その日の昼前、ライブラ構成員のうちクラウス、スティーブン、ザップ、チェイン、ツェッド、そしてレオナルドはいつもの執務室に集まっていた。もいる。
不運にもと考えるべきか、狙いすましたようにと考えるべきか、出動がかかったのである。
出動となった場合の動きはすでに昨日のうちに取り決められていた。
一般的な人間か一般的な異界生物の仕業であれば血のわざを持つメンバーはを連れて事務所に待機、だ。
今回は一般的な異界生物の仕業と判断された。

「青いスライム、ねえ…」

全員の頭に某ドラゴンクエストの雑魚敵が思い浮かぶ。
青色をしたスライムと交戦中という現場との電話で、連絡役のスティーブンはいぶかしげに片方の眉をあげる。
「そっちだけじゃ対応が厳しそうなのか?」
無論、スティーブンもあのモンスターのやや不気味な笑い顔を思い浮かべたからこそ、現場だけでなんとかなるんじゃないかという期待をもったのである。狙撃ポイントの警戒中だったKKも参戦しているというからなおのこと。むしろKKが立ち向かってはスライムのほうがかわいそうな気さえする。
聞けば青いスライムはこのビルのすぐ近くの大通りからそこらじゅうに飛び散って、路地を這いずりまわっては犬といわず猫といわず、人間異界人ゴミ箱に至るまで目につく者を片っ端から追いかけまわしているという。きわどい線だ。
ははらはらと通話の様子を見守っていたがふと、ザップが目玉をぱちくりしてこちらを見ていることに気が付くと首をかしげた。
「これも猊下暗殺と関係あんの?」
無遠慮に本人に尋ねたザップの膝が、後ろからスティーブンにかっくんされた。崩れ落ちたザップを無視してスティーブンは電話を続ける。

「銃弾が効かないのはわかった。ああ、うん、なに?どうしたって?合体した?」

全員の頭にキングスライムが思い浮かぶ。

「そうか…ああ、わかった。応援に行くよ…了解」
というわけで、と電話を切ったスティーブンがジャケットを羽織った。
「行ってくる。ザップ、おまえもだ」
「えー、それってドラクエのスライムが弱点火属性だからじゃねえッスよねえ?」
「いいから、さっさと行って片づけるぞ。クラウス」
「頼む」
「そっちもな。猊下におかれましてはご心配なきよう」
はかたい笑顔で応じた。
その頭にザップの手がのって、前髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜる。
「チョロチョロのチョロ助な!」
「…うん」
はにかむような笑顔に変わり、にっと歯を見せてザップが笑い返すと、そのスネをスティーブンに蹴られてもんどりうって倒れた。



のたうちまわるザップを引き摺ってスティーブンが昇降機に乗り込み、扉が閉まり切るまで見送り、閉まってからも、昇降機の位置を針でしらせる古風な階数表示の目盛が左端へ振り切れるまで、は見つめていた。
針が動かなくなってもまだ同じ方向を見あげている。
クラウスは、そのの背後のだいぶ離れたところから、を励まそうと試みて、しかし見えない壁にせき止められるように、おっかなびっくりに手を伸ばしてはひっこめるパントマイムを繰り返していた。
同じ視界に二人をおさめると、レオの胸はチクリと痛んだ。
自分が昨夜いいところを邪魔したせいであんなことになっているのだ。
クラウスにそういった欲があるとは今まで想像もしていなかった。想像すらめぐらせてはいけないある種の聖域のようにレオナルドは思っていた。しかし、クラウスとて紳士である前に健全な男に違いない。本棚にはエロ本があるだろう、お気に入りのアダルト動画サイトもあるだろう。ひとりでする事もあるだろうし、ふたりでしたいとおもう事もあるに違いない。そういう欲がおもてに出ることが限りなくゼロに近いだけで!
その貴重な欲の発露の瞬間を踏みにじったのだと思うと、レオナルドの胸はザクリと痛んだ。
踏み出せずにただただ汗を噴きだすクラウスを通り越し、心細く立っていたの背をチェインが励ますように叩いた。
クラウスが肩をおとすと、レオナルドはひっそりと自分の顔を二発殴った。

突然、窓際にいたツェッドが「こんにちは」と挨拶した。

「チェインさん、人狼局の方がお見えですよ」
「エメ姉」
振り返った先で、締め切った窓から女性の体が半分だけ部屋の中に入り込んでいた。チェインにエメ姉と呼ばれにこやかに片手をあげた女性は、チェインと同じ人狼局に所属する不可視の人狼のひとりだった。
「こんなところからごめんなさいね。ご依頼の例の件、現物写真を手に入れた諜報部隊がそろそろ戻るから呼びに来たの。電話もメールもみんな本部が聞き耳たてているわ」
「ミスタ・クラウス」とチェインが呼んだだけでクラウスがうなずき返し、話は済んだ。
窓をすり抜け出て行こうとした二人をクラウスが短く呼び止めた。
「気をつけ給え。近くで異界生物が暴れている」
「ええ、今その上を飛んできましたから見てきましたわ。でも空を飛んだりはしないようですから、上は問題ありませんよ」
「うむ」
今度こそ二人の人狼は、世界の法則をひっくりかえすような透過をやすやすとやってのけ、窓のむこう、霧の彼方へあっというまに消えてしまった。
消えた二人の姿を不思議そうに見ていたツェッドは、おやと気が付いた。

「ここからも見えますよ、スライム」

全員が寄ってきたところでもういちど指をさす。
霧でかすんではいるが、下の細い路地のあちこちに子供の背丈ほどの青いスライムが這いずっているのが見えた。
「うようよいますね」
スライムは半透明で目も鼻も口もなく、ドラクエの方とはちょっと見てくれが違ったけれど、人間や犬猫を追いかけて路地を這いずる姿はむしろレトロなパックマンに似ていて、ちょっと笑える。
レオナルドは首にかけていたカメラのシャッターを切った。
も横に並んでしげしげと下を眺める。
「猊下は、窓には寄られませんよう」
見上げられた視線に弱って「…御身のため」と付け加えたが時すでに遅し、というクラウスを見て、レオナルドは自分の脇腹を殴った。
「わかりました」
はおとなしくひとりだけ部屋の真ん中のソファーまでさがった。
レオナルドはぎくしゃくした雰囲気をどうにか払拭せねばといきり立ち、わざとらしい身振り手振りで大通りを指した。
「わ、わー、あれ見てくださいよ。むこうにもいますよ!」
「あれがキングスライムですね。大きいな」
「え」
レオナルドは自分で指さしておきながら二度見した。そういえば縮尺がひとつだけおかしい。雑居ビルと同じくらいの高さがあるのではないだろうか。
「うむ。あの種の異界生物は司令塔からの命令で個体を制御していることが多い。あれがその司令塔だろう」
「じゃああれをスティーブンさん達がやっつければほかのも無力化できるんですか」

クラウスとレオナルドとツェッドが俯瞰の光景に釘づけになってしまったうしろで、窓に寄れないはひとりソファーに腰かけて、心もとなく膝の上に手を重ねていた。

ポーンと小さな音をたてたのは昇降機の階数表示だった。
一階を指していた針がだんだんと右へ動いてゆく。
中層階はおおむね省略された表示だが、一番右端の目盛はこの執務室だ。
クラウスたちは外の景色に夢中になって気づいていない。
スティーブンたちが戻ってきたのかもしれない、忘れ物をして。
「……」
そう考えてみたが、体は自然と椅子から立ちあがっていた。
目盛が一番右端までくると、もう一度ポーンと鳴った。
昇降機の扉が開いたところでようやくクラウスたちも振り返る。
開いた先には誰もいなかった。
しかしどことなく、昇降機の中がいつもより青みがかって見える。
風もないのに手前の面が波うつように揺れた。
上から下、奥行きまでみっしりと隙間なく、昇降機の箱に青いスライムが詰まっていると気づいた時には、四角四面になっていたスライムが、のぷ、と重い水音をたてて、部屋の中に漏れ出していた。
本能とも言うべき爆発的な瞬発力でのもとへ到達したクラウスを追い越して、ツェッドの三叉槍が空中に振り上げられる。
「斗流血法、シナトベ」
疾風のごとくはしった三叉槍の切っ先は空中で幾筋にも裂け、糸になって細かく交差し網を成し、これをまたたくまに済ませてスライムをおしつぶした。
スライムの肉は糸の網目にそって絞られ、隙間から突出した肉がびっしりと並んだ。網目が限界まで肉を絞り切ると、ぶるんと弾けて花火のようにあたりへ飛び散った。
済んだと思った。
その弾け跳んだ破片ひとつひとつが人間のいる方へずるずると床を這い出すのを見るまでは。



スライムにパックマンよろしく追われていた路地裏の男は上空でガラスの割れる音を聞いた。
見上げてみると、真横のビルの最上階の窓を割り、最初は黒点としか見えなかったが人間が跳び出してきたとわかって驚いた。
「ぎゃ!」と悲鳴を上げて、しかし彼は生来親切な男で、両手をひろげてどうにかこれを受け止めようと試みた。
ところが、落ちてくる人間たちはビルの壁に人の腕ほどある杭を打ちつけ、それに手や足をひっかけて勢いを殺しながら降りてくるのだから人間のわざではない。
さらにその上から大粒の雨のように、細切れになったスライムも降ってくる。
さらにさらに、一番最初に落ちてきた男が猛り狂った魔獣のような形相であったから、親切な男はいちもくさんに逃げ出した。



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