「・・・」
「六輔殿?」
庭園を一巡りする回廊の角で足を止めた六輔に気づいて、並んで歩いていた趙雲も足をとめた。
手すりに手を置いて、ぴたりと動かない。
視線の先には子供と母親の姿がある。
「殿のご側室と、皇子であらせられますよ」
趙雲がそう教えても、六輔はまったく反応を返さなかった。
目を皿のようにしてひたすら見ている。
三人の衛兵が母子のそばに立っていて、趙雲を見つけると略礼をとった。
趙雲もならって礼をとる。
視線の先の子供はまだ幼く母君の腕の裾をぎゅっと掴んで、庭内の散歩をしているようだった。
その風景には疑問が抱けなくて、趙雲は六輔の視線の位置まで屈んでみたが、やはり彼女がじっと見ている理由は見当たらない。
微笑ましくみるというならわかるが、真剣に、じっと。
「六輔殿、あまり見ては失礼にあたります」
背を押して、ようやく六輔は前に歩き出した。
黙っていればお似合いの恋人といってもらえるかもしれないその人は、最近ひときわ幼くなってきた。
趙雲にはそれがなんとなく、諸葛夫妻の子供になろうと努力している姿に見えてたまらなく切なくなる。
人ならざる力を見せてはならないと言いつければそれを忠実に守る。
人を傷つけてはならないと言えば、そのようにする。
人に優しくするのがよいことだといえば、よいことを行おうとする。
諸葛夫妻の子供になるよう言われれば、・・・。
幼くふるまえば振舞うほど、周りから奇異の視線を向けられることも少なくなかった。
彼女の見た目は大人と赤ん坊でいえば、大人に近いのだ。
しばらく歩いたところで六輔はぽつりとつぶやいた。
「子供は木登りをしますか?」
「・・・どうしてです?」
「わたくしが木登りをしたら、魏将軍が通りかかる前に何度か別の方が廊下を通りかかって、下りるよう言われました」
「それは、その、木の上は危ないですから」
「では、子供は小さいものですか?」
「・・・」
「趙雲様、子供は小さいものです。わたくしは大きすぎます、小さくなるべきです。どうすれば」
「どうぞ焦らず。引き取られて養子になったその日に愛情が芽生えたり、あなたが赤ん坊からやり直さねばならないということではありません。それに身体が小さくなったから誰からの子供になれるということもないと思います」
趙雲は慎重に言葉を選びながら声にしていた。こんなこと誰かに教えたことはないし、教えられる立場でもない。
「六輔殿が六輔殿のまま、色々な経験をしてどれがよいことか、どれが悪いことか、どれが大切な人を大切にするということか学ぶのがよいと思います」
「それは、時間がかかりますか?」
「かかります。だから焦らず、ああ、そんなに悲しい顔をしないでください」
「・・・趙雲様はすごいです。よくものを知っておいでです。なんでもご存知です」
趙雲という存在は、未だ六輔とって拠り所の一つであった。
彼女が悩むということを知ってからは特に、趙雲に信頼を寄せる傾向が強まった。
「六輔殿が、月英殿や諸葛亮殿やお邸の方ともっと仲良くなれるよう応援しています」
わずかにもちなおした六輔は、小さく笑って小さく頷いた。
本人にその気はなくとも、その姿は六輔が天上のものであると趙雲に再認識させる美しさだった。
けれど努めて、そういう対象には見ない。いまはまだ。
趙雲は守護者のような矜持で接するに徹した。
いつからか、その矜持からこの天女を上に返そうという意識が消えていたことに彼自身気づいていなかった。
「そういえば、姜維のところで学んでいるそうですね」
「はい、姜先生は算術を教えてくださいます」
丞相の娘に”姜先生”と呼ばれては、姜維もさぞやプレッシャーを感じていることだろう。
緊張で汗をかきながら声(高音)をひっくりがえしつつ教える姜維が目にうかんだ。
「姜維は元気にしていますか?」
「はい。いつも一対一で高い声で教えてくださいます」
「ん?」
一対、一?
聞き捨てならない。
「諸葛亮殿のほかの門弟の方々は?」
「別の講座ではご一緒しますが、姜先生の特別授業は一対一です」
考えたくはないが、姜維は正直若い。六輔は正直かわいい。
それが一対、一?
特別授業?
趙雲の笑顔が凍った。
きょうせんせ・・・これは、なんの授業ですか・・・?
房中術といって、とても大切な授業です。六輔殿、お上手ですよ・・・あっ(高音)
きょうせんせえ、らめえええ
「・・・六輔殿」
「はい」
「次に姜維に会ったら、趙子龍が姜維と限りなく実戦に近い模擬戦をしたがっているとお伝えください」
「はい、伝えます」
「先日引き取った私たちの娘です、頼みますね姜維」
丞相の娘。
あまりに唐突な引き取り方で、しかも結構大きい。丞相の手前、娘の素性を詳しく問いただすようなことはできなかったけれど。
彼女の最近の趣味は池の魚にエサをあげることと、地面に木の枝で絵を描くことだそうだ。
最初はふざけているのかと思った。
一方で、よく学びよく覚えた。それら言動の矛盾と、見た目の美しさが異常に映らなかったといえば嘘だ。
確かに姜維の目にも異常に映った。しかし彼女は丞相が引き取った娘、物を良く覚えるこの才ゆえに見出されたのだと諸葛孔明に心酔する姜維は考えてしまっていた。
「姜先生、できました」
「拝見いたしましょう」
時間をみつけて算術を教えた。
浅い箱に砂を敷いただけの黒板に木の棒で数字を書く算数の授業である。
「よくできています。丞相もお喜びになられるでしょう」
「これができるのはよいことですか」
「よいことです」
「人に優しくするのとどちらがより良いことですか」
「え?ええと・・・それはやっぱり、人に優しくするほうかと」
「人に優しくするのはとてもとても良いことなのですね。今までどなたにうかがっても、人に優しくするのよりもよいことであるといわれるものはありませんでした。お料理よりも片付けよりも算術よりも」
何の話をしているのだろう、と姜維は首を傾げたけれど六輔があまり喜ぶので特につっこまなかった。
「すごいです。さすがは趙雲様です」
「趙将軍がどうかしましたか?」
「趙雲様が人に優しくするのはよいことと教えてくださいました」
「そうでしたか。では算術を活用して人々により優しく接することのできる豊かな環境を作るというのはどうでしょうか」
六輔の目が輝いたので、あえてノってみた姜維である。
「それは良いことの足し算ですか」
「掛け算くらいの効果を生むかもしれません」
言ってみると、頬を高潮させて六輔は嬉しそうだった。すごいすごいを繰り返している。
(か、かわいい・・・)
姜維は“自分グッジョブ”と心の中で親指を立てた。
「算術を使って人に優しくすることは、姜先生×趙雲様ですね!」
「え」
無邪気とは時に恐ろしい。
ともかく、楽しい授業の日々だった。
六輔には常識がなくても、教えたことをきっと守った。例えば月英に人の手伝いをするのがよいことだと教わると、姜維を手伝おうとした。
六輔の授業が終わって、さあ次は練兵だという時、軽鎧をまとい側近に「槍を」と顔も見ずに告げる。「はい」と槍を渡され、異変に気づいた。
六輔が真後ろにいて、姜維に槍を手渡したところだった。
「将軍、彼女ですか?」
彼女にしては無邪気すぎる娘に周りの兵は気づいていたらしく、姜維をからかって笑った。
「こ、こら!だめじゃないですかこんなところまで着いて来て」
「姜先生のお手伝いをします」
「手伝いはいいですから。はやくお屋敷に戻ってくださいっ」
楽しい日々だ。
趙雲様
こんにちは趙雲様 わたくしは趙雲様と会えるのが好きです。
ちちうえさまは諸葛亮孔明様です。いつも冠をかぶっています。おひげがあります。
ははうえさまは月英様ですとても優しくしてくださって大好きです。近くで寝てくださいます。
勉強は書物に書いてあることを学びます。書物に書いてあることから書いていないことを学び取りなさいとちちうえさまがおっしゃいます。
趙雲様がくださった点心がおいしかったです。
趙雲様のお休みの日に姜先生が趙雲様と会えるようにしてくださいます。ずっとたのしみです。
六輔 |
懸命に書いたらしい前衛芸術を思わせる字体で手紙が来た。軍議のあとに軍師殿に物凄く険しい顔で
「趙雲殿、少々お待ちを」と呼び止められて、心底不本意そうに書簡を渡されたのである。
「え、どなたから」
「六輔です」
「六輔殿が私に?」
嬉しいかった。
思わず頬に熱がのぼる。
ここ最近は軍議が続き、自軍の訓練もあってなかなか六輔に会う時間は作れなかったのに。
「でもなぜでしょうか」
手紙を書くほど遠い距離ではない。
「文字を教えましたので、書く練習にと手紙を書かせたのです。誰でも好きな相手にお書きなさいと言いましたらねえ・・・ええ。そうなんです。一通は月英ともう一通はな・ぜ・か・将軍だったというわけです。よかったですねえ」
諸葛亮のその報せは逐一趙雲を喜ばせているのだが、どうも天才軍師の頬は趙雲の頬と反比例して不機嫌になっている。
『誰でも好きな相手に』といったのに一番近しい自分に書いてもらえなかったのがおもしろくないらしい。
姜維から「丞相はすっかりムッツリ親馬鹿でおいでです」と聞いてはいたが、ここまでとは。
趙雲は苦笑いでかわして孔明の前から立ち去った。
うまく子供になれないと悩む六輔の心配をよそに、実はうまくいっているようである。
執務室に戻ってさっそく布に包まれた書簡を取り出すと、先のような文面。
声にして話せば「~いたします」「申し上げます」「差し上げます」など丁寧な言葉を流麗に繰り出すのに、文字にするのは初心者らしい。
一行目、宛名だ。「趙雲様」とある。下に続く文字に比べ、「趙雲」の文字だけがやたらと上手い。練習してくれたのだろうか。
続いて「わたくしは趙雲様と会えるのが好きです」とある。
二行目にして趙雲は卓を叩いて興奮を鎮めねばならなかった。
例えるならおじいちゃんにケータイを贈っておじいちゃんが一生懸命作った初メールを見たときの萌え感覚に近い。
あの見た目なのにちぐはぐな文章なのが愛らしく、趙雲が好きだとか趙雲のあげた点心が気に入ったとか趙雲に会える日が楽しみだとか。
「こちらこそ、です」
趙雲は書簡に向かって声を出してしまった。
「何がこちらこそなんだ」
書簡の向こうに馬超のいかつい顔があった。
「これは、馬超殿」
「先ほどから赤くなったり机を叩いたり叫んだり、もう春は終わったぞ」
趙雲は咳払いをした。最近になって孔明が養子をとったことは随分有名になったが、その養子がそう遠くない日に森から趙雲が連れてきた娘だということを知るものはほとんどないのである。なんといっても人外なので、諸葛孔明も大っぴらに周囲に紹介するようなことはしなかった。
「何かご用でしょうか。いつも言っていますが合コンは行きませんよ」
趙雲は先程までの奇行を誤魔化して人好きのする微笑。馬超は追求を早々にあきらめて肩をすくめた。
「今回は違う。処刑の立会役がまわってきたから来週の今日、うちの隊の連中を頼もうと思ってな」
「そういうことでしたら、承りますとも」
「では頼む。仔細は岱に後で連絡させるがしごいてやってくれてかまわんぞ」
馬超はいたずらっぽく笑って手を振り、踵を返した。
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