真夜中に明かりをもって離れを訪れた。
燭台にか弱い火を灯し、音を立てないように寝台の傍らに腰掛ける。
はうずくまり、目で見てわかるほどガタガタと震えていた。
熱を確かめようと額へ手を伸ばすとその直前でうっすらと目が開き、馬超を見つけた。
「い、いや、これは、そのっ」
馬超は慌てふためき自分の無罪を訴えようとしたが意味はなかった。馬超の姿は眼球に映っているだけで、視線と呼べるような意識はその瞳には宿っていない。いまのには何も見えていまいし、人の声も認識できていないだろう。ただただ雪山で凍えたように息と身体を震わせている。
馬超はほっと胸を撫で下ろしてから、しかしいっそう心配に思ってを見下ろした。
がもぞっと小さく動いて布団から肩が出た。かけ直すべきか逡巡していると、布団から片手がこぼれその手は馬超へ向かって弱々しく伸ばされた。
いまにもカクンと事切れそうで思わず両手ですくいとる。
小さな手はやわらかく、汗でしっとり湿って赤子のよう
震えて

「  」

がごく短くなにか言った。
聞き取れなかった。
水が欲しいのだろうか。耳を寄せる。

「  」

また同じ言葉を言う
音の調子で、これは姫君のふるさとの言葉だと思い当たったが、ならば馬超にはひとつもわからない。
涙の粒が頬をつたったのを見て馬超は咄嗟、強く握りかえした。そうすべきだと直感した。何を言われているかなどわからないのにここにいるという一心でがたがた震える手を握る。
すると、
は目を閉じた。
目をとじた瞬間にも、たまっていた涙があふれて目の端からこぼれて頬をすべっていった。
寝顔はさっきよりも楽になった表情をしている、気がする。
放しがたい手を布団にもどし、袖で頬をくすぐる涙のあとをぬぐってやる。
なにか施したくても馬超の大きく、節張った手は役立たずにも術を知らない。
「・・・」
馬超はの肩まで布団を持ち上げて、ポンとやさしく一度だけ布団に手を置いた。


















***



「よかったよう!殿が元気になって」
「馬岱様、まだ完治ではないのですから」
朝になって昨日よりは体調が回復したと聞き、飛びつこうとした馬岱は女中たちの掌底によって阻まれた。
「お身体を拭きますので殿方は出て行ってください」
「はいはーい。それじゃあ殿、またあとで」
「あの、馬岱さま」
すたこら出て行こうとした背に風邪をひきずるかすれた声がかかった。
「昨日の夜に看に来てくださいましたか」
「ああ、うん。ホウ統殿のくれた薬飲んだじゃない。覚えてないです?」
「・・・そうでしたか」
「どうかしたの?」
はどこか恥ずかしそうに苦笑した。



「ねえ、若」
「ん?」
出仕の仕度中の馬超が振り返る。
「昨日殿のところへ行った?夜に」
「い、いや!」
声が上ずった。
「行ってないぞ!」
目線が泳ぎ出し、耳をふさぐ大声で、相変わらず嘘が下手だ。
「だよねえ」
一方、馬岱は騙されたふりはお手の物である。
「どうかしたのか」
「いやあ、あのね。殿ったらお父君の幻覚をみたんだって。ずいぶん熱がひどかったんだろうなあ」
「そうか・・・父君、か」
馬超は一瞬複雑そうな表情を見せたけれど、気を取り直して苦笑した。
苦笑には嬉しさ、やさしさ、落胆が4:4:2の割合でふくまれていた。






***



馬超が出仕すると一番に趙雲と出くわした。
「馬超殿、おはようございます」
朝議の場へ向かいながら話題は当然のようにかの姫君の話に向く。
殿のお加減はいかがですか」
「おかげで、昨日よりはよくなられた」
「それはよかった。もし迷惑でなければまた見舞いにうかがいたいのだが」

「もちろん!」と言うべき口は「も」で止まった。

馬超は立ち止まり床を向き、行き過ぎた趙雲も立ち止まる。
「申し訳ないが、趙雲」
床をむいていた錦馬超の切れ長の目が、すいと上がって趙雲を見た。
殿は人が近くにいるとしっかりしてしまうたちらしい。しばらくは一人でゆっくりさせてやりたいのだ。すまない」
趙雲はおやと眉をあげ、しかしすばやく正確になにかを承知して、ゆっくりと首を横に振った。ほんのわずか、残念そうに。
「いや、馬超殿の仰るとおりだ。快癒なされてから伺うとしましょう」

想いを示した。
姫君にでも、趙雲にでもなく、馬超自身に示したのである。

これより、「綿馬超」は錦馬超の精彩を取り戻しはじめた。
立てば昇竜、座れば玄武、駆ける姿は大雷神
廊下を行けば左右に人が分かれて見上げ、街を行けば黄色い悲鳴と野太い雄叫びが向けられる。
朝議においては役に立たず、練兵においては馬超になぎ倒されるたび兵士が「ありがとうございました!」と嬉々として礼を述べる日常が戻ってきたのである。
相変わらずの前では言葉少なだが、一緒の時間に同じ卓で食事をしようと馬超から申し込んだ。馬岱と家来は涙した。



そんなある日に馬超は馬岱を書斎に呼びつけ、こう尋ねた。

殿は、俺と同じ時間を過ごすことを嫌がらないな」

「ようやく気づいた?」
「ようやくって、おまえ知っていたのか。いつから?」
「ずっと前だよ」
「なぜはやく言わぬ!」
「畏れながら、若様がご自分でお気づきになられるべきと思ったからでございます」
「なんだと」
「ひどいことをしたっていう自覚があるんでしょ。ちゃんとご自分で姫様のお心と向き合ってください、って思って」
馬超は痛いところを突かれて、「うっ」と言いよどむ。
しかし怒りを収め、唇を引き結んで木卓に目をおとした。

「なぜ厭わぬのだ」

苦しげに呟かれた疑問はしばしば馬岱も考えた。そしていくつかの答えも想像した。
怨敵に散々もてあそばれた穢れを思えば馬超に一度手篭めにされたことなどとるにたらない。
手篭めにされた嫌悪はあれど生き残るには親しむよりほか仕方ない。
故郷を失った同族と知って相憐れんだ。
とっくの昔に心が壊れていなさる。
いずれにしても、の口から言わせるのが酷に思われて馬岱は直接聞けなんだ。
「俺は女ではないが殿がどれだけ嫌がっていたかは自分の目で見て知っている」
「・・・」
「嫌だと言っていた。怖いと言っていたんだ、もがいて・・・」
馬超はため息をして肩をおとした。
「岱よ。俺はおかしい。姫君の心が壊れていないことがいっそ悲しいような気がするのだ。あの人が笑うのを見るたびに罪悪感が苛む」
「それで、若はどうしたいの」

こんな思春期みたいな簡単な問答で、馬超は虚をつかれたように顔をあげた。



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