霧が朝焼けの光を散らばして、街は薄紫に輝く無数の粒のしたに沈んでいる。
上空を吹き抜ける強風にあおられ、錆びた非常階段の踊り場にゆたかなプリーツのロングスカートがはためいた。
朝の祈りを終えたはしばらくその幻想的な景色を見つめていたが、やがて非常階段をくだりだした。風をはらんでブラウスがふくらむ。
手すりは赤茶色に錆びつき、ところどころ崩れ落ちて中の空洞が見えている。踏み板は、足音をたてないように一歩一歩そうっと踏んでも緩んだネジが軽い音をたてて震える。踏み板と踏み板の間はただ宙があるだけで、サイドの鉄板と接するネジが片方でもはずれていたら、踏んだ瞬間板ははずれ階下に落ちるだろう。下にも延々階段が続くが、落ちて下に尻もちをついた振動で、建物からこの非常階段だけはずれて傾き、メキメキ折れて地面までまっさかさまという想像がよぎる。
息をとめて、一歩、一歩、踏み板を降りてゆく。
ようやく次の踊り場が見えたところでバン!と乱暴な音をたてて両足の乗っていた踏み板がはずれた。
内臓がひゅっと上にあがる感覚があり、は落下した。
落下したが体はゆらゆらと横に揺れてどうもおかしい。
きつくつむっていた目をゆっくり開いた。
抜けた階段と下の階との間に赤色のいびつな網がはられていて、はその網の中におさまっていた。
「ヘイ猊下、どこ行くの?」
血のわざで編まれたハンモックの下でザップが手をあげた。
「クラウスには言わないで」
第一声にそんな言葉がついて出て、恥じた。






半分まで姿をあらわした太陽が、街の向こうにそびえるビルの一面を煌々と照らし出す。
ぼろの非常階段の踊り場でビルの壁に背を寄せて、ザップはタバコの煙を深く吸いこみ、細く吐きだした。
「どこ行こうとしてたんだよ」
「…」
少しの距離をあけて、は壁にもたれず押し黙っている。
「旦那にいっちまうぞー」
小馬鹿にする顔で脅かすと一瞬形のよい眉根を寄せたが声は返らなかった。
つま先のすこし向こうをかたくなに見つめている。
ザップはその横顔を無遠慮に覗き込み、ははん、と片方の唇の端だけ持ち上げた。

「あんたの暗殺に俺らを巻き込みたくないからここではないどこかへ逃走、だろ」

ずいぶんゆったりとしたまばたきがあった。
眼を開けるのと同時にすうっと顔が上がる。
その横顔からは少女のような動揺は消え失せていて、ザップは片方の歯まで見せてわらった。

「で、ひとりで死ぬ。だろ?」

HLエントランスで、汁外衛がザップを締め上げいったことだった。
あの師から、救えという言葉までとびだしたから珍しく冗談でもいったのかと半信半疑だったが、ザップが“知っている”と察するや眉ひとつ動かさなくなったこの女を見て確信に変わった。
いまやひとひらの感情すら消え失せている。
長い睫も横顔をかたちづくる輪郭も、体をなぞる線までも神様に計算された人形のように美しくできているのに、まなざしは硬質で、肌に触れたら冷たいに違いない。
これが昼間見た、心配性で世間知らずのお姫様と同じものとはとても思えなかった。
夜明けの静謐な空気に、落ち着きはらった声がのる。
「わたくしの父は血界の眷属に殺されました。夜に叩かれた窓を開いてはならない、子供でも知るようなその禁を破って眷属を屋敷に招き入れたのです。そして選ばれた次なる王はかの男の娘。さぞ、牙狩る者たちの失望を呼んだことでしょう」
霧と雲とを貫き、正面から太陽の閃光がさしこむ。
ザップは顔をしかめたが、は表情に快も不快もうつさない。
強い風がふいた。
「わたくしを殺そうとしている者たちの狙いは才無き首座の交代と、卿会におけるラインヘルツ家の権威の失墜です」
「…」
「外で撃てばたやすいでしょうに、儀式のためとヘルサレムズ・ロット行きのチケットを用意し、何者かがライブラにわたくしの警護を任じた」
「…」
「クラウス・V・ラインヘルツ率いる精鋭が守護するも、凶弾に斃れ第二十二子、崩御。彼らはそういう報告が見たいのです」
「なにいってんだあんた」
口も目も丸でできあがったカンタンな顔をしてザップが言い放つ。
が石のように応じないとタバコを靴底できつくねじり消し、今度は怒り出した。
「弱いとか才能ねえとか牙狩りの王様候補が牙に狩られちゃってどうすんだとか、ちょっと悪口言われてここに送りこまれたくらいでなんだってんだ」
「…」
「そんなんでおとなしく殺されてやる理由になんねえだろ!バカかおまえ!」
言い終わるとザップはまだあり余る怒りの熱を鼻息荒くはきだしたが、むこうはザップの言葉に感銘を受けたという様子はない。
こちらをひとつも見やしないのだ。
まばたきもしない。
うるさいのは自分ばかりで、夜明けもとなりの女もザップを馬鹿にすることすらしないで黙殺しているのが気に入らない。
頭突きの一つでもくれてやりたいができなくて地団駄を踏み、ぐるぐるまわって頭をかきむしる。

のスカートが大きくはためいた。

「父が死んだ夜、わたくしが父に言ったのです」

唇が笑う。

「窓に鳥がいる、と」

瞠目したのはもだった。
まるで今まさにその光景を見ているかのようにまなじりは裂けんばかりに見張られて、しかし眼以外は冷静な声で、石の姿で、滔々という。

「クラウスはわたくしのせいではないと言うの」

「…」

「だからもう誰にも言わないようにしたのに、納得してしまった。わたしが父さまをいなくしてしまったから、家族もバラバラにしてしまったから、もう元に戻らなくしたから」

瞠った眼から涙がつっと頬をはしった。

「わたくしは生きていてはいけなかった」

「そんなことねえだろ」

ぽつり、言ったあとザップは唇をとがらしてふてくされるような顔をした。
ポケットに手を突っ込み猫背になった。
明後日の方向を向く。
「そんなんは、いいやつが死ぬとみんな思うことだ。自分があの時、ああしたからだ。ああ言ったからだ、ああしなかったからだ、こうしなかったからだっ!どうしてああしなかったんだ!」
最後は焦って早口にまくしたて、ぜいと息を乱した自分に気づいて一旦口をつぐんだ。
はザップをじっと見つめ始めた。
暗闇から出でて彼の胸に去来した記憶を、見過ぎないようにたどる。
視線を交わすことはないままもう一度しゃべり出した時にはザップは少しおとなしくなっていた。
「そういうのはみんな言うけど、周りのやつはそれいった友だちとかに、そんなことないって言うために生きてんだ。クラウスの旦那が、私は顔が怖すぎるからもう生きていけないつったらおまえ言うだろ」
「…“そんなことない”」
「そう言ってやるためにおまえは生きてんだよ」
「…」
「…」
「…」
「な、なんか言えよ!」
レオと違ってツッコみも来ない会話のリズムにだんだん体中がかゆくなり、いっそ殺せと言わんばかりである。
「目からうろこが」
「なに魚介類みたいなこといって…」

ザップは言葉を止めた。
普段自分が説教しようものなら「絡んでくるなよ酔っ払い!」と一蹴されるようなものをこれは真に受けて、まぶたのふちにとどまっていた涙をぬぐいとったりするものだから新しい、珍しい。
頭が何個分か上の位置にあるのをいいことにザップは人間の温度にもどったの、吹けば飛ぶような頼りない様子をまじまじ眺めた。
これは、なかなか。
いたずら心がそぞろわく。
師匠の忠告?見られているわけでなし、知ったこっちゃない。
すこしうまくいくとすぐ得意になるのが彼のよくない癖だった。
「…もっとかわいげのあるもん出てるぜ」
ザップの指がのまつげをぬぐうと、はおどろいて顔をあげた。
横にいたはずのザップがいつのまにか正面に立っている。
胸と胸との距離が縮まってきてはうしろの壁にぴたりと背をつけた。
ザップの視線がの体の線を下からたどり、ゆっくり這い上がってくるとなんとなくよくない予感がしては踊り場からそろりと横歩きし、階段をひとつおりた。
その移動にザップがついて来る。
がもう一段降りると今度はザップの腕に阻まれた。
「逃げんなって」
急に声色を変えたザップの、ついた両手のあいだに閉じ込められ、行くことも戻ることもできなくなるとはせめて視線だけ足元へ逃した。その視線の先で踏み板同士のすきまからのぞく下を見てしまったらひゅっと足元から寒くなる。
「ヤなことぜんぶ忘れさせてやる」
耳元に吐息がかかりはびくりと体を震わせたが、それきりザップの体がはなれてほっとした。
二つ先へ降り、振り返って差し伸べられた褐色の手が蠱惑的にを誘う。
「来いよ」
バコン!と音がしての視界から蠱惑的なザップが消えた。
不幸にも彼の乗っていた踏み板がはずれたのである。
本当なら一つ下の階へ落ちるだけで済むのだが、階下もその階下もさらにその下も、地上まで彼の落ちた場所には残念ながら踏み板がなく、垂直にどこまでも落ちてゆく。
悲鳴が遠ざかる。
背後の非常扉が開いた。
「姫様、おはようございます。モーニングティーはいかがですか」
ギルベルトである。
ザップの消えた穴とギルベルトを交互に見て、どちらに驚いたらいいのかわからないという様子のに、ギルベルトはいつもの調子で柔和な笑みを向けた。
「彼なら問題ありませんので、さ、姫様は中へ。今朝は姫様の大好きなシュリンプサンドもご用意していますよ」
その笑顔は有無を言わせないもので、は後ろを気にしながらもギルベルトが非常扉を開いて待っていた建物の中へと体を戻した。
非常扉を閉める前にギルベルトは外の、少し上にむかってこう言った。

「クラウス様、スティーブン様はのちほどお越しください」

廊下の絨毯を踏んだ足がぴたりと止まる。










非常用の重い鉄扉は閉て切られ、ギルベルトは進行方向を手のひらで行儀よく指し示した。
数歩先に行ったところでがついてこないのがわかって、もう一度行く道を示して体をひらく。
「こちらです」
「…ギルベルト」
「はい、姫様」とギルベルトはにこやかにこたえたがはすっかり色を失っていた。
すべて暴かれ、恥辱の底に在る我が身を隠す微笑も高貴の振る舞いももう意味はない。
「ごめんなさい」
硝子の花瓶を割った童女のようだ。あるいは割れた方の花瓶のようだった。
なにをと問うたところでこの様子では答えることもままならないだろう。
しかしキルベルトはいたずらに問うて考えさせ成長を促すとか、しっかりなさいと叱咤するなんてことはするつもりはなかった。
ただし、
「私のかわいい姫様、お戻りなさいませ」
と言った。
包帯の奥の眼に炯たる光を宿して、もはやどこを見つめることもできなくなった眼をまっすぐに見た。
「その暗い道に入って行ってはいけない」
呆然と首を横に振った娘をギルベルトはやさしく抱きしめた。
「ザップ様の言うことはひとつあなたに必要な考え方です。あなたひとりでままならぬことはこれまでにあなたが紡いだ絆が助ける時です。たとえば非力ながら私です。そして手始めは紅茶とシュリンプサンドです」
いつまでも泣き声をあげられない頭を、よいこ、よいこと何度も撫でた。



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