青空。
町の真ん中。
魏のスパイが二人、後ろ手に縄で縛られて連行されてきた。引き摺られているといっていい。
すでに拷問を受けたらしい身体はぼろぼろでそのまま放置しても数日後には死ぬのではないかという有様である。
まず一人目が額を地面に押し付けられた。待ってくれ嫌だという大声に反応した六輔がパッと顔をそちらへ向けた。
「見てはいけません」
言われ、姜維に視線を戻した。
城の門を出、月英に頼まれた生地を市場へ買いに行くその道中のことである。
美しい上に丞相の娘だ。憧憬と使命感はひとしおで、「おもり」の任務は「近衛」の任務として鮮烈に彼に伝わっていた。しかしまさか、通る道で公開処刑があるとは知らなかった。街中での処刑は見せしめとして、人々が最も集まる場所で行われるのが常だ。
姜維はその場から離れようとしていたが、あとからあとから人が集まってきて、前を阻まれ、押し戻される。
知らない人間の悲鳴がして六輔の意識は再び処刑場のほうへ向いた。
人垣で見えないといいけれど、と姜維は焦りながら比較的人の少ない道筋を探す。
集まった人々は袖を口にあて、眉をひそめながらけれど視線は処刑へ。その場を離れようとする足は姜維以外誰もない。
朗々と罪状が読み上げられる。
やがて、意味のある言葉も尽きて意味の無い絶叫が青空を裂く。
絶叫が止まった瞬間と、ゴ、と大剣が地面に突き刺さったのとは同じだった。首から上と下が離れ、上は三度転がって静止まった。
目を覆う者もあれば、目を覆った指の隙間からジ、と見る者もあれば顔をしかめる者もあれば、何も言わず無感動にそれを眺めている者もある。
哂う者さえも
「向こうへ」
ここはいけない。
あの瞳に、耳にそれらを知覚させてはならない。
姜維は六輔の手を引いた。
絶対にこの手を放してはならない。
向こうへ
はやく
六輔の瞳はじっと、人の間から人間の死のある方向を見つめている。運悪く、人の隙間が彼女の視界を阻まなかった。
「待ってくれっ」
これは残る一人の絶叫である。仲間の一人の死を目の前に、大声をあげたのだった。
「俺はなにもしていない、していないんだ、濡れ衣をっ」
処刑人に背後から蹴られて、男は地面に突っ伏した。
人間の小声の集合であるざわめきが沸き起こる。
姜維はいっそう強く六輔の手をひいた、のに。
六輔の指はすり抜けたあとだった。
「待ちなさい!」
姜維の声は六輔に届かず、彼女は身体をあっといまに人の間にもぐりこませて消えてしまった。姜維が追いかけようとしても人が邪魔で六輔のように進むことはできない。
うつ伏せのまま、罪人は縛られた身体では起き上がれずに足だけでもがく。
処刑人が大刀を振り上げた。
人間の目が注がれている、その中央、縛られた男に跳びついたのは六輔の白い腕だった。
「ひとをきずつけるのはいけないこと、ひとをきずつけるのは」
六輔は呪文のようにそれを繰り返していた。白い腕が砂まみれの男を引っ張り起こす。
一瞬の動揺の直後、罪人は六輔の首にかぶりついた。
両手を縛られていながら、六輔を人質にしたのである。
男の喉が獣のような唸り声を発した。
処刑人が振り下ろせば、細い首を食いちぎると言いたいらしい。
薄汚れた顔に汗で髪がはりつき、頬はこけ、髪はよれて解けくずれ、見開かれていている瞳だけが狂ったようにぬめり光る。首を噛まれている六輔は呆然と噛まれている。処刑人は刀をふりあげたまま困ったように他の官吏らを見やった。
切っ先が風を切る音は後からついてきた。
罪人の頬を右から左に槍が貫通している。
口腔を横に貫いているのだから咥えた首を食い破ることは最早かなわない。
ずる、と傾いた男の口から槍を引き抜き、上から下に一刀両断、首を切り落とした。
落ち行く首に青ざめて息を呑んだ六輔に、槍の男は向き直った。
六輔が振り仰いだのが早いか男が手刀を加えたのが早かったか。
ぱっと砂埃が散る。
灰銀色の髪が剣風になびいた。
取り巻いていた民衆はざわめく。処刑人に代わって罪人を斬ったのは誰か。その特徴的な兜で何人かが騒ぎ出す。
「将軍だ」
「馬超将軍だ」
声は地鳴りのように連なってやがて処刑場をぐるりとどよめきが囲んだ。
馬超の手刀で気を失って傾いた六輔の体を彼自身が片腕で止めた。腰から二つ折りにするようにして抱える。
これも片腕である。駆け寄ってきた官吏に馬超は視線をやった。睨んでいるように見えるのは彼のまなじりがもとからつり上がった切れ長の形をしているからだ。
「処刑は済んだ」
片手で女を抱えながら、片手では槍についた血糊を払い言う。
官吏らは蛇に睨まれた蛙のようにしばらく動けないでいた。
「何をしている」
今度は本当に睨まれ、官吏は震え上がって返事をして動き出した。転がった首を拾う者、転がった胴を袋に詰める者、取り巻きに「散れ、散れ」とまくしたてる者たち。
「この娘の取調べも処刑立会の俺の役目か?」
「は!し、失礼いたしました。私どもで」
馬超は女を無造作に渡して通り過ぎる。彼の馬の横に控えていた馬岱に槍を預け、交換するように馬岱の掴んでいた手綱をとり、鞍にまたがる。
「若」と馬岱が何か言いたげに呼んだけれど馬超は視線を遣っただけで無視した。
「城へ戻るぞ」
渡された槍から血をぬぐい、すばやく布にくるんで紐でしばると馬岱も自分の馬で追いかけた。
「若、あの娘は」
馬超に追いついてきた馬岱は、不機嫌そうな若君に尋ねた。
「知らん、大方あの間諜どもの仲間であろう」
「まだ若いようでしたが」
「男の褥にもぐりこむには若い方がよかろうな」
「それはそうでございますが」
「なんだ、惚れたか」
「違います。見覚えがある気がして」
「くどき文句は女に言うのだな」
馬岱は笑われてそれきり黙った。
馬岱が見たことがある気がするのは当然であった。娘はかつて趙雲が山から連れてきた娘なのだ。馬超は顔を見るまでも無く失神させたのでそのことにまったく気づいていない。
豪胆で繊細なことに無頓着な若君に比べ、馬岱はいま少し物事を詳細に分析するたちだった。その彼にも、一度遠くで見ただけの顔と、処刑に跳び込んできた顔はついに結びつくことはなかった。
さて、広場で六輔を見失った姜維はだんだんと減っていく人の輪からついに六輔を見つけ出すことができなかった。
まさか娘が処刑場の中心へ行って罪人を助けようとして連行されたとは思いも寄らない。
「あの、女の子を見ませんでしたか。このくらいの背でこのくらいの髪で、きれいな子で」
町の人は首を横に振る。
姜維はすっかり人のはけた処刑の広場に戻った。処刑の片づけをしていた官吏たちにも応援を要請すべく、ひとりの官吏に駆け寄った。
一番えらそうな官吏に、である。もちろん階級で言えば姜維のほうがよほど上である。
「姜将軍!」
立会いであった馬超に続き、姜維が現れて中年の文官は大慌てである。
袖を合わせて丁寧に礼をとろうとするのを制して「女の子を見ませんでしたか」と尋ねる。
「おんなのこ、でございますか」
突然現れた将軍にそんなことを尋ねられて文官は言葉の意図を見つけかねた。
「先ほどの人だかりではぐれてしまって、ある高貴なご身分の方のお嬢様なんです」
「それはいけない、すぐに兵を割きましょう」
「助かります」
「して、お嬢様はどのような」
「六輔殿とおっしゃいます。背はこれくらいで」
髪の色はこんなで髪の長さがこれくらいで服装はこんな色で、年は。
あれやこれやと特徴を伝えている間、姜維は頭の中の六輔を思い浮かべるのに必死だった。
信頼されて丞相の娘を預けられたというのに見失ったのだ。一大事だ。
だから気づかなかった。
ひとつ特徴を言うごとに目の前の官吏の顔が徐々に青ざめていったのを。
半刻ほど前に彼らが牢へ連行した娘の特徴が、まさに姜維の言うそれなのだから。
『其の者、魏の間諜の疑い』
それが警備担当部門である衛尉の官の判断であった。
姜維は彼女の行動を聞いてその理由を説明できる言葉は持ち合わせていなかった。
(私は魏の降将)
今すぐあの娘を返しなさいと姜維が言えば、たとえどんなうまい言い回しを使ってとしても余計疑いを深めることになろう。
姜維は諸葛亮に事の報告し、諸葛亮は姜維に「迎えは他の者をやります。下がりなさい」と言った。
姜維がいっそ泣きそうな顔で言い訳をつごうと口を開くが、諸葛亮は扇で口元を隠して「下がりなさい」とだけ繰り返した。
宵の口に、孔明の門弟に連れられて六輔が諸葛亮邸に戻ってきた。
事情を聞くのは門前で待っていた姜維の役目ではなかった。
常より早い時間に邸に戻っていた諸葛孔明は、門弟から六輔を引き受けるため玄関まで出てきていた。
「姜先生」
何事もなかったように、姜維を見つけて駆け寄ろうとした六輔だったが門弟に引き止められた。
一方、六輔の首に布があてられているのを見て姜維はすくんだ。
孔明は進み出て六輔の手を引っ張ると「来なさい」と厳粛な声を彼女に向けた。
「丞相っ」
姜維の前を六輔と孔明が通り過ぎ、そのあと孔明は顔を向けずにこう言った。
「今日は遅い。下がりなさい」
今日のところは、姜維に一切の弁解の余地は与えられなかったのである。
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