クラウスはいつもより狭いベッドに体を横たえた。

けれど眠ることはできず、上半身をクッションに預けてぼんやりと天井を見つめていた。ウエストコートとネクタイこそはずしたものの、あとはシャツの襟をくつろげたくらいでいつもの寝支度とは程遠い。
眠れる気がしなかった。
あのあと、は夕食に姿を現さなかった。
就寝まえに警護の都合から部屋を移ってもらったとき、独房前以来ようやく動いているを見たが、すべり込むように新しい寝室の扉の向こうへ消えてしまい、声をかけることはかなわなかった。
の寝室の右隣にはチェイン、左となりにはレオに入ってもらい、クラウスはチェインのさらに隣のこじんまりとした部屋にその巨体をおさめている。
KKが夜間の哨戒で不在だからとはいえ、レオは自分が女性と同列に扱われたことを「俺だって一応お年頃の男なんですけど」と抗議したが、クラウスはレオを信頼してそこに配置したのだ。ザップやツェッドのこととてもちろん信頼しているが、ことザップについては女性が絡むと信頼がリスクに転じる。スティーブン、彼をレオの隣のギルベルトの、さらに隣の部屋に行ってもらったのはクラウスの単なるエゴだった。
スティーブンが女性に人気があるという話はよくきいている。実際、その容姿とスマートな対人能力は男のクラウスから見ても人気に納得がいくところだ。
きょう、を守ったのはスティーブンであり、苦難を乗り越えその腕にを抱いてパンドラムから出てきた姿にクラウスは場違いにも嫉妬した。
無事を喜び、おん猊下を守った英雄をたたえこそすれ、妬むなど。
認めたくはなかったが、打ちあわせ中も、食事をしてもシャワーを浴びてもベッドに横たわっても強い自己嫌悪とともになさけない感情がふつふつとわき上がりクラウスをさいなんだ。
徒に本を開いてみたなら、やっと美しい記憶が蘇る。
おなじ屋敷で暮らしていた日の記憶だ。
クラウスは部屋の扉へ眼をやって、記憶の中だけでノックの音を響かせる。
「本を貸してほしい」と、控えめに入ってきた。
ああ、懐かしい。

大崩落よりずっと昔、未熟で功を急いだ私があちら側からこぼれ落ちた異形を相手に仕損じ、打ちのめされて、屋敷のベッドで目を覚ましたあの日。兄たちは私の敗北を許さなかった。
手当はされずラインヘルツ家の面汚しを視界のはしにいれるのも厭って、使用人たちにもことごとく近寄るなと厳命が下されていた。
死ぬ怪我ではない。
助けの来ない静かな部屋で、私はただぼんやりと白いシーツを血で汚していた。
外が明るいのも嫌だった。
あなたは無様に横たわる私の横を風のようにとおり過ぎ、ベッドのすぐ横の本棚に向きあった。
私は動かない体を動かす気力も伴わず、あなたがいつものように本を一冊とって立ったままページを繰ったのをいっそ邪魔に思いながら聞いていた。
ああ、誰も来なかった。
暗い瞼がおちてくる。
投げ出していた血だらけの手にあなたが重ねたことを覚えている。
ベッドの背もたれの、装飾彫りの細い隙間からさしいれられた手には、堅い私の手の甲が引き攣れるほど力がこめられていた。
強く触られるとまだ生きた傷口から赤黒い血と膿があふれだす。ちょっと痛い。白い手に血と膿と汗がへばりつく。
あなたはただ本棚に向かい、開いたページに向かっている。
水が紙をたたく音を聞いた。
あの時、あなたの手が震えていたのは確かに優しさからだった。
その優しさは強さだと思った。
相手を一撃で殴り伏せ、引き裂いて、滅びるまで十字の鉄槌を浴びせ続けてもこの強さには届くまい。
この強さのほうがずっと、焦がれる。
ひとに話したならそんなことでというかもしれない。
そんなことで人の心ひとつすくわれる。
それだけで命ある限りなつかしむ。

…あの扉、ではない。

記憶と違う扉から再び天井に顔をもどし、いちど瞼をふさいで深く息を吐き出した。
走る足音に気づいて目を開けたときには、もう扉は開かれて駆け込んできたの姿は目の前にあった。
「クラウス…!」
とめる間もなくクラウスの胸に飛び込んだ。
ひどくとり乱した様子で何度もクラウスの名前を繰り返し、シャツを握り締めてくる。ゆるく編んだ二つの長い三つ編みの先がクラウスの足に触れ、顔のそばにきた首すじからえもいわれぬ魔酔をかがされて思考が明滅する。
クラウスの腕がのうすい背中にまわった。
ふっと頭が重くなり、露わな首に吸血鬼のごとく凶暴な牙を突きたてようと口をひらき
「部屋に吸血鬼が」
そう吸血鬼のごとく

「吸血鬼?」

クラウスははたと正気に返った。
はまだ錯乱状態でクラウスの腕のなかで震えている。
「猊下!吸血鬼とはっ」
体を離し揺すると、はろれつもあやしく「吸血鬼がきた」ともう一度いった。
常ならば蒸気を噴きだしナックルをひっ掴み、鬼の形相で現場へ向かうところであるが、この屋敷はエイブラムスによって強力な眷属避けの術式が何重にも刻まれている。たとえ長老級であろうともクラウスたちになんの異変も感じさせずにすり抜けるなんてことはできはしない。だからこそ今夜の居場所にこの屋敷を選んだのだ。
少し距離をおいて冷静に改めて見てみれば、はシルクのナイトガウンを身にまとっている。そこで合点がいった。
悪夢を見たのだ。
怖い夢と昼間の出来事とがまじりあって区別がつかなくなっている。
そう思うとこんなに怖がっているのがかわいそうで、かわいく思えてきた。
クラウスは子供をさとすような声で言って聞かせた。
「猊下、では私がお部屋を見てまいります。それで安心です」
「いけないっ!」
部屋を出て行こうとしたクラウスに叫び声をあげ、ベッドから転がり落ちるようにあとを追い、全体重をかけて引き戻そうとする。息をつまらせ、背を丸め、がずるずるとその場に座り込んだ。それでもクラウスのシャツの袖を片方の手がきつく掴んでいる。
クラウスは慌ててひざまずいた。いくらなんでも異常だ。
「どうされました」
「いけない。行ったなら、死んでしまう、いけない。お父様と同じに…」
うわごとのように呟くのもう片方の手が、彼女の胸のあたりの服をずっと握りしめていることに気がついた。
「胸が痛むのですか」
「窓をたたいた」
クラウスは弾かれた。
夜着を握っていた手がゆっくりとひらかれる。
胸元のボタンが二つなくなっていた。
ボタンのない場所に線状の血痕が不規則にへばりついている。の体に傷はない。
怒りで全身が震えあがった。
引き止める手をはらい、の体をベッドにほうり頭からシーツをかぶせると、自らはナックルを握りしめの寝室へ怒涛のごとく突進した。

なかは地獄と化していた。

のベッドだった場所からは先端の鋭くとがった氷柱が無数に生えていて、その上では斗流が得意とする血の糸にぐるぐる巻きにされたザップが逆さに吊るされているではないか。逆さ吊りのザップの足の上にはチェインが乗っており、今にもごく一般的なハサミで天から彼を吊るす血の糸を切ろうとしている。
「聞こえなかったな、もう一度言ってみろ」
スティーブンの声が冷たく室内に響く。
「なっ、なにもしてましぇん!!ほんとですうぅう!」
「あー、この視界、窓からこの部屋に入ろうとしたみたいです」
「ほう、そうか。では窓からこの部屋に入ってなにをしようとしていたのかはっきり言ってみろ」
「ごめんなさっごめんなさい!!旦那の家おっきいからオレ部屋ァ、間違えてぇまちがえただけでぇえ!!ほんとにほんとですっ!ほんとぉお!!」
「すごい言い訳ですね」
「イテ!いってえなこの魚介類!兄弟子様のほっぺたになに刺してんだ三枚におろすぞテメェ!」
「では最後の質問だ、おまえがこの部屋にはいってどうにかなった時に俺たちの予算がどうなるか、はっきり言ってみろ!」
「え、スティーブンさんそれザップさんじゃなくてスティーブンさんに対する脅しじゃ」
「ミスタ・クラウス、こちらは大丈夫ですからあの子をなぐさめてあげてください」
チェインが明るい声でいった。
「旦那ァ!俺ァただ猊下のトラウマを気持ちイイ思い出でグェエ!」
クラウスに何か言おうとしたザップの喉をツェッドの斗流血法が締め上げる。
スティーブンが微笑を向けた。
「クラウス、彼は部屋を間違えただけだ。なにもなかった」
「そのようだ」

戻ろうとしたクラウスの目の前に薄い皮膜が垂れた。

それは一秒ともたずに消えてしまったが、ひらいた扉とクラウスの間に一瞬だけ防御壁をつくった娘は、シーツにくるまった恰好のままいつのまにか廊下まで出てきていて、歯をカチカチ鳴らしている。
かざされた白い手のひらから、もう一度あらわれた生春巻きの皮はクラウスの耳ほどの大きさにふくらんで、出力不足でぱっと消えた。

クラウスは扉をしめると、その体をすくいあげてもといた部屋に運びこんだ。
このかわいい姿をほかのどの男の目にも触れさせるのが嫌だった。















「ザップが部屋を間違えていたのです」
「吸血鬼ではありません」
「この屋敷は安全です」
「もし血界の眷属が来たとしても大丈夫」
「私たちが力をあわせれば眷属もひとたまりもありません。今日のことをご覧になったように」
「あ、気を失って。そうでした」
「誰ひとり怪我ひとつ負っておりません」
「あなたの靴擦れだけが唯一です」

根気強くクラウスに励まされ、しゃくりあげる息をなんとか飲みこむとはシーツをとりはらい、ベッドのうえからようやくクラウスに向き直った。
「落ち着きましたか」
涙ぐんだ眼は赤く腫れていて、泣いていたのは今ばかりではないとわかる。
それを見抜かれることをいやがってか、は顔を隠すようにうつむいて恥じ入った。
「ごめんなさい。夜に、思い違いで騒ぎ立ててしまって」
「いえ、なにごともなくてよかった。いまギルベルトが別の寝室を用意しているところでしょう」
「…うん」
素直にうなずいた。

クラウスは密かにおののいた。

おぞましい記憶と恐怖と安堵の落差でうみだされた気のゆるみが、薄い夜着姿のをいっそう儚いものにしていたのである。
就寝のためゆるく編まれた三つ編みはところどころほつれ、汗で首にはりつき、やわらかな肢体は惜しむことも思いつかない様子で男の眼にさらされている。枕もとのランプのたよりない灯りはくつろいだ襟の内に、ぽってりとした乳房のかたちを浮き上がらせていた。
そばにいるだけでにおい立つような艶めかしさにクラウスは息をのむ。
まだ騒ぐ心臓をころして「もう大丈夫」と笑って見せようとした健気な姿さえ、いとおしいと思う反面、うっとりとした身勝手な想像がクラウスの体にからみつく。
「部屋に戻ります」
脚をベッドの下へおろしたところで、の体はたおされ天井をむいた。
天井を見てなにごとかと睫をぱちぱちやっているのうえに、クラウスの体がおおいかぶさる。
「なにを」
起き上がろうとしたの肩をクラウスの手がシーツに縫いとめた。
二人分の重さをうけてベッドが軋む。
事を理解した途端、の体は硬くなり顔を横へそむけた。
クラウスの手がの胸の前にあった三つ編みをすくいとってベッドの上にながした。
無言の眼が女のからだを追う。
火のような吐息がクラウスの口からこぼれた。
耳の下に息がかかり、の体がぞくりと震える。

「失礼しまーす。明日の猊下の移動のことでスティーブンさんが話したいことがあるから呼んで来いって」

レオナルドはきちんとノックもして、クラウスの部屋に入ってきた。
「って、どうしたんです?ベッドによりかかって」
新しい腕立て伏せかしら?と首をかしげたレオナルドは、かしげたままその様子をまじまじ眺めて、クラウスがのしかかっているベッドから二本のほっそりとした脚が垂れていることにようやく気が付いた。
レオナルドは流れ打つ華厳の滝のごとく、床に伏せた。
「ごごごごごごめんなさいぃっ!どうぞ続けてっ、お続けくださいっ!僕はなにも見てません!あれっお、おっかしいな神々の義眼の故障かな!な、なにも見えないぞ、お先真っ暗な感じで、あ!これたぶん故障ですね、見えないなこれ、あれれれぇ?」
ロボットの動きで出て行き扉が閉められると、クラウスはナイアガラのごとく床に伏せた。






ひどく気まずい雰囲気のなか、ギルベルトが瞬く間に整えた別の客室へクラウスがエスコートした。
それほど長い距離ではない。
あれからクラウスは謝ってすむことではないとわかりつつも謝って謝って謝り倒したかったが、シーツをかき寄せたに「謝らないで」と言われてしまって、もう何も言えなくなってしまった。
あっという間に部屋の前に到着し、いまもって、濡れそぼったつぼみのように魅惑的なにクラウスは勢いをつけて別れを告げた。
「本当に…申し訳ありませんでした。…では猊下、おやすみなさい」
顔も体も見ないで踵をかえす。
絶対に振り返ってはならない。

「クラウス」

「…」

振り返らないわけにはいかなかった。
のまなざしがクラウスをまっすぐ見上げていたなら、目をそらすこともできはしない。
「…わたくしはいつもあなたと、あなたの大切な人たちに救われています」
ついさっき欲望のまま押し倒した男に向けられる言葉ではない。つまり今のことをいっているのではなく、の言葉は今までのことをいっているのだ。たとえば今日のスティーブンだろう。非常階段でのザップかもしれない。しかしクラウスではない。
微笑んでみせた姿は、作られた猊下の笑みではなく少しはにかんだ、の笑い方だった。
「ありがとう」
「いえ…私は、何も」
「謙遜するのはあなたらしい」
ちがう、まさに言葉のとおりなのだ。
にまだなにもしてやれていない。守る守るの一点張りで、いつまでと苛立って問うたスティーブンの言葉が身に染みる。
言葉を返せなくなったクラウスからは視線をはずし、宙をいくらかさまよってから、前に重ねた手のひらへおろしていった。

「…北庭を覚えていますか」

忘れるべくもない。

「あなたが麦わら帽子を貸してくれたあの日のことを、わたくしは命あるかぎり懐かしむ」

それだけ告げると
「おやすみ」
は風のように扉の奥へ吸い込まれ、扉は閉ざされた。
クラウスは立ち尽くした。
ぼうっと、いや、ポーーー、っといつまでもそこに立ち尽くしていた。






<<  >>