諸葛亮邸に続く土の道の真ん中、池を臨む場所は六輔のお気に入りの場所である。
邸の玄関へ続く道を箒で掃除していたが、ふっと自分の手のひらを見つめて立ち止まったのがこの池のそば、手をゆっくりぐーぱーして、自然と目が和んだ。


魚を殺さない形の釣り針が池にたらされているのに気づいたのは、その直後である。


「おまえの存在は人間どもには迷惑であろうが、それは人を傷つけることにはあてはまらないのか」

小首を傾げる太公望は、池を挟んで対面の枝の上にいた。

「趙雲様はあなたと話さぬようにとおっしゃいました」

突然のことだったが、六輔は毅然と告げた。趙雲や諸葛亮、月英の言いつけをもう二度と破るまいという気概のあらわれであった。

「それは私が真実を述べるからだ。真実は人を傷つけるがどうやら人でなしも傷つくらしい」

「趙雲様はあなたと話さぬようにとおっしゃいました。話しません」

「話しているではないか」

「話しません」

「では私だけ話すからおまえは一言も返すでない。それが話さぬということだ」

「・・・」

「おまえは人でないものだ。人の子に似せているだけで、頭もバカだ」

「・・・」

「おまえの愚かさが人を傷つけることはなかったか」

「・・・」

「そうだな例えば、趙雲に斬られたろう。斬られたとき趙雲は斬ってしまった自分を呪っていたよ」

「・・・」

「ほかにはおまえは少し縮んだろう。人の子にその変化が見られることは滅多にない。子供は成長するのにおまえは子供になろうとした。それは人間ではない奇妙な動作だ。おまえを子供にした軍師夫妻におまえはふさわしくない存在だ」

「・・・」

「ほかには処刑。姜維の手を離れて、そうだあのときおまえ透けたろう。姜維は自分が手を放したせいだと思っているが、おまえが透明になってすり抜けて処刑を邪魔したのだ」

「・・・」

「姜先生の授業はそのあとなくなったね」

「・・・」

「馬超にはなんと言われた。因果応報。われわれの世界にはなかった考え方だな。おまえの行いはこの世界では裁かれるべきものだ」

「・・・」

「ふむ。まだだんまりか」

小さな両手を握った形で下ろしている。

「その”趙雲様”もおまえの謹慎中に私のところに来て、おまえを帰す方法を聞いてきたと言ったら?」

持っていた箒が手から滑り落ちた。
硬直したまま動かなかった身体はわずかに震えて、せり上がる熱い息におされて涙が出た。
ばたばた。

「・・・っ」

「かわいそうに」

太公望はすいと木の枝を下り、着地の音などないまま、一瞬消えて一瞬で六輔の目の前に立っていた。
冷たい頬を太公望の両手がやさしく包みこむ。
太公望は包む親指で涙を拭った。

「天女が人の子のように泣くでない」

ひときわに優しい声音で続けた。

「なにもおまえが悪いと言っているのではない。おまえはここにいる者とは異なる物というだけ」

六輔の耳に太公望の息か、唇が触れた。

「帰ろう、皆おまえを気味悪く思い、おまえが傷つく前に」

六輔は次の一言より先、抗いを音にできる気がしなかった。
最後の砦は

「でも趙雲様はっ」

「人の子は我らと違って嘘をつく。私は真実を述べる」



その時を
怒りが来た。と太公望は感じた。



趙雲は彼の愛槍を携えていたわけではなく、鎧を纏っていたわけでもないけれど、対峙したものを震え上がらせる鬼迫を煮えたぎらせて立っていた。

「太公望殿、なぜ六輔殿が泣いておられるのか」
「はて」

太公望は趙雲の登場を知っていたかのように不敵に笑って、六輔を放した。
六輔はまばたきも忘れて、目を見張ったまま白い頬から涙を落としていた。趙雲を振り返ることもしない。

「何をなされたか」
「なにも。ただ在るべきものを在るべき場所へ還すべく努めたまで」
「それだけわかれば結構。あなたが物を言って六輔殿が泣くのなら、言葉は慎んでいただく」

趙雲が太公望の襟を捻り上げ、小柄な仙人の足は地面から離れた。

「これを帰す方法を尋ねた人間の言葉とは思えぬな」
「言葉を慎まれよと言っている」
「人の子が」

地鳴りするような趙雲の声音に対し、太公望は吐き捨てるように言った。

「まるで天女に恋をしているような言い方をする」

「好きで悪いかっ!」

大声だ。
面と向かう太公望の髪が後ろになびいてしばらく戻ってこないほどの大喝だ。
後に続くのは五虎将軍と詠われる武人の拳か
いや、細い腕だ
顔だ
髪だ
淡い色の着物、だ?

太公望の胸倉を掴みあげる趙雲の腕に、二人を割って入る形で六輔が飛び込んできたのである。

そこからは趙雲の目にスローモーションで映った。

勢いよく飛び込みすぎた六輔の腕は、趙雲の腕を抱きしめたまま前転するように
足が
宙を
舞って
半回転したところでツルンと腕を放してしまって地面に背中から落っこちるところ
趙雲が太公望の胸倉そっちのけで両手を伸ばして滑り込み、ズザザッと土けぶりを舞い上げながら六輔を受け止めた。

趙雲が状況を速やかに飲み込み、叱ろうと息を吸い込んだ瞬間、白い手が趙雲の服を掴んだ。

「趙雲様は悪くありません、趙雲様はわるくあいませ、ちょううんさまあわうくう」

最後の方はもうなにを言っているかわからないほどぼろぼろだ。
趙雲はというと、この勢いに何も返せない。
六輔は趙雲の上を飛びのいて、今度は太公望の足元の地面に伏礼した。
淡い色のお召し物が台無しだ。

「戻りません」

太公望は言わない。
六輔はいっそう強く額を土にこすり付けて、ふっと土がけぶる。

「ここに在りたいと望みます」

太公望はふっと宙に視線をやって、興ざめの顔をした。



「からかってみただけだ」



釣り竿を述べて、まだこうべを垂れている六輔の後ろ襟に竿の先っぽを差し入れ、持ち上げた。

「オロチのような大物ならまだしも、おまえのような下級の天女を連れ帰らなかったところで、どうということもない」

小柄な仙人のどこにそんな力があるのか、竿の先っぽで持ち上げられた六輔はクレーンゲームのように趙雲の横に持っていかれ、ポトリと落とされた。

「短い余生を楽しむことだ」
「短い?」
「なんだ、”趙雲様”に聞いていなかったのか」

趙雲はしまったと思った。
六輔は知らない。
天女が地に下りれば長く生きられないことを知らない。



「せいぜい生きて、あと50年」






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