「なんだあれは」
太公望が頬づえついていた先に、仲良さそうに並んで歩く趙雲と六輔の姿がある。
「ああ。あれは趙雲の恋人ですよ」
真昼間の宴席に同席していた劉備はほがらかに言う。
「本人は恥ずかしがって否定しますが、我々に紹介するときに天女様だ、なんて言うんですよ。微笑ましい」
「・・・ふむ」
太公望は”ほほえましい”という笑い方ではない笑みを顔に作った。唇だけが笑っている。
おもむろに、立てかけていた彼の釣竿を肩にかついで太公望はゆるりと立ち上がった。
「劉備将軍、しばし御前を失礼する」
「おやどちらに」
「釣りに」
「そうなのですか。諸葛亮殿がそんなことを」
「はい。ですので趙雲様のどのあたりが甘いのかと聞いてみたのです」
「そうしたら?」
「そうしたら、全体的に趙雲様は甘いとおっしゃいました」
非番だったので六輔のおつかいに付き合った帰り道の雑談中、趙雲は苦笑した。
「そうかもしれません」
六輔の荷物の半分以上を趙雲が自ら望んで抱えていたので反論できなかった。
目をまんまるにした六輔が並んで歩く趙雲を見上げた。
真剣に見るものだから趙雲も気づいて「ん?」とにっこり笑って首をかしげてみせる。
ちびっこに接する態度であるが、今の六輔にはこれくらいが丁度いいらしい。
女性の扱いが馬超ほど得意ではない趙雲にとって接しやすくなったのは事実である。喜ぶべきか惜しがるべきか。
れろっ
ぞわわわわわわわと背筋に電撃が走った。
腕を舐められた。
「・・・しょっぱい」
六輔は残念そうである。”全体的に甘い”はずなのに。
「六輔殿・・・人の身体をみだりに舐めるのはとてもはしたないことです。やめましょう」
ため息をついて、趙雲は六輔に今日もまた一つの教訓を与えた。
趙雲の言いつけは世界の真実であるかのように信じて、守って、従うので二度目の間違いを防げるのだからよしとしよう。趙雲はそう心の中でまとめた。
(万が一馬超殿なんて舐めたら絶対勘違いして押し倒されそうだものなあ)
「ごめんなさい。もう決してみだらに舐めることをしません」
「み・だ・り・に!」
「“み・だ・り・に!”舐めることをしません」
六輔は趙雲を真似て鼻息荒く意気込んだ。
「そう、その調子です」
「今度馬超将軍にも教えて差し上げなくては」
「なぜ馬超殿に??」
「まだお話したことはないのですが、先日倉庫の裏で女性を舐めていらっしゃるのを見かけました」
「そうですか。では私からドぎつく言っておきますので、六輔殿はわすれて結構ですよあの馬野郎」
“アノウマヤロウ”の意味は六輔にはわからなかったが、にっこりと微笑まれた六輔はつられるようににっこりした。
趙雲の視界から六輔が消えたのはその直後である。
六輔は趙雲の五歩後ろにいた。
彼女自身も急に前に進めなくなったことにびっくりしている様子だった。趙雲は抱えていた包みを取り落とした。
「趙雲様っ」
あわあわと必死に趙雲に手を伸ばす六輔、の襟首。何かに着物の襟首を引っ張られている。
「何者だ!」
趙雲は懐から短刀を引き抜き、襟を引っ張っていた”何か”を断ち切った。
「おや、魚に逃げられた」
のんきな声。
いくらか離れた大きな庭岩の上に、釣竿を垂らして笑む太公望の姿があった。
「太公望殿」
見知った人、いや、見知った神の姿に趙雲は短刀を下ろした。太公望は切られた糸と竿とを一緒に掴むと身軽に岩を下りてきた。
太公望の意識の向かう先が自分ではないことを察知した趙雲は、一歩前に出て六輔を半身隠した。
太公望はそれを見て足を止め、腕を組む。
「なにをしている」
視線も声も六輔に向けられていた。趙雲は今度こそ六輔を自分の後ろに完全に隠した。
「それはこちらの台詞です。このような場所で釣り糸をたらすなど」
「将軍。これは神だ」
趙雲は弛緩していた筋肉と意識を、敵に臨むそれに切り替えた。
「だが位が低い。人の子になりかけている」
太公望は趙雲を無視して通り過ぎ、六輔の顎を上向かせると顔を近づけた。
「ふむ、私の顔も名も知らぬと見える。上では寝て歌ってだけしていたクチだな」
「六輔殿、先に邸へ戻ってください」
太公望の手を掴み、六輔に厳しい声を向けた。六輔はよろめくように後ろへ下がり、足元に転がる荷物を拾おうとした。
「邸へ行きなさい」
”優しい趙雲様”の声は今まで聞いたことのないほど恐ろしい声であったから、六輔は荷物を拾うのをやめて諸葛亮邸の方向へ走った。
走っていったのを音で聞き、趙雲は太公望を睨んだ。
「将軍。腕を放していただけるか」
趙雲は掴んでいた太公望の手首を離した。仙人はうっ血している自分の手首をさすってわずかに笑った。
一方の趙雲は怖い顔をしたままだ。
「彼女を侮辱することは我慢なりません」
「そう聞こえたことが不快であったなら詫びよう。それにしてもなにを焦っておいでか」
「話をすりかえないでいただきたい」
「手厳しい。だがあれば人の子ではない」
「知っています」
「だろうな。ずいぶん大切にしているようだが我々は人の理の中で生き続けることはできない。特にあのように力の弱い者は」
「・・・」
「素早く死ぬ」
「・・・」
「さて、怖いからもう行く」
太公望がなにを言っても、趙雲は動揺を見せず油断も見せなかった。太公望は踵を返し、3つ歩いて立ち止まった。
「人に成ればもう戻れぬ。連れ帰ってほしければ言うとよい」
落ち葉のいくつかが旋回して、まばたきの間に仙人は姿を消した。
どっ、と。
心臓が鳴った。妙な汗が出た。
すばやく死ぬとはなんだ。
水を泳ぐ魚を陸にあげれば程なく死ぬのと同じだろうか。
陸にいる人を水に落とせば程なく死ぬのと同じだろうか。
力の弱いものはすばやく
悪い予感ばかりして呆然と立ち尽くしていると、背後から足音が近づいてくるのを聞いた。
両手にいっぱい石ころを持って裾も気にせず猛ダッシュでかけてくる。
「六輔殿っ、邸へ戻りなさいと」
「趙、趙雲さまを、いじめたら、わたくしが怒ります」
肩で息をして、自分の拳ほどもある石を振り上げ、趙雲の向こうに視線をやって索敵している。
手も唇も声も震わせて
優しい
懸命な姿に思わず緊張がほぐれた。
ひとまず、物騒なものを振り上げて震えている腕を下ろさせた。
「なぜ、笑うのです、か」
まだ息をきらせている。
「おかしくて笑うのとは違います。六輔殿があまり頼もしいから、ほっとしただけです」
「たのしい・・・?」
「たのもしい、です。私の助けとなってくださっているという意味です」
六輔は意味を理解すると、こくこくと何度も頷いた。彼女の緊張も緩んだのか、腕いっぱいに抱えていた石がバラバラと地面にこぼれていった。
暴れ馬をなだめる要領で頭の後ろから背中にかけてを撫ぜてやる。
水を泳ぐ魚を陸にあげれば程なく
ああ、はじめて会ったあの湖面で私は、帰れなくなったこの娘をひどく困ったはずなのに
どうして今
帰すことを躊躇う気持ちではなく
帰らせるものかと思・・・
撫ぜる手をとめて、背中をゆっくり抱きしめた。
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