の家に比べればラインヘルツ家の拠たる屋敷は広くなく、質素である。

それは国王の孫であるの家に比べればということで、一般人から見ればこの屋敷ははてしなく広く、質素なのではなく洗練されている。の家は華美だった。
腫れ物をさわるように気にかけてくれるその屋敷で、誰とも会わずにいられる場所として見つけたのは、針葉樹に囲まれた北の庭の端だった。
南の庭とちがって見事な花壇も切りそろえられた生垣もない。
昔は花壇だったのか、レンガで長方形に囲まれた内側には無造作に土が盛られているが、今は雑草がまばらに生えているだけだった。
レンガの上に打ち捨てられた枯れかけの植木鉢が三つならんでいて、はその四つ目の場所に腰かけて本を開いていた。
全体が反り、ぼろぼろになった本は退魔の血を操るための指南書だ。
着の身着のまま生家を離れたために、眠る前に読んでいたこの一冊が唯一の私物だった。
は退魔の血を扱うのが下手だった。下手というのもおこがましい、退魔の血が流れていないのだ。
連綿と退魔の呪文をつなげるの家系でもそういう人は稀にあった。子が生まれるたび組み変わる精緻な呪文は天才を作りもすればのようなものを作ったりもする。それは生まれたときに決まってしまうことで、退魔の血がないなら、狂ったように指南書を読もうが猛特訓しようが、0の掛け算をするようなものだった。
努力を重ねて会得した唯一の術は薄皮一枚の防御壁だけ。三秒は維持できる。血のわざではない。
眼を血走らせ文字の羅列を食い入るように追って、居場所まで太陽が照ってくると座る位置をずらして、また文字を追う。そういう日々を数週間過ごした。
横の植木鉢の草花が日に日に茶色くなって土に還っていくのをかえりみず、あるいは夜のうちに風にたおされ一つ地にこぼれても、しかし感情は動かなかった。虫の死骸も親切なメイドも見分けがつかない。見分けようとも思わない。処方された薬とそれを乗せた手のひらの境目もあいまいだ。
境目もわからないくせに、一か月したある日、の居場所にひとりの大男が踏み込んできてたことには少しの不快を覚えた。
麦わらをかぶりジョウロを持った大男はクラウスといい、この家の第三子であり、退魔の力が色濃く備わった男であった。その力をかわれて牙狩りの実戦に駆り出され、長期間屋敷を空けることもある。
の横にある鉢植えの主らしかった。
クラウスはがいることに気付いて遠くで一度足を止めたが、そのままやってきての前に立った。
揃えられた靴だけ見える。
頭の上で、クラウスが麦わら帽子をとって胸にあてたのを聞いた。
うちすてられた庭でもルールを守り、女性から挨拶を許されるのを待っている。
やがて、応答が来そうにないと察すると大きな靴は目の前を立ち去って鉢植えをしばらく見、水はやらずにひっくりかえし、もともと花壇にしたかった土にならすとその日はそれきり帰ることにしたらしい。
帰り際に再び前に靴が揃い、の頭に麦わら帽子がのった。
クラウスがいるために居場所をずらせなかったは、さんさんと照りつける太陽の真下にいて、それを哀れに思ったのだろう。
大きさの合わない麦わらは目深に落ちて、視界いっぱいにあった指南書が一瞬きえた。
足音が遠ざかっていくのを聞いた。
次の日もまたクラウスはその場所に踏み込んできた。
無言で鉢植えの土を入れ替えて、種を植えて帰っていった。
は麦わら帽子をかぶってはいなかったし、に帽子を貸してしまったクラウスもそうだった。
三日目、またクラウスはその場所に来た。
土に水をやって、そのあとしばらくは植木鉢のまわりの土をはらったり、花壇の土をシャベルで掘り起こしてみたりと、大きな体をこまごまと動かしていた。
はじっとレンガのうえに座っていた。心は動かない。
…動かしてしまったら、父が死んだ。家族はみんなばらばらだ。優しかったおじいさまは最も誇り高い退魔の一族が血界の眷属に弑され郎党呪われたことに怒り狂い「お前たちにはひとつの財産も譲らない」と聞いたこともない声で叫んだ。財産などひとつもいらない。ただ幸せな家族をもとに戻さなくてはいけない。もうもとに戻らない。戻せなくしてしまった。どうしよう、どうしよう、またあの焦燥がめぐり出す。
あなたのせいではないと大人たちがいくら言っても、十六歳だったは大人たちの想像も及ばない猛烈な集中力で自分を責め続けていた。
何か感じそうになるたび、何も感じなかったと言い聞かせると、心は浅いまま推移して深くに届くことがないと気が付いたのはにとっては光明であったが、周りから見ればそれは闇から差し出された無数の手に白い手を重ねてしまったことに他ならない。

明くる日は、昨日よりさらに日が強く照っていた。
クラウスがやってくると、はいつもの姿で座ってページがとれかけた紙を指で押さえつけながら同じ本を見つめていた。
元花壇の土を掘り返すうち、クラウスの髪もの髪も太陽にじりじり焼かれた。
不意にクラウスが立ちあがり、タオルで手を拭くとの手を掴んで針葉樹のしたまで連れてきた。
木陰だった。
吹く風が焼かれていた肩と髪とを少しずつ冷やしていく。
ずいぶん長い時間言葉もなく並び立ち、手は掴まれたまま、どちらかが話しかけるまえに15時を報せる鐘が鳴った。
綴じがこわれた退魔の指南書をとりおとした。
輪郭から涙がおちた。
落ちた涙が枕にしみこみ、は目を覚ました。



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