少しひとりで休憩したいというを部屋に置いてチェインたちが上に戻ってきた頃、執務室には人数分の紅茶が運ばれてきた。
ニーカはパトリックを追いかけて下りて行ってしまったが、入れ替わりで氷が溶けたザップが資料倉庫から出てきたので紅茶が無駄になることはなかった。
紅茶を受け取っても窓際でぼうっとしているクラウスと、どこかに電話をかけているスティーブンを確かめて、ザップはどっかとソファーに座った。
「たく、ひでえ目にあったぜ」
「自業自得でしょ」
「うるせぇ犬オンナ」
テーブルの上に足を乗せて、葉巻をとりだすザップに反省の色はみじんもみられない。
「あれ?猊下ちゃんいねーの」
葉巻に火をつけようとしたときギルベルトがさっと後ろに立ち、ザップの葉巻をココアシガレットにすり替えた。
「本日は姫様がお出ましですから、どうかお控えください」
「ヒメサマってそんなギルベルトさん、褒めすぎじゃないっスか」
ケタケタ笑いザップはおばちゃんみたいに手を揺らしたが、ギルベルトははたとまばたきして口の前に手をたてた。
「おや、失礼しました。つい昔のくせで」
昔といえば、レオナルドは思い当たることがある。
「そういえばさっき、昔ラインヘルツのお屋敷に住んでいた時期があるって聞きましたよ。昔はそんなふうに呼んでたんですか」
あの見た目と雰囲気だ、そう呼びたくなるのはわかるがちょっと世界に入りすぎている。レオナルドもからっと笑った。
ギルベルトは包帯の奥の目をなごやかに細めて遠くを見た。
「ええ、あの頃はまだ姫君であられましたから」
「え」
「昨日のことのようにありありと思い出せます。最初は借りてきた白磁の猫のようだった姫様がすこしずつ笑うようになられて、疲れているだろうと私めにまでカモミール・ティーを淹れてくださったり、あれ以来誕生日にはお手紙と手縫いで刺繍のはいったハンカチや、ご自分で育てた花のブーケを贈ってくださる、はずかしがり屋で心優しくそれはそれはかわいらしい姫様で」
「ちょちょちょ、ちょっと待ってくださいギルベルトさん」
まだまだ輝ける思い出の引き出しがありそうだったギルベルトはやや残念そうに一旦言葉を止めた。
「あのころはまだ姫君、っていうのはどういう…?」
おや、とギルベルトは目を丸くした。
子煩悩な父親がいう“我が家のお姫様”のような慣用表現ととれなくもないが、公爵家のお坊ちゃんがすぐそこにいるだけに、別の路線も捨てきれない。レオナルドだけでなく、ザップもチェインもギルベルトの次の言葉を待った。
ギルベルトはほほ、とヒゲの奥で笑った。
「あの方は亡くなられたグレートブリーデン王室の第一皇子の姫君であらせられます。牙狩りの首座は王族から選ばれ、選ばれますと王家の系譜からはずれますので王位継承権は消滅していますが」
あごを最大まで開いて生み出された驚嘆の悲鳴がHLの空に響き渡った。
クラウスはこの大声すら聞こえていないように窓際から動かないが、電話中のスティーブンにひと睨みされてレオナルド、ザップ、チェインの三名は口を両手で覆った。今度は顔の穴と言う穴から汁が噴きだしてきて目が血走る。
「あの国が国王以外基本顔出しNGなのって、そういうことだったの…、牙狩りの大ボスになるかもしれないから。もしかしてアレも。ってことはあれも、あっちもか」
人狼局・チェインの頭の中では点と点だった情報が次々つながっていっているらしい。かの国の情報の隠匿に牙狩りの組織自身が関与していたのなら、道理で情報がつながらなくても放置されていたわけである。
「これは、少々おとぎ話が必要ですね」
とギルベルトはあくまでほがらかにいった。
「むかしむかし、伝説ほどのむかし、異界は今よりも身近なもので、HLほど身近ではなかったでしょうが、永きにわたる吸血鬼との戦いの中で人々は疲弊し世は絶望に包まれていました」
そんな中、ある一族が、研究の末に吸血鬼を退ける術式を紡ぎだした。
その術式の精度と力は絶大なもので、異界ごと血界の眷属どもをはるか遠くへ退けせしめ、人界に束の間の平穏をもたらしたという。
しかし、その術式にも欠点はあった。
その術式は絶え間なく呪文として唱え続けなければならないものだったのだ。昼も夜も100年も、1000年も。とうてい人の成せるわざではなかった。
そこで彼らは、人の道にもとるような壮絶な研究をさらに重ねて、ついに自らの一族の「血液」に術式を刻み、系譜が連なり血の続く限り呪文が途切れないようにすることに成功したのだった。
「平穏をもたらす退魔の一族の庇護を求めてまわりに人々が集まり、やがて国の形を成した。血界の者どもだけでなく人間にも術式が解読されることを恐れた彼らは、子孫が生まれるたびに術式が自ら形をかえるように設計し、今なお永劫の呪文として生きている」
本に書いてある物語を暗唱するがごとくギルベルトは感情をのせずに話し続け、結びに「それが牙狩りに伝わるかの国のおこりのおとぎばなしです」と真実味を遠ざけるようににっこり笑った。
ザップもチェインも信じていいのかいけないのか困ったような顔になったが、レオナルドはひとり、滝のような汗をかきギルベルトのおとぎ話の信ぴょう性を考えるどころではなかった。
「ホ、ホンモノのお姫様…」
とすれば、レオナルドはさきほどかの大国の王女殿下をさんと気さくに呼んだだけでなく、お姫様のお胸様におタッチをしてしまったということになるのだ。バレたら軍隊に殺される。
「今となってはそれを純粋に信じて猊下を信奉するなんて奇特な人間は、牙狩りにもほとんどいないがな」
いつのまにか電話を終えていたスティーブンが、あいつくらいだ、と窓際のクラウスを肩で指した。
「とはいえ、まかり間違っても呪文がとぎれちゃならんと未だに王家の特定親等内から首座に就く者が一人選ばれ、牙狩りの最も重厚な魔除けと厳格な戒律の中心で保護されている。猊下の家の側からしたら牙狩り内での権威の維持と、我々からしたらスポンサーの維持と、利害が一致しているからだな」
「スポンサーなんスか?この前の一夫多妻制の王子みたいに?」
「ザップ、我々の活動資金が泉のように湧いて出たり、この前みたいないつ反故になるとも知れない臨時収入だけでまかなえると思うかい。あの国の首都の一等地はほとんど王家所有、つまり大地主というわけさ」
「猊下ちゃん盛り過ぎ」
スティーブンがびしっとザップを指さした。
「あの方は最大のスポンサーであり我々が提出する予算案の最終決裁者様だ。今回の対応次第でおまえの活動資金は倍にもゼロになるかもしれないということ、わかったな。絶っっ対に失礼のないように」
「へいへい」
「ちなみに今ギルベルトさんと俺が話したことを牙狩り以外に口外すると006部隊が殺しに来るから気を付けてくれ」
レオナルドの体が砂になってさらさらと崩れていくなか、ポーンとやわらかい音がして、扉の上にある昇降機の稼働をしらせる針が動き出した。






「そうだったんですか、さんはミスタ・クラウスのお知り合いだったんですね。ここ迷いますよね!あのっ、僕もわりと最近ここに住まわせてもらうようになったんですが、最初のうちはよく迷ってしまって」
上の階に戻る道がわからなくなり困っていたという彼女を昇降機まで案内し、一緒に乗り込んだ。
「外」の人間なら、初対面で悲鳴を上げられ気絶されることくらいは覚悟していたが、一瞬驚いた表情を見せたくらいで、折り目正しく丁寧にあいさつをしてくれた。
ツェッドは自分はあやしいものではないと間接的に伝えようと、親しみやすい話題を振って頑張ってはみたものの、どうにも動悸がして思うように話せない。早口になって、吃音も出たりする。
不思議なことに、昇降機の扉がしまって狭い箱のなかに二人きりになるとツェッドの不如意は加速した。
病気かもしれない。
「ツェッドさん、もしかしてお加減が優れないのではありませんか」
「え!いえ、あの、もともとこういう顔色なので、半透明の、くず餅、のような…お気遣いなく」
何を言っているんだ、僕は…
言う言葉すべてを後悔する。
心の乱れは血法の乱れ
師の言葉を思い出しツェッドは落ち着こうと胸に手をあてるが、そのしぐさを胸痛があると思い違ったがツェッドの背中をさすって追い打ちをかけた。
「お気の毒に。クラウスの執事に医療の心得があるはずですから、もうすこしの辛抱です」
「げ、元気です!到着しました、どどどうぞこちらに」
勢いまかせに押し開いた昇降機の扉の向こうは、腐臭漂う血みどろの魑魅魍魎が視界いっぱいひしめき合いもつれて詰まり絡み合う、絶叫轟く亜空間だった。
閉じる。
「…間違えました」
この昇降機は四方すべてが扉になっていて、侵入者を撃退するために時によって「正解」が変わる作りになっているのをなぜか忘れていた。
「失礼しました。こちらです」
気配を読み、今度こそ正解の扉を押し開いた。
その向こうにいつものメンバーのいつもの風景が広がっていてツェッドはほっと息をつく。
「みなさん、下でさんが迷っていたので連れてきまし、た…」
さん、と呼んだツェッドに幹部二人がものすごい形相を向けた理由など、彼にわかるはずもなかった。



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