「いる。兼続か」
三成は身体を正座の姿勢までもどして障子のほうに視線をやった。鴎外の身体は口付けのされそうになったときと同じ姿勢のまま凍りついている。三成はそむける様に兼続の声のほうを見ていた。
「入るぞ。賊は北の山の・・・」
障子をあけながら話す兼続だったが、中に鴎外の姿も見つけて一瞬言葉を止めた。
「北山の山賊か」
「あ、いや。鴎外殿、よくおひとりで頑張りましたね。この直江兼続、感服いたしました」
「・・・」
鴎外はからくり人形のように首を兼続のほうに向けた。
身体がかくかくとしか動かないらしい。
顔は真っ赤である。
「おいたわしい、また熱があがってしまったようだ」
「兼続、その山賊どもの背後にはなにか見つかったか」
「風魔があやしい、いま小田原との関係を」
三成は何事も無かったように立ち上がって、廊下に出るとぴしゃりと襖を閉めてしまった。
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