「はい、おやすみなさい」
告げて扉の前を少し離れたそばから絶叫が聞こえ、スティーブンはあきらめて上に戻った。

すでに時計はAM2時をまわったが、明かりのついていない執務室でクラウスはまだ机に指を組み、難しい顔をして座っていた。部屋の隅にはギルベルトがひっそりと控えてる。
「様子はどうだった」
「ずいぶん楽しそうだったよ。何に盛り上がってるんだかさっぱりわからないけど、女三人寄ればかしましい、ってね」
「猊下が心穏やかに楽しんでおられるならばそれは喜ばしいことだ。睡眠不足は少々心配ではあるが」
クラウスを通り過ぎ、霧にかすんだ夜景を臨む窓に立ってスティーブンは情報端末に届いた端的な報告を確認する。
「本部からは“確認中”の一点張り、人狼局には暗殺関連の情報無し。だがあっちも本部への照会は確認中、で突っぱねられているらしい。ひとつだけ事実として掴んでいるのは、チェインの言っていたとおり地下で第二十二子の写真が出回っているという件だな。出所と持っている連中を諜報部が追っている。君の兄さんはなんて?」
「猊下をよくお守りするようにと」
「それだけ?本部の動きについては?」
「…それだけだ」
「上がそれじゃあ本部の応答も鈍るわけだ」
「…」
「ザップたちのお師匠の行動に関してはこれまでもこれからもさっぱり読めないからほうっておくとして、問題は本部のほうだ。卿会の全会一致ではなかろうが、顔写真のバラまかれた猊下を本部の護衛なしでHL入りさせるということはそれだけで大雑把だが確度の高い暗殺計画だ」
クラウスは岩のごとく押し黙る。
スティーブンは冷たく目を細めた。
クラウスは二十二子暗殺計画を信じたくないのだ。彼だけがそうなのではない、ラインヘルツ家が特にあの娘に肩入れしている。
7年前にの父親の殺害絡みで起きた騒動は牙狩り内ではあまりに有名だ。
牙狩りの首座候補の血統が仇敵に害されたわけである。それだけでも前代未聞のおおごとだったが、さらに悪いことに逃げ延びたほかの家族も吸血鬼のターゲットの目印であるマーカーをつけられ、首座候補の家族はそれぞれバラバラに強力な退魔陣営に助けを求めた。
そのなかでいち早くの保護を申し出たのがラインヘルツ家の長兄だった。
その理由はひとつ
次の首座をめぐる下馬評ですでに彼女は最有力候補だったのだ。
関係を深めておいて損はない。マーカー付きの小娘を、その呪いが消えるまでの一年弱、ラインヘルツ家の家族も住む屋敷に住まわせ妹同然に大切に扱ったという。
兄たちの権謀術数にはひとつも気付かずに、この男は哀れな娘を心から慈しんだに違いない。
下馬評どおり二十二子、が首座に選出された時の感情の奔流は兄君方とクラウスで色は違えど、ひとしおのことだったろう。

「情をかけるなよ、クラウス。本部との板挟みになる」
「できない」
「だろうな。言ってみただけだ」
こうなってはもう何を言っても無駄だとよく知っている。
呆れ半分、甘やかし半分で大きなため息をついてこちらが折れたふりをする、そうして水面下で音もなく二十二子の“切り離し”も含めて根回しにとりかかる。それがライブラにおけるスティーブンの役回りだった。
それなのに、ただでさえ上にあからさまに情報を隠され、利用されかけている腹立たしさがあるなかで、クラウスがきわめてまじめな様子で一言付け加えたから、スティーブンを苛立たせる。
「必ずお守り申し上げる」
「それっていつまでだ?」
スティーブンは言うはずでなかったことを挑発的に口走っていた。
言葉をつげなくなったクラウスを見ずに、スティーブンは部屋を出た。
扉を開けた一瞬、蝶番の隙間からギルベルトがこちらを見ていた気がしたが、その執事は部屋の隅で目を閉じオブジェのように佇んでいるだけだった。



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