謹慎が終わったその日、趙雲はと会うことになっていた。
回廊が周りを囲み人通りのある内庭で会うことは避け「では離宮の庭を」と約束していた。しかしいつまで待っても大樹の木陰にが現れない。
彼女に会わぬ間、戦こそなかったものの趙雲は日々の練兵、度重なる軍議を忙しくこなした。
また、太公望にを帰す方法を聞いたりもしてしまった。
太公望は表情を変えず、趙雲が尋ねたことにだけ淡々と答えた。趙雲は連れ帰って欲しいとは一言も言わなかった。

趙雲の痛みを落とそうと、頬に触れてくれた手の感覚が消えない。

震える手で石つぶてを振り上げて趙雲を守ろうとした、泣きそうな瞳を忘れることができない。

上に帰したくても帰せず困って都まで連れて来たといのに、帰す方法を知った今、このままでは彼女が永らえることができないといわれて尚、帰せずにいる。

あたりを見回しても夏草が揺れるばかりで人の気配すらない。
道がわからないのだろうか。
久しく外に出ていなかったなら、日射病でも起こしたのかもしれない。
やはり邸へ迎えにいくべきだった。
そう思って大樹から背をはなした時、高い垣根の向こうに人の話す声を聞いた。






「離宮の庭で美人を見たよ」

すれ違いざまに太公望が言った言葉だ。
顔はきれいだが腹の中は人をたばかるタヌキ、馬超は太公望をそのように見ていた。

タヌキの戯言とはいえ、美人。ふむ、美人か。

そそくさと離宮まで足を伸ばしたのは、べ、別に神様のいう美人がどれほどのものか気になったという
ことではない。






「おまえ、あの時の」

離宮の庭での再会である。
まったく貴婦人のような格好をして、誰かを待っているようだったから思わず声をかけてしまったが、振り返ってみればあの処刑のときの娘ではないか。
美人をお誘いする紳士ぶった態度から、粗野な態度に切り替える。

「なんだ。脱獄でもしたのか」

馬超から見て、相手は丸腰だった。
たとえ武器を持っていたとしても、相手が何かしようとした瞬間に一歩強く踏み込んで蹴飛ばしてやれば立ち上がれないくらいにはさせられると確信していた。
どうでもいいが、娘は若干顔色が悪くも見えた。どうでもいいことだった。

「馬超、将軍」
「ご存知とは光栄だな。それとも俺を待っていたのか?美人のお誘いはありがたいが、今は昼だし夜まで待っていてくれないか」

尻尾を出させるため、挑発を試みる。
娘は馬超をじっと見ている。

「あなた様はなぜあの時、わたくしの首を噛んだ方を傷つけたのですか」
「なに」
「大きな刃を持った男性が人を傷つけようとしていて止めなければならないと思いました。止めたあと皆、怒って・・・わたくしは間違ったのだと思います。もう間違いたくありません。だから邸の中にいる間もずっと聞いてみたかったのです。わたくしに温情をかけない人に」

本当に馬超を待ち伏せていたかのようにひとりでに、怒涛のごとく告げた。

「人を傷つけるのはいけないことではないのですか」

なんだこいつは。
子供のようなことを、すがるように言うな

「処刑のときもそんなこと言ってたな」

1歩前に出る。

「魏の間者だった者どもだ、捕まえるときに三人も殺されたのだぞ。極刑で当然であろう」

もう1歩近づく。

「殺したから殺されるのだ、因果応報ではないか」
「でも、人を傷つけるのはいけないことと」

さらに寄り、娘がのけぞって仰ぎ見なければならぬ距離まで寄る。

「何を言っている。人を傷つけたのだ奴らは。やってはならんことをしたから殺されたのだ、それくらいなぜわからん」

顔をぐいと寄せると、娘はひるんだ。
至近距離で強く睨むと、娘は馬超の顔を見れなくなったらしい。
声も弱って

「ひとをきずつけるのはいけないことと教えてくれました」
「なぜ目をそらす。どこからきた自信だかわからんが、脱獄してまで俺に言いたい事があるなら目を見て言ってみろ!」

目を一瞬見てはそらして、また見てはそらして、

「・・・ひとに優しくするのがよいことだと、教えらうぁっ」

つぶやくような反論に短気を起こし、馬超は娘の後ろ襟を引っつかんで歩き出した。

「話にならん。今すぐ官吏に突き出してやる」

強制的に後ろ歩きをさせると、6歩目で娘が転んだ。






いくらなんでもこんなに派手に転ぶとは思わなかったので、今度は馬超がひるんだ。
言動は変だが、転んだ美人を引き摺っていくのはいくらなんでも気が引けた。
どういう素性なのかは知らないが、間諜でも脱獄でもないことは説明される前から察しがついていた。
間諜として投獄されていたなら、今頃こんなに小奇麗な格好で宮廷内を闊歩することはできないだろう。

「いたい」
「む・・・なんだ、その・・・少しやりすぎた。起きれるか」
「い、いたい」

大胆にも足を投げ出して、膝にできた血のにじむ大きな擦り傷に触れないでいる。

「あ、こら手で触るなよ。小石が刺さってる」

仕方なくそばに屈んでみると、娘の瞳が不自然に揺れている。
声をかけようとした馬超は止まる。
奇妙なものを見た。


娘の手の平が透きとおっている。


「なんだ、これはっ」

馬超の顔がゆがんだ。
っと、馬超の視界に別のものが割り込んだ。

趙雲である。娘の姿は彼の向こうにすっぽりと隠されてしまった。

「おまえっ」
「すみません馬超殿、私の知り合いがご迷惑を」
「趙雲、お前も見たか。今その娘の手が」
「いえ、何も」
「そんなはずは無い、見せてみろ」
「馬超殿。彼女は魏の間者ではありません、それは孔明殿も保証しておいでのこと」
「待て!もはや間者かどうかなどより、そいつは」
「趙雲様っ」
「大丈夫、いい子だね。今日は暑いから疲れてしまったのでしょう」

趙雲はうまく笑い顔を作れなくても、それでも早口に伝えたいことを伝える。今にも崩れ落ちそうな娘に伝えたい優しい言葉を羅列する。
言葉は、届かず。

「わた、し、お言いつけを・・・」

悲鳴のような言葉の途中で脱力した。後ろへ倒れそうになったのを趙雲が抱き寄せた。透き通った手の平を包み込む。
馬超にこれ以上見られてはならない。

「馬超殿、御前をまかります。・・・事情はいずれ」

突然倒れた美貌の娘、抱きとめて顔面蒼白な友人、馬超が問い詰めるよりも趙雲が踵を返したほうが早かった。
まだ昼間、日差しの強い夏の庭。
馬超の頬には趙雲が見えなくなってから思い出したように汗が垂れた。






殿が、倒れて」

暑い日だというのに真っ青な顔をした趙雲が月英の庵を訪れた。

「まあ、まあ、

植物に水をやっていた月英が駆け寄ってきて覗き込んだ。膝の傷から血か垂れているのがまず目に入った。

「寝台までお運びします」
「それよりも傷を拭かないと。待っていてください、今人を呼んで」
「いいえ」

趙雲ははっきりと言った。

殿を、寝台へ」

趙雲は月英だけに見えるように、手の平をひらいた。
彼の手の平の中に透き通る水。
形ある水
形は手
透きとおる手の平
月英は目を見張り、速やかに趙雲を邸の中に案内した。
寝台へ下ろして、薄い掛け布をかける。
お客様にと、冷たいお茶を持って女中が入ってきたけれど、の身体は掛け布の下である。の両手は未だ透きとおっている。

女中が退室してから月英はためらわずに透明の手に触った。

「温度はの温度ね」

そういって小さく笑うのだから、趙雲は湯呑みを持った自分の手がぶるぶると震えているのに気づき、恥じ入った。

「日差しが強かったから、熱を出したのかしら」
「どうも様子が違いました。その・・・馬超殿がそばにおられて、あの日の処刑立会いは彼でしたから、なにか言われたのかもしれません」
「そう」
「月英殿。殿は最近変わった様子はありませんでしたか。具合を悪くしたり、身体が弱くなったり」

水を泳ぐ魚を陸にあげれば程なく

「そうね。夜はあまり眠れていなかったみたい」
「眠れなかった?」

月英はうなずいた。

「罪人を助けに入った日以来、ずっとよ。考え事をしていたって本人は言うの」
「・・・私が言った言葉が悩ませているのかもしれません」
「なにを」と尋ねた月英の声に怒りはなかった。
「人を傷つけるのはいけないこと、そう教えたのです」

人を傷つけるのはいけないこと、馬岱によればはそう呟きがら罪人を処刑人から庇ったという。ゆえに魏の間者であると嫌疑がかかり、馬超に打ち伏せられた。
月英は穏やかな表情のまま、の寝顔へ目をやった。なにか考えるように三度瞬きをした。
それから微笑む。
場違いと思われるほど柔らかな姿だった。

「難しいわね」
「軽はずみに言った私の言葉が、殿を追い詰めてしまったのです。私がもっとよく考えていれば」
「そういう意味ではないわ。子供を育てるのが、という意味よ。私も孔明様も子供を育てるのはこれがはじめて」

月英は寝台に腰掛けての前髪を撫ぜた。額を出すといっそう幼い。

「信じている人の言う事はなんでも信じてしまうのね、私や孔明様や、あなた」

信じて疑わない。真実は時に残酷で、時に醜く、時に悪である。人を傷つけるのはいけないこと。
そう言った趙雲は人の首をとることで人々に褒め称えられてきたのだ。なにを偉そうに教えたのか。
趙雲はそう思い、胸を痛めた。
月英は

「孔明様がこの子を引き取った時、率直に言えば困りました。身の丈は子供ではありませんし、言葉も知っています。けれど尽くそうとするのです。わたくし達が家族として扱っていなかったことははじめは誰の目にも明らかでしたのに、損得関係なく、わたくし達を信頼しきっているのです」

月英は遠い。
趙雲が自省に浸っているそのそばで、月英の言葉も表情も愛情をもっていた。
母の顔をしている。



の睫が動いた。

「まあ、。起きたの」

夢と現実の合間でぼうっとしている目は、まず月英を見つけた。

「・・・ははうえさま」
「今日は暑かったから、倒れてしまったのよ」
「・・・」

次いで、目は趙雲に気づいた。
趙雲は咄嗟には表情を作れない。は趙雲を見てぱっと目を見開いた。自身の手を見る。
透きとおって

「あぁっ」

今にも泣き出しそうに顔をゆがめた。手を透明にすることはいけないこと、の中にそう刻まれている。
これもまた趙雲が刻んだ言葉だ。

「趙将軍が連れてきてくださったのよ。お礼を言いなさい」

月英はの手をとった。
透明な小さな手の平を握っている。
それが本物の人間の手であるかのように「さ、趙将軍に」と促して趙雲にも笑みを向ける。
はあまりに平然と月英が透明な手を、「透明にしてはいけない」手を握っているので驚いていた。
月英の横顔と透明な手の平を何度も交互に見る。
言葉も言えずに何度も
何度も

「どうしたの、喉が痛いの?」

優しい声には交互に見るのを停止し、静かに首を横に振った。

「いたく、ないです」

は趙雲のほうを向く。

「ありがとうございます、趙雲様」

趙雲は傾いでいた心を、背筋とともに正した。

「とんでもない。具合は平気ですか」
「平気です」

は次の言葉を言おうとして、下を向いた。
表情が前髪の奥に隠されて趙雲にはそれが照れる仕草に見えた。

「は、母上様がおいでです」

趙雲はうなずき

「心強いことです」

と言った。



の手の平はいつのまにか人間の手の色をしていた。瞼は重たく、今にも落ちそうだった。
「もう少しおやすみなさい」と月英はの身体へ掛け布を持ち上げなおした。
の瞼がすっかり眠りに包まれて月英は包んでいた手のひらを寝台に戻した。指はやわく握られれている。

天女を拾い、疑い、傷つけ、優しくされて、優しくした。
天女は丞相の娘になって、罪人を助けようとして捕まって、理解できず、裁かれず、眠れず、ちぐはぐだ。
彼女を取り囲む状況のすべてがちぐはぐだ。
うまくいっていることなどひとつも無いように思われるに、なぜだろう、の存在は月英や趙雲のなかにあってはしっとりとなじんでいる。
この寝台に休むひとが異物であるとは思えない。
起きたなら真っ先に、ここにいてよいのだよと、言葉にして伝えてたい。

すばやく死ぬなど





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