中での出来事を黙殺し、封じ込めるかのようにパンドラム監獄の地上層は未だ静かにそびえたつ。

その正面口からを抱えたスティーブンが出てくると、レオナルドはずっとつめていた息を長く吐き出した。
封鎖された隔離壁をすべて砕いてでも地下に戻ろうとしていたクラウスを、取っ組みあって引き止めていたブローディ&ハマーだったが、その体はついに突き破られ、クラウスはのもとに突進していった。デルドロは「いてえな」といったくらいだから大丈夫らしい。
レオナルドもだいぶ遅れて駆け寄った。
「姫様っ」
猊下と呼ぶのも忘れて、いつも穏やかなクラウスの声が震えている。
スティーブンの腕の中では目を閉じて動かないとわかるとクラウスは戦慄した。
「心配いらないよ、君のお姫様は無傷だ」
腰を抜かして歩けなくなったのを背負って運んでいるうちに気を失ったのだという。
スティーブンはあたりをみまわし、吹き飛んだ街路樹と大きくえぐれたアスファルト、向こうの高速道路が途中から無くなっているのを確認し、独房の天井が壊れたのはクラウスの大暴れのせいだと確信した。
「こっちも片付いたようだな」
「こっち、も?」
レオナルドが首をかしげる。
「獄長、下で一部がグール化していますから気を付けてください。宿主が死んで弱体化していますがヤるなら遠隔をおすすめしますよ」
スティーブンの言葉にアリス獄長と何名かの看守は血相かえて施設のなかへ駆けもどって行った。
「そうだったか。だがよく猊下を守ってくれた。礼を言う」
「…」
の体を引き受けるべく、クラウスが両手を上向きにさしのばすとスティーブンはしばらく黙った。
どうしたのかしらとレオが覗き込む。
「…ああ、うん」
クラウスがを受け取って抱き上げなおす。
その体の感触と温度をたしかめるように一度目を閉じ、のこめかみあたりに頬をよせた。そこでようやく大きな肩から力が抜けるのを見て、見ているレオまでこそばゆい。を抱えたスティーブンが姿を現してからなぜか存在を希釈させていたチェインもだんだん実体化してきた。
「これが新しい猊下?寝ちゃってるの?きれいな人だなあ、僕らの代でこんなにきれいな人が猊下になるなんてラッキーだ」
異形の看守二人を従えて、ブローディ&ハマーが顔を出す。
「美人は美人だけどよ、なんかこいつ、なんつーかマジでヒリヒリする。水ぶくれしそうだから近づけないでくれよ、イテテッ」
「え、そうなの?」
ドグ・ハマーの手首から飛び出した小さなブローディがどうにかから距離を置こうとのけぞっている。
うむ、とクラウスがうなずいた。
「人界の猊下の住まいは、まがつから身を守り清めるまじないの中心にある。そのなかにいる限り血界の眷属や悪しき魂は近づくことができないといわれている。その名残がそうさせているのかもしれない」
「ははん、どーりでエイブラムスみたいなにおいがすると思った」
「え、そうなの?」
ドグ・ハマーはの首に鼻を寄せてくんくんと嗅ぎだし、クラウスはあわててを遠ざけ、ドグの体も後ろの看守に引っ張られて引き離された。

「石鹸みたいないい匂いするけど」

「「「「…」」」」

あっけらかんと言い放ったドグ・ハマーの言葉に男たちの間に緊張がはしった。
「それはおいといて、猊下が寝てるんじゃ儀式はできないかなあ」
「ああ、それはすまないが」
ドグ・ハマーと彼のおばあちゃんには悪いが諦めてもらうよりほかない。その場の全員、が目覚めてからまたここに来させることができるほど状況を楽観できないことを理解していた。
「じゃあこれが儀式ということにしようかな」
いつのまにか靴が脱げて宙ぶらりになっていたの素足をドグ・ハマーの手がちょいと持ちあげ、屈んだ。
すくい上げられたの足首に、レオナルドは見覚えがあった。
「猊下の靴擦れが早く治りますように」
そう言うと、靴擦れでできた傷の、凝固したばかりの血にドグ・ハマーはキスをした。



ドグ・ハマーのごく自然な蛮行により急に殺伐とした雰囲気に包まれ、車はパンドラムをあとにした。
おもに殺伐としたのは首の後ろに水を垂らされただけで儀式とされた男性陣だ。
その男性陣の間で肩身を狭くするレオナルドだって、血にキスしたいとまではいかないが、このおみあしに直接触ってくびすじの匂いを嗅ぐのと、首に水をかけられるのとだったら断然前者がいいと共感はできる。共感できるがなにも言わないのは、あのあとザップが鼻息荒く近寄ってきて問答無用での足にしゃぶりつこうとして、いつもより強めのクラウスの鉄拳が撃ち込まれたからだった。
無言の男たちを乗せた車がたどり着いた先はライブラのアジトではなく、クラウスの私邸だった。









事務所に泊まることも多いクラウスだが彼には私邸もある。
主人と執事の二人暮らしだからそう広くはない、クラウスはそう言ったが三階建てで庭には事務所のより大きな温室があり、扉の向こうは洗練され落ち着いた色調の高級ホテルを見るようだった。
レオナルドは口をぽかんとあけて吹き抜けの天井を見上げ、長く続く廊下とそこに並ぶたくさんの扉を見つけ、「すごい」と「掃除が大変そう」という感想しかでてこない。しかしどこにも塵ひとつ落ちていないのは、さすがのギルベルトである。
入口正面にかかっていた旗印と同じ柄の旗がレオ達のとおされた居間にもあった。あれがラインヘルツ家の家紋に違いない。

目が覚めるまでをこの屋敷で一番上等なベッド、つまりクラウスのベッドに寝かせるとライブラのメンバーは寄り集まって緊急会議が始まった。
牙狩り本部の二十二子暗殺計画と先ほどの血界の眷属との関連性について憶測ばかりが飛び交うが、どれも現実味はなく、次の突拍子もない憶測に話が切り替わるのを何度も繰り返した。
本部からの返答は依然「調査中」だ。
ザップでさえさすがにヴァンパイアハンターのはしくれらしく真面目な顔で議論に加わっていたが、こういった話題のなかではハイネックに首をひっこめて、両手で包んだ紅茶をすするしかないレオナルドである。
たのみの紅茶もカラになり、やがて干からびはじめ、そのころには周りも言葉少なになっていた。

「ということは」

スティーブンが困窮する会議をしめにかかった。
「本部の猊下暗殺計画と眷属の襲撃に直接の関連性はない、というのが大勢か」
「そのようですね」
ツェッドがうなずく。
「よし、まずは個別の事案として扱おう。KKは猊下暗殺のほう、夜間の狙撃ポイントの哨戒を頼めるか。いいだろう、クラウス」
「頼む」
「クラっちが言うなら、アイ・サー。得物とってくるついでにチビたちの明日の昼ごはん用意してくるわ」
組んでいた長い脚をといてKKは颯爽と部屋を出て行った。と思いきや「そうだ」と立ち止まって振りかえり、クラウスをびしと指さした。
「クラっち、今夜のキーワードは大胆に、ワイルドに、よ。いいわね?」
「なにがだろうか」
「だいたい全部よ。オーケー?」
「努力しよう」
わかっていないクラウスがうなずいたのを確かめてKKが出て行くと、今度はクラウスからチェインに指示がとぶ。
「君は人狼局のオフィスへ直接行ってもらえるだろうか。彼らが情報を持っていないはずはないが、電子網に本部から圧力がかかっている様子がある。口頭で本部と地下、両方の情報収集を頼みたい」
「わかりました」
チェインの姿が炎のなかのススのようにはがれては消えていく。
「夜には戻ってきてくれ給え」
あわてて付け加えたクラウスの言葉に、希釈が逆再生された。
「慌ただしくしてすまない」と視線を自分の足元へ落とし、いっそクラウスは悲しげである。
「猊下の身の回りのお世話は我々にはできないことだから…」
ややあって、チェインは抑揚なくクラウスに尋ねた。

「寝間着はナイトガウンとパジャマ、どっちがいいですか?」

ナイトガウンなど、このメンツの中では誰のと聞かなくても察しがついて、クラウスは赤面し「うっ…う」と壊れた電子レンジみたいな音を発しはじめる
「マッパに一票」と挙手したザップを無視して、クラウスに視線が集まる。
ものすごい速さで指遊びをするわりに大仏のように動かないクラウスが「うっ…う」の果てに声を絞り出した。

「たしか…以前はナイトガウンをお召しだったと」

「アイ・サー。買ってきます」
チェインが姿を消すとクラウスは得体の知れない罪悪感からがっくりとうなだれ、まあクラウスにしてはよくがんばったとスティーブンがその曲がった背を叩いた。
KK、チェインと入れ替わるようにギルベルトが部屋にはいってきた。
彼は主人の紅茶を継ぎ足すこともせずに、逃走癖のあるの部屋のそばにずっと控えていたのだった。

「お目覚めになられました」
全員が起こしかけた膝を、ギルベルトは手のひらで制した。
「少々興奮なさっておいでですので」
はっとしてクラウスの表情にくやしさがにじむ。その感情は彼自身に向けられたものだろう。
「鎮静薬を飲んでいただきましたから夜までほとんど動けないでしょうが、念のため扉の前にどなたかお願いできますか」



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