陸遜は湖のほとりに座っていた。
空はまだ薄暗い、明け方のもやで視界が悪い。泣きはらした目が痛い。
陸遜は外套の襟の中に顔をうずめていた。
数刻前、まだ空が夜だったときに陸遜はここで水切りをした。
傍らにはという娘がいた。
今は夜ではないし
水切りもしてないし
一人きり
姫は今頃蜀の馬将軍の閨に居るだろう。
陸遜は抱えた膝の間に額を寄せた。
あれから陸遜は一睡もできず、明け方皆がすっかり寝静まるのを待って湖に来たのである。
来る途中、黄忠将軍だけが起きていて「早いな、若いの」と声をかけられた。
此処に来るまで通ってきたのは蜀の陣の近く、あの天幕のどれかに、どれかの中に。
中に。
馬将軍に腰を抱かれた姫君が助けを求めるように陸遜を見た場面
水切りに成功して手を叩いて喜んだ場面
水の中で抱きしめた場面
瞬きをするごとに瞼の裏に浮かんで、陸遜は首を横に振った。なんて女々しい、と自嘲する。

立ち上がり、石を拾う。身体を動かしたかった。
石を手の中で放り上げ、掴む。放り上げ、掴む。集中して湖面の向こうに狙いを定める。
息を止め
せー、のっ



跳ねた
跳ねた跳ねた跳ねた跳ねた、おいおいどこまで跳んでいくんだ、これは凄いぞ

ぱしゃん

「最高記録だ」

陸遜は呆然とつぶやいた。

ぱしゃん

これは別の水音であった。
陸遜が音のほうを向くと、足首から先を水につけた姫君が立っていた。
目を疑う。
陸遜は踏み出そうとして「そのままに」と制された。十歩あまりの距離だ。

「そのまま」

なぜここにいるのか
尋ねようとして陸遜は喉が詰まったようにしゃべれなかった。

「少しの間、向こうをむいていてほしいのです」

どうして、とこれもまた声にならなかった。
姫は苦笑した。

「清めたいのです」

陸遜と離れたときのあの襦袢姿、もとからといていたはずの髪は乱れている。
つまり、そういうことだ。
陸遜は何も云わずに背を向けた。
ぱしゃ、ぱしゃんと水に入る音。ハラハラした。

「と、遠くに行かないでくださいね」

陸遜はそれだけ伝えた。
「ええ」と少し笑ったらしい声がした。

水音、水音、水音。距離は近い。近い場所で身体を拭っているのだろう。
おぼれることはないだろうけれど、暫くしても陸遜の動悸はおさまらなかった。
壊れたように早鐘をうつ胸をおさえる。外套がくしゃりとシワをつくった。
はっと気づく。


「よろしければこれを」


陸遜は自分の着ていた外套を掴んで後ろ手に差し出した。
足音が近づいてくる。
背後まで来た。どきどきする。

「あなたは寒くありませんか」
「ぜ、全然、まったく!暑いのでっ」

それは本当だった。心臓が活発すぎて汗さえかいている。

「有り難う存じます」

外套が受け取られた。
陸遜は泣きそうだった。



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