ブヒェヒェヒェヒェ!と下卑た笑い声が執務室にこだまする。
「いま名前で呼んじゃった?呼んじゃったよねえ?ぎょぎょぎょ~!?無礼千万ん~、ダメだよツェッドくぅ~ん、あちらのお方はゲーカ様なんだヨ?ゲーカ様ァ!ついでにスポンサー様でお姫様なんだぞォう?」
三人掛けのソファーに体育座りして落ち込んでいるツェッドの横に座り、肩に腕をまわしザップは絡みに絡んでいた。
ツェッドをいびるためのザップの言葉はいちいちレオナルドにも突き刺さる。
「ちょっとやめなさいよ。あんたの存在のほうがよっぽど無礼でしょ」
「犬は黙っとけ、俺は優しくも弟弟子に礼儀ってもんを教えてやってんだ。ホラホラホラッ、ツェッドくぅ~ん?耳をすませてあっちの旦那方の会話を聞いてみて!」

「ここがライブラの事務所なのですか」
「はい、猊下」
スティーブンが外向きの笑顔を絶やさずに応える。
再び勲章付きのジャケットを着こんだクラウスはスティーブンの横に立って何やら慌てているが、なにも言えずじまいで、別の服に着替えたがスリッパで進むうしろを気弱な背後霊のようにひたすらついて歩く。
「広々として良い場所ですね。花も」
「恐れ入ります」とスティーブンだ。
普段は緑の観葉植物やクラウスの小さな鉢植えがいくつかある程度の執務室だが、今日はいたるところに花が配置されている。昨日のうちに、ギルベルトが鼻歌を歌いながら花を活けていたのはこのためだったのだ。
花瓶の花を見ていたの視線が壁に備え付けられた本棚でとまった。
「大きな本棚…近くで見てもかまいませんか」
「もちろん」とスティーブンが言い、本の背表紙をまじまじと眺めはじめたのうしろで、スティーブンがクラウスのわき腹を小突いた。行け、という合図だ。
「…二十二子猊下」
行った。
「お気に召すものはありますしか」
噛んだ。
は微笑んでみせたが、その笑みにわずかにさびしげな色がにじむ。
「あなたにそう呼ばれるとなんとなく落ち着かない思いです」
「おそれながら、…」
そこでクラウスが言葉を止めてしまうと、はしずかに睫を伏せて本棚に向き直った。
あてもなく、ほそい指先が背表紙をなぞってさまよう
どうしようもなくなってしまった空気を、スティーブンが持ち上げにかかった。
「っよろしければ窓の外などもご覧になってはいかがでしょう」
機嫌をそこねれば、予算削減だ。必死にもなる。
「霧で下はかすんでおりますがそれもHLでは名物のひとつといわれております」
「そうでありましたか、ではさっそく拝見します」

「ツェッドくぅ~ん?聞いた?聞こえたァ?あのお方はそういうお方なワケだよぉ?猊下的な、お姫様的なお方なんだよぉ?」
空気を読まないことで一定の評価を得ているザップはさすがである。
チェインはわれ関せずを決め込み存在の希釈をはじめてしまい、歯止めがないとザップは面白いように増長する。
「あのスティーブンのアニキがあんだけヘコヘコしてんのに君ィ、ゲーカ様を名前で呼ぶとはワレどこの組のモンじゃあ!あぁーん?おぉーんピギ!」
後半急にヤクザぶったザップが凍結した。
レオナルドが凍りついたザップの足元を辿ってゆけば、窓外の景色を楽しむの一歩後ろで笑顔を貼りつかせたスティーブンが、唇の前に人差し指をあててこちらを見ていた。
「いかがです、猊下。こうして見下ろしてみると静かなものでしょう」
レオとツェッドは無言で何度も素早くうなずき返した。
「本当に。山荘のテラスで朝焼けの景色を見るようです」
着信を報せるバイブ音が聞こえ始め、スティーブンは電話を切ろうとしたがは「かまいません」と優しい笑顔を向けた。スティーブンはうやうやしく黙礼をしてから部屋の隅へと歩いていく。
「…猊下」
頼みのスティーブンがふさがったからだろうか、ぽんこつだったクラウスがようやく自分から話しかけた。
「紅茶はいかがですか」
ひとつあいている一人掛けのソファーを手のひらで示した。ソファーの横には、はじめて見る花模様のティーカップとクッキーを用意してギルベルトが待っている。ティーポットもおそろいだ。
「…ありがとう」
たたえた微笑はやはりどこかさびしげだった。
が一人掛けに腰かけると、入れ違いに、三人掛けのソファーにいたツェッドともうひとつの一人掛けにいたチェインが立ちあがった。クラウスの分の椅子がたりないし、同席は無礼なことだと察してのことだろう。
逆にこういった気遣いをは気にしそうだと思いつつもレオナルドも立ち上がる。三人掛けの真ん中にいたザップだけは席を離れる素振りもなく誰より早くクッキーに手をつけた。
「どうかそのままで。…よいでしょうか、クラウス」
「猊下の御意のままに」
またあの表情だ。
クラウスの椅子もすぐにギルベルトによって運ばれてきた。
「…」
「…」
「…」
「…」
が紅茶に口をつけると、レオナルドたちは素早くアイコンタクトで作戦会議を開始した。
(おめえ一番新入りなんだからなんとかしろよ魚介類)
(……)
(さっきザップさんがからかうからツェッドさん落ち込んでるじゃないですか!)
(謝りなさいよ男子ィ。つーわけであんたしゃべんなさいよ。そして失礼こいてミスタ・クラウスに睨まれて死ね)
(んだとこの犬オンナっ!)

「ギルベルトの紅茶は変わらずおいしい」
「お口にあってようございました」

(つかザップさんハイウェイ落ちたときは普通のナンパっぽくはなしかけてたじゃないですか)
(あんなん目の前でやったら旦那と番頭に、強火で焼いてさっと冷やす、ってお料理番組みたいにされるの目に見えてんだろうが)

「ミスタ・レンフロ。さきほどは危ないところをありがとうございました」

(ちょ、こっち向いてるけどミスタレンフロって英語!?なに語!?フランス?あ、俺か)

「ヘイ!?あ、や、全然ッスよ~、全然」
(さっきまでのツェッドさんに絡んでいた勢いはどこいったんですか)
(あーもう怖い怖い旦那がめっちゃこっち見てる睨んでる超怖ェっ)

「みなさんの素晴らしいご活躍は報告書でいつも拝見しています。先日のラリントンパークの一件もライブラの見事な連携で早期に収束されたとか」

「…」
「…」
「…」
「…」
(ちょ!だ、だれか何か言ってくださいよっ、無視してるみたいになっちゃってるじゃないですか!聞いてはいけないことだったかしら、みたいになっちゃってるじゃないですか!)
(……)
(お魚はいつまで凹んでんだっ、いい加減に参戦しろボケ!あ、犬オンナてめえなに希釈はじめて)
「畏くも猊下におかれましては、此度はどちらにご滞在ですか」
クラウスが脈絡なく強引にではあったが話を切り替えてくれて助かった。もそんなふうだ。
「ホテルはザ・ルーツ・オブ・シャングリラと聞いています」
「え?誰がいるって?そっちの後ろの音がすごくて聞こえないんだ、え?」
部屋の隅にいるスティーブンの電話の声がにわかに大きくなった。
「もしもし?なに?ルーツ・オブ・シャングリラが爆発?」
室内に緊張が走った。
クラウスはすぐさま立ちあがりの肩を引き寄せると、窓外に厳しい視線をめぐらせる。
テレビのスイッチをいれたのはギルベルトだった。
天井にかかった画面には瓦礫の山と成り果てたホテル・ザ・ルーツ・オブ・シャングリラの緊急速報が今まさに映し出されていた。もうもうと黒煙をあげて五つ星ホテルは見る影もない。
「どっかで情報もれたんスかね」
けだるそうにザップが立ちあがる。
掌中には針付きのジッポライターが握られ、ツェッドの三叉槍はすでに細く鋭く現出していた。チェインが「調べますか」と口にした時には体の半分までが景色に溶け込んでおり、レオナルドとソニックはオロオロした。
HLでは、「ちょっと運がわるい日だった」で片づけられるハイウェイの爆発も、その直後の異界人の急襲も偶然ではなく、を狙ったものだったのかもしれない。
滞在予定だったホテルの爆発により急転した空気に呑まれは体を固くし青ざめていたが、動揺からか不意にどこかへ歩き出そうとしたのを、クラウスの大きな手が引き寄せなおした。
スティーブンは端末をあてているのと反対の耳を手で押さえ、ずいぶん電話のむこうが騒がしいのか彼にしては大きな声で通話を続けている。

「すまん、聞こえない、電話かわるって誰に?え?もしもし、エイブラムスさん?!」

スティーブンはスッと鎮まり、チベットスナギツネのような顔で通話端末をこちらに向けた。
むこうの声は大きい。

「ようステ坊!ちょっとぶりだが元気にしてるか、いやなに、ちょっと後ろでホテルが爆発していて騒がしいんだがまあ用件だけ言うとだな!いまこっちに猊下が来てるかもしれないんだな、これが!」

8人もいるのに、執務室は水を打ったように静まり返っている。

「血改めの儀式とはいえ、こっちは危ないから俺が一緒についていくはずだったんだが本部の連絡ミスがあったらしくてまったく!そんで宿泊先に来てみたんだがどうもまだ来てないみたいでなあ!おまえらんとこになにか情報入ってないか?たしかそっちに胸のデカい人狼局のねーちゃんもいたろ?いやあそれにしてもこんな危なっかしいホテルに猊下が泊まるはずだったなんて、到着する前に爆発しちまっていっそよかったってもんだよなあ!」

ほぼ全員がホテルの爆発原因を察し、スティーブンはそっと端末に耳をあてなおした。
「猊下は今オーストラリアにご滞在中だそうです」
「なにィ!?そっちだったk」
電波状態が著しく悪化したということでスティーブンはそっと終話ボタンを押した。
レオナルドは力強くサムズアップした。



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