一対一のろくにんめ  ホウ統



「風邪だと!」

馬岱は風邪をひいて動けないと告げた女の召使いがびくりと震えた。
その後ろには、殿がうつむいて立っている。馬岱に言付けておいたとおり足が開ける履物をはいて。
「は、はい、ひどい熱で。いそぎ馬車を用意しましょうか」
「ホウ統殿の庵までの道は馬車では行けぬ」
誰かが一緒に乗って手綱をとってやらねばならない。
門の近くまで二頭の馬をひいてきた下男にどうかと視線をやってみると、滅相もないといった様子で首を横に振った。当然だ。二人で乗れば必然、体は密着する。我が従兄弟だから信頼を置いて姫と乗ることを許したのに、こ、これでは・・・。
「あの、旦那様と様のお二人で、ということになりましょうか」
「それはできぬ!」
「・・・」
まさか乱暴した男の馬に乗れというわけにはゆかないだろう。見よ、殿は口もきけない。俺と行くのはつらすぎて押し黙ってしまったのだ。ホウ統殿には悪いが日を改めるよりほかは
「うん?いない」
女の召使いの後ろから殿の姿が忽然と消えている。
馬がいななく。
下男がのけぞって、岱の馬にまたがる殿と目があった。



暗殺者の二人組のように無言で野を駆けた。
時折振り返ってついてこれているか確かめると、殿は一定の距離をおいてしっかり追ってきている。
あの人もまた騎馬民族の末裔。
長きに渡る争いの収束へ向けて交易を再開した最初の品もそういえば互いの国の自慢の馬だったか。
速度をゆるめることなく走り続け、もうホウ統殿の庵の屋根が見えてきた。

馬屋へ寄せて俺は何の気なしに馬から降りたが、殿は降りた途端によろけて馬の腹に軽くぶつかった。
大丈夫か
たったそれだけの言葉が喉にひっかかって出てこない。
臆病者め、自分を罵る。
ちらとうかがい見れば長い時間冷たい風に晒された前髪はわけられ額がそっくり見えて、頬はばら色に灯っている。吐いた息はほうっと白い。
じわ

と俺の目が潤ったのはなぜか。駆けて乾いた目に水がもどってきただけに違いない。
「いやあよくきたね」
ホウ統殿はいつものしゃがれた声でひょこひょこと馬屋へ現れた。予定よりずっとはやい到着にも嫌な顔ひとつせず、殿を見るや「おやおや」と笠の前をあげて笑った。
「こんな辺鄙で居狭きすまいへお招きするのが申し訳ないようなお方だねえ」
語尾はこちらに向けられたが「ああ、いや」とかはっきりしない返事しかできなんだ。






***



改めて
一対一のろくにんめ  ホウ統



「さて、はじめまして」

あっしの庵は謙遜でなく狭くて粗末。
三国一とか箔のついた美女と、錦馬超とか二つ名の付いた大丈夫を置くには忍びない。
高貴な姫君は隅っこに雲の巣が張る畳の上など嫌がるかと思ったが、座布団と粗茶をすすめると丁寧に礼を述べて抵抗なくお座りなさる。むしろ駄々をこねたのは馬超殿のほうだった。
「俺は馬屋でいい」
なんてふてくされて座敷に上がろうとしない。理由はこの庵が粗末だからというわけではなさそうだ。さっきからお姫様と一度たりとも目をあわせやしない。
妥協案で狭い座敷の隅っこに座ってくれたものの、唇をへの字に結び、組んだ腕は永劫ほどけないんじゃというほど堅い。そして隅っこからお怖い気を放出し続けている。
なるほど、諸葛亮から聞かされた戦利品騒動は本当らしい。劉備殿が命じてこの姫はいま馬超殿の屋敷にいるらしいが、どうせその命令も、あれが羽扇でそよそよ口元を隠しながらそそのかしたに違いない。どこまで分かっていてなにがしたくて仕組んだのかはわからないが、乙女がぬれそぼった花のように気まずい圧力に耐えているのを間近に見たら、味方しないわけにはゆかないね。

「そのお茶にはね、こいつを入れてあるんだ」

殿が茶に口をつけていたところで声をかけ、片手間にごりごりやっていたすり鉢の中を殿へ傾けてやる。
大きな瞳がじっとすり鉢を見てまばたきした。
「薬草ですか」
「乾燥させた芍薬の根を粉にしたものさね。こいつは手足の冷えに効くんだよ」
殿はしげしげと自分の指先を広げて見つめるものだから口布の奥で笑っちまった。世間知らずもたまには面白い。
「そんなにすぐに効きやしないよ、ついでにこっちは桂枝といってね」
次々に乾燥させた植物の根やら茎やら実やらを並べ、ひとつひとつその効能を説明してやる。お客様は両方口下手そうだからこっちが話してやったほうがよいだろう。
たいして興味はなかっただろうに殿はいちいち真剣にこちらが言うことを受容して、ときおり質問などしてくるものだからあっしは年甲斐もなく嬉しくなって話をつづけちまう。
馬超殿はあっしのほうか姫君のほうか知らないが、なにかおもしろくないらしく、殿の目が生薬に向いているときだけ殿をじっと睨んでいなさる。想いあって見つめていなさるなら、も少し優しく見たほうがよかろうよ。

生薬話も宴もたけなわ、占いを見せてやることにした。
どうもこういうのはお偉方と同じくらいご婦人にウケがいい。

「当たるも八卦、当たらぬも八卦」

言って、じゃらっと床に広がったたくさんの串に、は何事かとあっしと串とを交互に見やる。
殿には菜箸が汚い住まいを余計汚くしたようにしか見えていまい。

「これはなんですか」
「占いだよ」

殿は床の箸を真剣に見直したが、馬超殿はあきれ顔で眉をあげている。
占いと言うのはどうも武人がたにはウケがわるい

「ふむ・・・晴天の中天とあるね」
「どのような意味があるのですか」
「晴天の中天は曇天の土中の逆さまだ。おまえさんが心を開くことが吉道とでている」
「心を開く」
「そうさね。あと、こっちは傷病の傍人とあるね。おまえさんの近くに病人がいるなら親切にするといつか自分に返るよ」

あ、と殿は顔をあげた。

「馬岱様が風邪をお召しで戻ったらお見舞いにあがろうと思っていました」
「是非そうなさいな」
「・・・邪魔にならないでしょうか」
「長居はいけない。けどね、弱った時に世話をやかれると大人だってほっとするものさね」
「はい、ホウ統様」

殿こそほっとした様子で頷いた。
これを見て聞いて、馬超殿は目をまん丸にひん剥いなさる。察するに、殿が馬岱殿を好いていると勘違いでもしなさったんだろう。本当に想いがあるならあっしとおまえさまのいる前で軽々しく名前を言ったりしないお姫様だと、あっしは思うがねえ。

「じゃ、次は馬超殿だよ」
「俺は別に」
お構いなしにジャラっと箸を散らばす。
「ふむ、ふむ」
読む時間を長めにひっぱってやると馬超殿の表情が鈍って、さすがに気になり始めたご様子だ。
も少しひっぱっちゃおう。
「ううむ・・・」
馬超殿につられてか、殿まで固唾を呑んで言葉を待っている。
「今は、よくない」
「なっ!」
「けれど、抜け出す道はすぐ近くにあるとも出ている」
「・・・お、俺は占いなどハナっから」
「転の尾を掴むには勇気を出して一歩踏み出すことだよ。ラッキーアイテムは、馬」






***



「ホウ統殿、今日は世話になった。礼は改めて」
「かまわんさ。眼福眼福」
口布と笠の間の細い目が皺みたいに笑った。
俺が自分のと岱の馬に鞍をかけて準備をはじめるとその後ろ、馬屋の入り口あたりではホウ統殿と殿がたいそう親しげに別れの挨拶をしている。
「そうだ。ちょっと待っておいで。風邪っぴきの馬岱殿へいい薬があるんだよ」
ホウ統殿が馬屋を出て行くと予想通りの沈黙の帳がおちた。
馬のいななきすらない。
手遊びがないと落ち着かず、馬岱の馬の手綱をとって無言で差し出すと殿は早足に寄ってきて、手綱の直前で藁の束につまずいた。
「あ」と思って腕を広げると確かな重みが胸に飛び込む。
取りこぼさぬよう咄嗟に掴んだこの二の腕のやわらかさとこの香気はなにか
パッと手放す

「す、すまないっ」
「・・・いえ、ありがとうございます」
「その・・・怪我は、ないか」
「はい」
「・・・」
「・・・」
「これだよ、これ。馬岱殿に飲ませればすぐによくなるよ。おや・・・二人ともお顔が赤」
「そそそれはホウ統殿の煎じた生薬のおかげに違いない!ててて手足が暖かいなあっ!」


















二頭が来た道を辿りはじめる。
まもなく、先を行っていた俺は馬を止めた。
なにかあったろうかと馬を並べた殿に、いや、自分の馬のたてがみに
「速かったろうか」
尋ねた。
ぱちぱちまばたきしただけの殿を横目に見る。聞き取れなかったのかもしれない。
「行きはあなたにとって速かったろうかっ」
もう一度たてがみに話しかける。

「いえ」
「正直に言ってくれ!」

勇気の一歩目、だ。
これでいいのか、ホウ統殿。
別に、占いがあろうがなかろうが俺はこういうべきだったし、言いたかった。
言いたかったのだ。
歯を食いしばり殿の目を見る。

「・・・・・・・・・少し」

心を開く一歩目
だろうか

「そ、そうか!」
思わず頬が笑い、はっとして顔を引き締める。
前を向き、腹を蹴り、再び野を駆けた。
行きよりも時間をかけて、二頭は屋敷へ帰った。
ラッキーアイテムは、馬。






屋敷に戻ると殿はさっそくホウ統殿から貰った薬湯を持って岱を見舞った。
俺は岱の部屋の扉にもたれかかって、仲良さそうに話すふたりを見てもやもやする係りだ。
「ううう、苦いぃ」
「体が温まりますから、すこしだけ我慢を」
「う、うん」
馬岱は鼻をつまみ白湯でグビーと流し込むと、えもいわれぬ味に悶絶している。
「これできっとすぐに良くなります」
殿に言われると「そうだね」と無理やり笑った。
俺はもやもやする係りを続ける。
「さあ、もう横になってください」
大の男が姫君に促されるままに寝転がる。
殿は馬岱の肩まで毛布を持ち上げて手のひらをポンと一度だけ毛布にあてた。それが大の男を気恥ずかしくもうっとりさせる。
「ちょっと、よして、恥ずかしいじゃない?」
ケッ、まんざらでもない顔でよく言う。
「母上がむかしこうしてくださったのです」
「・・・」
恋人にむけてする行為ではなかったと知るともやもやしたものが少し和らいだ。
俺は単純だと昔から自覚はあるが、自覚する以上に単純だ、俺は。
「お見舞いありがと。でもあまり近くにいるとうつしちゃうから」
「ゆっくりおやすみになって」
「若もありがとね」
「よく休め」

殿が寝台の横の椅子から立ち上がったのを見て、俺は一足はやく岱の部屋を出た。



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