父上様と面と向かって三十分以上、父上様は何もおっしゃいませんでした。
母上様とおやしきの方々はこの部屋に入ってこないように言われて、出て行かれたのも三十分前です。
姜先生は門のそばにおいででしたが、父上様に「下がりなさい」と言われてそれきりです。
椅子は高いので、つま先がつきません。
父上様の足は、椅子が高くてもついています。
でもわたくしは小さいというわけではありません。
趙雲様は焦ることはないとおっしゃいましたが、どうしてもわたくしは大きいままです。
それに今日は広場で人を傷つけて居る人がいたので飛びついて止めようとしたら、それきりまわりの人が誰も笑いません。
わたくしは人々に備わっている常識のなかで、いくつもいくつも欠けているので悪いことをしたのだと思います。
子供でない者が木に登ってはいけない。
人のことをじっと見ては失礼にあたる。
人に優しいことをするのがよいこと
人を傷つけるのは悪いこと。
痛みは血ではなく、鋭い感覚
趙雲様は優しい
母上様は優しい
父上様は、わたくしを困っている。
わたくしがいることを、行うことを、頭の悪いことを困っている。
痛い
これはきっと、昼間に噛まれて血の出た首が痛むのだと思います

「首が痛みますか」

首を触っていたら、父上様がそうお尋ねになりました。三十分ぶりの声だったのでびくりと震えてしまいました。

「いいえ」

嘘です。痛いです。でも首は触ってみても痛くありません。
けれど痛むのです。
こんな矛盾したことを言ったらまた困らせてしまうだろうから、言いたくない。

「起きた事は姜維から聞きました。今日はなぜあのようなことをしました」
「それは」
「それは?」

人を傷つけようとしている人を止めようとしたら、みな笑わず、わたくしはきっと間違ったことをしたのです。
けれど何を間違ったのか
何をするのが正しい行いだったのか
怒られたくない
怒らせたくない
間違えたくない

「もう・・・しません」
「当たり前です。私はなぜあのようなことをしたのか聞いたのです」

また怒られた。
また間違えたのだ
逃げ出したい。
透明になってあの窓から消えてしまいたい。
そうしたらまた趙雲様が悲しんでしまってだから、それは、これは
痛い
痛い
これは痛みだと知っているのにどこが痛いのかわからない
逃げ出したい














それからは唇が震えるだけで何も言えずに、お茶を持って入ってきた月英が見かねて、言葉少ないお説教は終わった。は月英に伴われてあてがわれた部屋へ行く間、背中と肩をさすってもらっていた。
さすってくれと頼んだわけではなかったけれど月英はそうして、は不思議と痛みがやわらいだように感じた。
痛みはやわらいだのに、身体の中からじわっと熱が膨らんで、その熱がの体積より大きくなったときに、廊下の途中、月英の腰に抱きついて「ごめんなさい」と言った。



その次の次の昼

「三十日間の謹慎?」

突然謝りにきた姜維から広場での一件を聞いた趙雲は、諸葛亮邸の門前で月英に頭を下げられた。
泣きじゃくって趙雲に抱きついて謝りまくった上に趙雲の装束に鼻水をつけていった若き将、姜維。彼には特にお咎めがなく、逆にそれが姜維を苦しめているらしかった。
ちなみに泣きつく姜維との場面を女官数名に目撃されて「趙雲が姜維をフッた」というような妙な噂まで立った。

「ええ、だから次の月までは出すことができないのです。せっかく来て下さったのに申し訳ないのだけれど」
「諸葛亮殿の言いつけとあれば仕方がありません。殿の様子はいかがですか」
「大丈夫。だいぶ落ち込んでいたけれど落ち着いてきています。今も家中の雑巾掛けをしてくれていますよ」

月英はあまり見たことがない笑い方をした。
趙雲は勇ましい月英や、鋭い月英を見たことはあっても和やかにほがらかに笑う姿というのはきっとはじめて見た。

「では、これだけ」

おみやげにと持ってきた包みを月英に預けた。市場で買ったお菓子が詰まっている。

「お邸の皆さんでどうぞ」
「ありがとう。なにか伝えることはありませんか」

(素早く死ぬとは、どれくらいだろうか)
(あのひとはそのことを知っているのだろうか)

「・・・では、父君と母君のお言いつけをよく守るように、とお伝えください」

それだけ言って会釈した。

「次の月にきっと会ってあげて下さい。あの子は最初に会いたがると思うのです」

趙雲は苦笑しかできずに踵をかえした。
門前を離れ、ついこの前にが覗き込んでいた池を通り過ぎた。
あの太公望が嘘をついているようには見えなかった。
ついこの前、一緒に巡った庭園の回廊を通り過ぎた。
謹慎をしている間に弱っていって、儚くなってしまったらどうしよう
太公望に任せたなら彼女は永らえることができるだろうか。






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