その形相からは想像もつかない繊細な落下速度の調整をし、腕に抱えたにほとんど衝撃を感じさせることなくクラウスは路地に着地した。

ツェッドに後ろの襟首をひっつかまれて落ちてきたレオは、始終宙ぶらりであったから、あげすぎた悲鳴のせいで地上についた頃にはすこし喉がかれていた。
ツェッドは品行方正な半魚人だが「どうしました、レオくん」とさっぱりレオの恐怖の理由がわからない様子だ。やはりちょっと世のスタンダードとズレたところがあるのは否めない。
両手両膝を地面につき、めちゃくちゃ怖かったと地面に話しかける。
服の中からソニックが転がり落ちた。怪我はないようだが眼をまわしている。
「だよなあ」
と猿に共感し、ソニックはしばらく地面の上で酔い覚ましをさせてやることにした。
ツェッドが三叉槍をひとなぎすると小さな竜巻が巻き起こり、上空から追いかけてきた重たいスライムの雨は遠くへ吹き飛ばされていった。
飛ばしきれなかった細かなかけらは地面にたたきつけられてそれきり動かなくなった。動かなくなるとみるあっという間に透明度を失い黒ずんでいく。レオナルドが恐る恐る足でつついてみると、ゴムボールほどの弾力だ。蹴っているうちにタイヤほどに固くなり、ついには石炭のようになってしまった。
そこここに石炭となって転がった欠片はひとまず無視してよさそうだ。
視線をクラウスに戻すと、ちょうどクラウスの腕からがおろされたところで、ふたりは無言で、目をあわせることもなくお互いうつむいてしまった。
レオナルドは自分の顔を三度殴った。

「どうしましょうか、ミスタ・クラウス」
「地下に行っていつでも車で出られるように待機しよう。ギルベルトもいるはずだ。猊下は私のそばをお離れになりませんよう」
はこくりとうなずいた。
しかしまだクラウスとは目をあわせづらかったのか、の視線がレオの方に逃げてきて、地面の上に座り込みふらふら頭を揺らすソニックを見つけた。
「ああ、ソニックのやつ、酔っちゃったみたいで。大丈夫だと思いますよ」
レオナルドはの目がはっと見開かれたのを見た。
その眼に青色が映っていると気づいた時にはもう遅かった。
一瞬石炭となっていたスライムは再び急速に透明度を増し、あちこちから音もなくも集合し首をもたげていたのである。
スライムは大人の男ほどの高さに立って上を五つ股にひらき、レオが転ぶように走り出した時には青い手がソニックに食らいついていた。と見えたが、ソニックの体は空にぽーんと跳ねだされた。
ソニックを跳ね上げたは、音速猿が空中で目を覚まし着地の体勢に器用に身をひるがえしたのを確かめるとほっとして、自分の居場所が影にはいったことに気付くのがおくれた。
さん!」
叫んだが遅かった。



スライムはを頭からひと呑みにすると、稲妻のはやさで路地から大通りへと引き摺り出した。
クラウスは牙を剥き猛然と駆けだした。
ツェッドが続いたそのあとをレオナルドも懸命に追いかける。
景色が開け、大通りは五階建てのビルに届くほどの大きさに膨れ上がったスライムが道をふさいでいた。
プロペラ音が轟き、服はバタつき、噴き上げられたゴミが視界をこまかにさえぎる。

「こちらはH.L.P.D.、そこの集合単細胞生物はただちに道路上から立ち退き警察車両を返還しなさい。本警告に従わない場合、重道路交通法違反および公務執行妨害の現行犯に対しては機銃掃射による排除が許可されている。繰り返す、こちらはH.L.P.D.」

警察ヘリがホバリングし、上空から警告を繰り返していた。
一方地上は、機動装甲警官隊と大捕り物をひやかす野次馬がひしめき合って、スライムの周りに群れを成していた。
その人だかりの中央に泰然と居座るスライムは、青インクを水で薄めたような腹の中にここに来るまでの道々で食ったのだろう警察車両数台とたくさんの自転車、業務用ごみ箱に半ばでへし折られた街灯を内包していた。
そのすそ野にはスティーブンの姿があり、クラウスたちの姿を見つけるとぎょっとした表情をみせた。
ザップは上だ。
特大のスライムめがけ、上空十五メートルの高さで振りかぶった血の刃はまたたく間に細く硬質な糸に姿を変える。
「斗流血法・ガグツチ」
刃身の弐・空斬糸
豆腐を金属のザルで叩き潰すみたいに粉々にしてくれる!
その意気で強靭な数多の刃を振り下ろす。その寸前で、スライムの腹の中に見覚えのある女の姿をとらえた。
「げっ猊下っ!?」
慌てて糸を引き戻しバランスを崩したザップの体は頭からズブブと鈍い音を立ててスライムのなかにおさまった。逆さまになって足だけまっすぐにスライムの表皮から突き出ている。
「猊下だって!?」
ザップの断末魔に弾かれスティーブンが振り仰いだ。目も口もわっと開き、端末に向かって叫ぶ。
「撃つな!二十二子猊下がスライムのなかにいるっ、絶対に撃つな!」
直後に閃光がはしった。
銅鑼をたたいたような炸裂音が立て続けに鳴り響き、スティーブンの体は爆風で後方に吹き飛んだ。
応援に駆けつけたライブラ構成員たちはすぐさま銃口をおろしたが、HLPDの警察無線周波数には彼の制止の声は届くはずもなかったのである。
建物に激突する前に緩衝となる風を編み上げたツェッドに助けられ、スティーブンは青ざめた顔をスライムの方角へ向けた。
もうもうと立ち昇る煙がうすれた向こうに、交錯して隙間なく青い肉を取り囲む十字架の姿が見えてきた。
対象をその場に釘付けにするためのクラウスの血のわざが警官隊掃射の盾となり、スライムはやや押しつぶされながらも無傷でその場に残っていた。
十字の盾が油がこぼれるように形を崩すとその奥に、窒息の苦痛に美しい顔をゆがませ、口を覆うの姿がある。
外を凍らせたところで中のの救出が間に合うか。
脂汗が吹き出す。
このとき、スティーブンは遠くから唸りをあげて近づいてくるなにかの音を聞いて頭を振りあげた。
武骨な黒刃が一撃でスライムの腹を斜めに切り分けた。
その刃の傍若無人な巨大さたるや、ビル五階分というスライムのからだを二つに分けた部分から真上を見上げても果てがどこまで続いているのかわからない。
わかるのは黒刃のはるか上空で両手をひろげるような影があることまでだった。
十字架である。
スライム上部は断面からずるりと滑って、まろみを帯びた形を保ったまま水音を立てて地面に落下した。
みるみる透明度を失って灰色から墨色へ、墨色から漆黒色に変色してびくびくと痙攣する。
突如として影に入った地上から、警察もライブラも野次馬も一様に真上を見上げ、顔についたすべての穴をぽかんと開いて動けないでいたが、ただひとり、アスファルトの地面をえぐり上げてそびえたつ黒い十字架を一心不乱に駆け上がる男がいた。

クラウスはすでに黒い海となった断面の下に両手を突き込み、まさぐり、焦った。
姫様!姫様っ、!!」
断面はどんどん固くなり腕が重くなっていく。
姿が見えない。
やみくもに神に祈った。
漆黒に塗りこめられた視界が蒼くひかった。
眼前の景色がひらける。
助けをたれたのは神ではなく仲間だった。
ひらけた向こうに北の庭を見た。
日差しのそそぐレンガのうえに
握った手をはなさずにの体を一気に闇から引きずり出した。
わっと一斉に歓声があがり、いたるところから拍手喝采がわきおこった。大通りの窓と言う窓から、ありとあらゆる紙のたぐいとバナナ、花瓶、時計、テーブルに住人にゴミ箱の中身がまき散らされ、派手な救出劇の幕を飾る花吹雪となって大通りに舞い散った。
傾いだ巨大な十字架のうえ、クラウスの腕の中では何度も咳き込み、黒いかたまりを吐きだした。
酸素をうばわれた顔色は苦しげでかわいそうでしかたがなかったが、それよりも息をしてくれた喜びの方が勝った。
咳が落ち着いてきて、きつく瞑られていたまぶたがあがる。
かなしげに睫が濡れているのは息苦しさからかもしれない、恐ろしかったからかもしれない、またクラウスに迷惑をかけたと自分を責めているのかもしれない。そのすべてだろう。
クラウスは体を少し離してを真正面から見据えた。
笑った顔をしたかったけれど、よく怖がられるからうまくできたかわからない。
「こうして100万回救うより、ただ一度あなたの手を握ることのほうが私には難しい」
こみあげたものを耐えるように唇を引き結び、の細い腕がクラウスをひしと抱きしめた。
クラウスは途端に蒸気を噴きあげゼンマイ仕掛けのロボットの動きで、スライムの水分を吸って肌に貼りつくブラウスの背にウエストコートをかけた。
ふいに、下で黒く変色したスライムがぴしりと音をたてて凍りついた。地上でスティーブンが手をあげたのに、こちらも手をあげて返す。そろそろ下に降りなくてはならない。
濡れてひたいにかかっていた長い髪を耳にかけてやると、うるんだ目と交わった。
そのまなざしを、なにかが許されたように勘違いして首から頬に手をあて、吸い寄せられるように唇をよせた。
いつもよりずっと大胆になっていたクラウスは、しかし繊手にか弱く阻まれる。
だめなのかと思ったが、は自分の口に浅く指をいれて頬にのこっていた黒いスライムの破片をとると、はずかしそうにわらった。
その体を大切に抱きしめる。いまはこれで充分すぎるほどじゅうぶんだった。
文句を言ったのは野次馬だ。

「チューしろよ!チュー!」
「だらしねえぞっ男をみせやがれー!」
「ひん剥いておしたおせ!」

キングスライム騒動を取り巻いていた野次馬と、なぜか警察と仲間からも地鳴りのようなブーイングをくらう。
周りの目を一心に集めていたことに気づいてしまったなら、もうクラウス・V・ラインヘルツは大胆にはなれなかった。

背を丸め大きな体をできるだけ小さくして、の手を引き小股で十字架の坂道を降りていく。
「ザップさん!いま引き抜いてあげますからねっ」
「せーのでいきましょう」
地上では、だいぶ長い時間忘れられていたが、落ちた方のスライムの残骸に突き立っていたザップの救出作業が行われていた。
スライムは活動停止後、時間が経つにつれて固くなっていく性質らしく、レオとツェッドの二人がかりでもなかなか抜けない。せー、のっ!という掛け声で突き出た足を引っ張ると、ザップのズボンだけがすっぽ抜けた。
地上に降りてきたクラウスとの姿を遠目に確かめ、スティーブンは携帯端末を耳にあてる。
「いま二十二子猊下の無事を確認した。猊下へのお目通りはまた今度だ、あとは警察に任せて各自見つからないように解散、おつかれ」
さて、とスティーブンは会議通話を終了して、ダニエル・ロウ警部の番号を探しはじめた。
前回のレギオカ千兄弟の総攻撃の件と黒衣婆の猛吹雪の件、ピンクミドリムシの件の貸しもあるから、スライムに食われた美女を見なかったことにしてもらうのはそう難しい交渉ではないだろう。
その頃、レオナルドはようやくザップ本体をスライムから救出することに成功し、むこうにクラウスを見つけた。
礼を言うようにうなずかれると、レオナルドは気恥ずかしくてだらしなく笑って頭をかく。
その傍らのの胸にソニックが跳びついて、クラウスがどう取り上げたらいいものかおろおろし始めた。
おとといの事故がフラッシュバックし、同時に感触もよみがえりレオナルドは赤面した。
クラウスがソニックをどうにかとりあげ、よそに逃がすとちょうどがこちらを向いて目が合った。
レオは顔が赤いのをごまかして手を振ってみる。
あげたの左手で血しぶきがはねた。






<<  >>