、殿!」

食事を終えたのを見計らい、馬超は椅子を倒して立ち上がる。するとさっと後ろに家来が来て椅子を直し去っていった。
寒い夜である。

「う、うま!」
「馬?」

卓の対極に座るのこてんと首をかしげた仕草さえ馬超を奇襲のように攻めたてる。
恥ずかしさのあまり馬超の肌からは湯気が立ちのぼっていた。
「い、いや馬ではなく、うまい酒がある!のだ・・・です」
一緒に食事をしていた馬岱は食べ終わった食器を持ってすみやかに戦略的撤退をした。
食卓を囲んで二人きりだ。

「よろしければ、一献」

「・・・いただきます」
肩で息し、血走った目で睨むような馬超に対し、はおとなしい。
酒と椅子を持って移動し、の横に腰かけた。
あいていた二つの湯のみにとっくとっくと注ぐが、どうしても手の震えが流れ落ちる酒に伝わってしまう。に見られていないことを願った。
「酒は飲まれるのか」
「飲んだ回数は多くありません」
「あ、苦手ならば無理に飲むことは」
「たくさん飲んで正体を失うのが怖いですが、少しでしたらきっと」
殿は湯飲みをうけとって小さく笑った。
このかわいい人が正体を失ったらどうなってしまうのか、馬超はめくるめく不謹慎な想像にごくりと唾を飲んだ。って、そうじゃない!と自分に怒ってすぐさまかぶりを振って邪念を払う。
目の前のひとは普段は感情が一定で泣くところなど見たことがないが、ぴんと張り詰めている心の糸がゆるんだあの熱の夜にはあんなに簡単に泣いていた。酒で心を緩ませられるならぞんぶんに泣かせて、発散してほしいとそう思っての催しであった。
馬超は最初から緊張しっぱなしだったが、がどんなに泣いてわめいて愚痴をもらしても受け止めようという覚悟をもってここに来ている。
死ねと言われてもかまわない。

一口、口をつける。
苦いと顔にでた。
しかしさらに口に流し込んでごくんと飲み込んだ。
ぎゅっとふさいだ目に力が入り、も一度開いた時には瞳を涙の膜が包んでいた。
唇をぽかんと開け、白い指をほそい喉にあてて、喉をはしった感覚に驚き笑う。
不慣れな様子に馬超は思わずくつと笑った。
「そんなにだろうか」
「喉がひりひりします」
「飲みやすいものを用意したつもりだったのだが」
銘柄を間違えたかしらと思って馬超もあおってみる。うん、うまい。
馬超といえば常に酔っ払っているのではというほど元気いっぱいだが、実際酒を飲ませるとうわばみなのだ。いける量でいえば張飛には遠く及ばぬものの、ベロンベロンになる張飛に比べて馬超は最後までケロっとしているという違いがあった。
馬超がうまそうに飲んで熱い息を吐くのを見ると、は意を決したようにもう一度口をつけて、薬を飲むようにごっくんと飲み下した。
馬超は苦笑する。
「ゆっくり」
「っはい」
喉の熱気に耐えながらは素直にうなずき、馬超は卓に肩肘をついてその様子を興味深く見つめていた。

「・・・昔からあなたはそういう風だったのか?」
「どういう風でしょうか」
「ですから、そういう」

素直で、あいらしいふう・・・

「い、いや!違う、そういうふうとはっ、そういう、ごっくんと飲む感じで!」
「今ばかりかと」
「そ、そうか」
「・・・」
「・・・」
「・・・」
「・・・」

あわせていた視線がどちらからともなくそらされ、沈黙が重くのしかかってきた。
落ち着かず、手遊びに持った酒がみるみる進んでゆく。
が負の気を発しているわけではなかろうに、馬超は責任感と使命感に身の内から罵倒される。
お互い緊張しっぱなしで酔えなければこの酒には何の意味もない。大して気に入ったわけではないだろう酒を馬超にすすめられたからといって断れず飲まされるの身になってみろ。と、をちらと上から覗くとややくつろげられた襟から鎖骨と、両の乳房が織り成すげいじゅつひんのような陰影が目に飛び込んできた。
げいじゅつひんだ、と馬超は鼻と口をおさえて思う。
いつのまにこんなに乱れなされた。
の襟がゆるんでいる原因はどうもその姿勢にあるらしい。首が前におち体が斜めに傾いた結果、衣が引っ張られての防御力を下げているのだ。
殿?」
「・・・」
「おーい」
「・・・」
「もしもーし」
「・・・」
おっかなびっくりに指でニ、三度肩をつついても反応しない。そっと肩に手を置きゆすってみると首がぐらぐら揺れた。
飲み始めてたった四半刻、堅牢と決め付けていた城砦が陥落した。
酒で泣いて愚痴って発散してもらおうという当初の作戦は失敗したが、馬超は姫君を離れまで送り届ける役を得て嬉しさを隠せない。送り狼をしようというわけではない。ただ、なんでもいいからこの姫君に施せることがあるのが幸いだった。
自分の羽織っていたのを肩からかけてやると爪先までそっくり隠れてどきりとする。起こさないよう慎重に背と膝の裏に手を入れる、と想像に反して首が苦しそうに反ったので母親がややごを抱くように抱えなおした。
「ん・・・」
居場所が落ち着かなかったのか、は馬超の腕の中で身じろぎする。
首に腕がまわり、馬超の頭は爆発した。
熱をもった体からは香気がたちのぼり、馬超の腰には羽扇で逆なでされたようなくすぐったい感覚がはしった。
馬超は理性が膝と共にくずれそうになるのを必死にこらえて、のっし、のっしと一歩一歩確実に離れへ進んだ。途中で寒風に吹きさらしになる渡り廊下も通ったが、ちっとも寒くなかった。

寝台へ横たえるとは寒がって馬超の羽織を放さない。
やあ困ったな、と馬超は普段のきりりと勇ましい顔を見る影もなく緩ませる。仕方なくというにはあまりにも誇らしげに、の身体に羽織を預けたままその上から布団をかけた。
それきり立ち去るには名残惜しくて、三国一とかいう美女のあどけない寝顔の頬を指の背ですこしこすってみる。

不運さえなければ、この人ともっと昔に出会っていて、存分に愛し合って、家族を持っていたかもしれない。二重三重に曹操が憎い。けれど束の間、いまだけは優しい想いが体じゅうを満たしてを見つめることができた。
「本当に、すまなかった」
聞こえないように言った。
聞こえる日にもう一度言うことを決めた。それから想いも告げる。
さて戻ろう、と踵を返して思い出す。帯をしたままでは苦しかろう。
「帯に触るぞ、殿」
変なことをしないという自分への戒めもこめて言い置き、袍と帯の間に手を差し入れ帯紐の固い結び目を解く。上半身を締め付けていた帯はいとも簡単に緩んで、の呼吸もどことなく楽になったようだった。
「・・・ん?」
抜き取った帯紐に何か括りつけてある。
なんだろうか。
持ち上げて月明かりに晒してみると小さな袋だ。
中から小石
親指の先ほどしかない
ただの、石












よみがえった
























***



「馬超殿、おはようございます」
「今日はずいぶんお早うございますな」

朝議より前に一番乗りで練兵場に入って朝練をするのは、星彩、関平の日課だった。
今朝はそれよりはやく馬超の姿があった。
広い土の上にただひとり、槍を振るい朝霧を裂く姿は勇壮である。

馬超は槍を止めた。
ぜいと息を吐く。
近づく二人の背に冷たいものがおちた。これは殺気である。
「おはよう」
いや違う、馬超はいつもどおり、朝っぱらから大きな声だ。

馬超は槍を木剣に持ち替えて、二人の相手をつとめた。
星彩と関平はそんじょそこらの兵卒とは違う、軍神関羽と武に戦鬼たる張飛の子である。それが二人がかりでかかっても馬超にまだ一太刀も浴びせられない。馬超は普段のやかましさとは比較にならないほど向かってくる真剣を淡々とをいなしていく。若い二人には次第に熱が入った。
やがてしびれをきらし渾身の力を混めて踏み込んだのは星彩だった。
一撃は木剣に根元から絡め取られ、ぽーんと曇天に跳ねあがる。関平は跳ねた剣に気をとられ、あっと思った瞬間には馬超に足をかけられ土にふしまろんでいた。



朝の鍛練にしては頑張りすぎた二人だが、土埃を払いながらも満足げである。
汗を拭き、朝議に向かう廊下で話題はやはりというか、いま馬超のあまり聞きたくないの話へ向いた。

の風邪はもう直ったのですか」
「ああ、おかげですっかりよくなられた」
「それはよかったでござる。元気になられたら弟の関索も連れて参りたいと星彩とこの前はなしていたのです」
「そうか」
「今度水きりをすると約束しているんです。関索は水きりがうまいから」
「水きり?」
が一度やって楽しかったと言っていたので。そのときがあまり楽しかったものだから教えてくれた人からもらった石をいまでも大切に持っていると」



その石とやらに、二度殴られた心地だった。



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