若い二人はひやかしを受けながら船同士の渡し板をわたってゆく。
酔っ払いとすれ違わないように道を選びながら進んだ。夜なのに明るい。月の明かりが水面に反射している。
歩いている最中、二人は言葉は愚か視線さえ交わさなかった。陸遜が先に歩き、あとから姫君が早足でついてくる。
船から陸へと上がる桟橋にさしかかると、陸遜は先にひょいと桟橋と船との間のわずかな水面を跳び越えた。
ニ、三歩桟橋を行ってから、あとを姫君がついてこないのに気付いた。
振り返ってみれば、重苦しい着物の裾が水に落ちないように持ち上げているところだった。
曹操の寵愛だった娘の格好は矢張り豪奢である。幾重にも重なった衣が持ち上げても持ち上げても落ちてくる。
陸遜は船のほうまで戻った。姫君は慌てて着物をたくし上げる。足首がちらりとのぞいて陸遜はぱっと視線をはずした。まっすぐに見れない。
「あの」
陸遜はそれしか声をかけられず返事は返らず、かわりに視線が返った。
かち合う。
美しい姫だ。もとはとおい国のひとだとさっき誰かが言っていたが髪の色や瞳の色が違うだけで、この世のものとは思えないほど神秘的な姿に映った。同じ人間のはずなのにつくりが違う。戦場にいるのは不似合いだ。
遠征にまで付き従った曹操の寵愛。泣きそうな顔をしている。どこに視線をあずけていいのかわからない。どこを見ればいやらしくないんだろう。彼女にとって曹操は故国を滅ぼした仇敵。どんな心で付き従って。どこを見れば。
陸遜の回転の早い頭が全力で空回りした。
陸遜はおずおずと無言で両手を差し伸べる。姫君もためらいながらその手に小さな手を重ねた。
すぐあとに陸遜の胸に温もりが飛び込んできた。戦場だったのに香を焚いていたのだろうか。
花の良い香りがした。しかし陸遜の頭は毒でも吸わされたかのようにくらっとした。
「う」
胸に飛び込まれても声を発するほどの衝撃などなかったのに、思わず身体をこわばらせた陸遜は奇声を発する。背筋をぴんとしたまま陸遜は動けない。それが桟橋の際なので怖い思いをしているのはむしろ姫君のほうである。陸遜が後ろに下がってくれないものだから、つま先で辛うじて桟橋の先端に立っている。
陸遜は姫君が水に落ちないようにしっかり腕で支えて、彼女が橋の上に立てる位置まで下がり、おろした。ふと足元を見れば足は無事だが姫君の長い裾はしっかりと水に浸かっていた。
「あっ!申し訳ありません」
「いいえ」
ようやく声が聞けた。幼さの残る音色。
水を吸った裾をぎゅっと細い指が絞った。
砂利の上を歩いて少しすると草原に出た。姫君は足に触れる草の感覚がくすぐったかったのかふっと足をとめた。
「こちらです」
陸遜は指をさす。姫君は足元から視線を上げた。またもかち合い、大きな瞳だと陸遜は思う。
「向こうにきれいな湖があったんです」
陸遜はなるべく酒宴の船から遠ざけようとしていたから、少し離れた湖へ向かっていた。
聞いた話によれば川の近くにできたその湖は仙人が山を割ったときに溢れた出した湧き水でつくったのだという。それは嘘か本当かしれないが、水が冷たく、塩水でもなく、透明である。
時は夜、辿りついた湖面に月が揺らいでいる。
二人で並んで草原に座った。
臨むは仙人の湖だ。
「先ほどは甘寧殿が乱暴をしてすみませんでした」
そう切り出した。
「根は気さくで良い方なのですがお酒が入ると止められなくて」
姫君は応えなかったが首を横に振った。怒っている様子は微塵もない。ただ少し怯えている。陸遜に対しても距離をあけて座っているし、視線を合わせようとしない。
陸遜は言葉につまって視線に困って湖を見た。紺色の湖だと思った。
夜空の色そのままだ。
ちらりと横目に覗うと、姫君は草を撫でていた。遠くの船の方角に小さな火が幾らか見える。明かりは遠くて幻のように揺らいでいる。
なぜだろう宴の音も聞こえない。
やはりここは仙人の神聖な湖なのだろうか。
陸遜はそれから話しかけるきっかけをつかめずについに諦めて立ち上がった。
小石を掴んで湖面目掛けて横ぶりに投げ放つ。
小石は水面を跳ねる。
みっつ跳ねた。
イマイチ
陸遜はもうひとつ拾い上げて水面に投げた。
今度は五つ跳ねた。
よし
もうひとつ拾おうと屈んだとき、三たび視線がかち合った。
姫君は大きな瞳をしばたたいて陸遜を見ていた。
「どうかなさいましたか」
「・・・跳ねました」
「はあ」
「石が水面を跳ねました」
「ああ」
陸遜はようやく気付いた。稀代の美姫は石を投げて遊ぶことなどしたことはなかったのだろう。異国の王族の血筋だったらしい。曹操に故国を焼かれ、幼くして美貌を見出された彼女だけが生き残った。陸遜が知っている噂はそこまで。
「やってみますか」
陸遜が拾ったばかりの石を渡すと、姫君は両手で受け取った。月明かりのせいで白いの平が青白く見えた。幼いてのひら。その美貌は三国にとどろく。小さな声は陸遜の耳にしか届かないのに。
姫君は石を受け取ると水際に立った。慣れない手つきで湖に投げ放つ。
たぷん、と滑稽な水音。
不思議そうな顔をしてから、残念そうに沈みゆく石を見送った。
「こうして、手首で横に飛ばすんです」
陸遜が腕を振るうとひゅっと空をきる音がした。石は跳ねた。見えなくなるほど遠くに行った。
姫君は石を拾い、陸遜を真似て腕を横向きに投げた。
しゃん、しゃんとたった二度だけ跳ねた。あ、と姫君は口を開けて陸遜を振り返った。
「お上手でいらっしゃる」
褒めると姫君は両手を小さくたたいて喜んだ。陸遜は和やかにその様子を見つめた。
見られているのに気づいて、姫君は叩いた手を下ろしてしまった。恥じ入っている。陸遜はきょろきょろと足元を見回して石をいくらか拾った。
選別して一番飛びそうな石を姫君に差し出す。
ためらいがちに石は新たな持ち主によって受け取られた。
陸遜は笑った。
「一番いい石です」
言葉の裏で思う。
この、小さな手を打ち鳴らす姫君の身体に無骨な男の手が触れたのだろうか。その首元に触れ、髪に耳に、腹に、胸に。蝕まれたのだろうか。
いけない。
考えてはいけない。
甘寧殿は悪賊から少女を救い出したことを誇るように言ったけれど、救い出したあとにこの少女はまた乱暴をされるのだろう。それが魏でも蜀でも呉でも同じこと。
この美しい人はただ美しいという理由だけで玩ばれ、傷つけられ、怯えるんだ。私はまだ名前を名乗っていないし名乗られてもいない。名乗ることはしないほうがいい。これ以上この人に関わってはいけない。情をもってはいけないんだ。
「礼を言います」
「え」と虚をつかれた陸遜は唇の端から声をこぼした。
少女は水面に臨み、両手を前にそろえて佇んでいた。
片手の平にはまだ石があるだろう。
陸遜の選んだ、一番いい石が。
「あの場で助けてくださいましたこと」
「助けてなど・・・」
助けてないどいない。ただ乱暴をされる日が今日から明日にかわるだけ。
「わたくしは永六輔と申します」
知っている。その名を三国の将で知らぬものなどいないだろう。陸遜には姫君が気落ちしているふうにも気楽に喜んでいるふうにも見えなかった。その横顔に湛えられた微笑は静謐な夜の湖に似ている。
気高く尊い、そして聡い。
内側が、水面より先が少しも見えない。
自分が自由になることはないと知っているのろうか。また男の手に渡されることを理解しているのだろうか。戯れに興じる振りをしているのだろうか。
石は手の中、
あの石はもう永遠に水は切るまい。
あと何時間で今日は終わるのだろう。あと何時間でこの人は。
嫌悪に苛まれる。この人を傷つけるのは同胞だ。あの船にいる孫堅や甘寧や、凌統かもしれない。もしかしたら自分がこの手で。
水音がした
陸遜は音に弾かれ顔をあげた。
姫君が水の中に入って行く。
足首、膝、太もも、腰まですでに水につかっている。
「なにを」
陸遜の足が湖を水を踏んだ。
「とまりなさい!」
そう言ったのは自分だったのにこちらの足が凍りつく。足首を湖にいれたまま陸遜は動けなくなった。
金縛りのようだ。
水は冷たい。
氷かもしれない
ちっとも動けない。
姫君も胸から下をすべて水につけて、そうして止まっている。水を吸ったきらびやかな羽織りだけが先に沈んでいった。少女の纏うのは薄い襦袢だけになる。
「つめたい」
森の精霊の声のような、幻のような、
奇跡のような声音、姿、誰にも汚すことなどできはしない。できはしないのだ。
でも汚される。
明日、明日にも。今日はいつおわる明日はいつ始まる。いつこの湖を出てあの船に戻る。
守る方法はなんだ。美貌の君を若輩が娶れるものか。叶うはずも無い。
叶ったとしても確かに他から守れるだろうがそれはほかならぬ自分が汚すということではないのか。
水を跳ね上げ、掻き分け。陸遜は姫君の着物を掴んだ。
引き寄せる。
水滴は顔を落ちる。姫君に下る。
服に水が沁みこんでずんと重くなっていく。このままもう少し向こうまで歩いて、湖に沈んでしまったのならいっそ、いっそ
己の思考のなんとあさましいことだろう。
おびやかすことなどしたくないのになにもできない
いくら知を学ぼうと
いくら剣を磨こうと
この小さな温かさをどこへ
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