イグニス・スキエンティアはとは同い年で、小学校から学校もずっと同じ、いわゆる同級生だった。
亡き王妃アウライアからの遺伝で同じ病を抱え、体が弱いこと。しかし魔法精製はレギスをもうならせる精度と出力を備えていること。ただ、体への負担が大きく黒魔法、白魔法を自ら使うことはこれまでほとんどしてこなかったこと。
小6までイグニスよりも背が高かったこと。
食事の好き嫌いがないこと。
ついた教育係が極端に厳しく、大きなストレスを抱えていたこと。
耐えに耐えた18歳のある日に初めてその教育係に反抗したこと。
ノクトに優しいこと。
昔は「ずっと怒ったような顔をしているから」とコル将軍が苦手だったこと。なごりで今もすこし苦手なこと。
いろいろ知ってはいるし、小中高と、学内にいる間はグラディオとともに姫君の御身の警護を内密に言いつけられていたが、異常に厳しく行動を制限する教育係のせいでは一度たりとも言いつけを破らず、放課後を楽しむこともなかった。

「あの人はもっと好奇心が強くて、あの教育係が来るまではもっと元気だった。もっと…」

いつだか不満そうにグラディオがもらしていた。
護衛として役割を果たせたかもしれないのは高校の3年間でたった2回、話したのは高三の球技大会の一度きりだ。
クラスメイトがクリアしたボールが、校庭のわきでサッカーを見ていた女子生徒の一団のもとに向かい、それをイグニスが正確に手で取って中に戻した。女子生徒からはわずかばかりの賞賛を得たが、その直後に笛が吹かれもちろんハンドをもらって相手にフリーキックを与えたうえ、

「てめえイグニス!!」
「女子の点数稼ぎしやがって」
「あの中に好きな子でもいんのかこの野郎!死ね!イケメンは死ね!」
「フリーキックは俺に蹴らせろ。イグニスの眼鏡に当てる」

と敵味方問わずすべての男子生徒から猛烈な非難をうけた。
その時の女子の一団には球技大会を楽しげに見学していた王女殿下の姿もあって、試合の後に廊下で感謝を述べられ、二、三、他愛もない話をした。王女はもう覚えてもいないだろう。
あとは2クラス合同調理実習のときだ。
の班の男子生徒がレタス炒飯に一切の調味料を入れ忘れて、ただの焼いたご飯と野菜を作ろうとしていることにイグニスが気付いた。ついでに姫の切ったウィンナーも入れ忘れている。

「すまない、炒飯の調味料を貸してもらえるか。俺の班の分が見当たらなくてな」
「え?ああ、いいけど」

別の班だったイグニスに声をかけられ、調理台のうえで調味料を探した男子生徒は「あ!ちょっと待って」となにかに気が付いて声をあげた。

「あっぶねー。入れ忘れてた」
「もしかしてそのウィンナーもじゃないか」
「ほんとだ。隠れててわかんなかった。サンキューイグニス」
「いや」

これを護衛の記憶の2回のうち1回に数えるほどだから、高校時代の王女殿下との思い出のとぼしさはいなめない。
だからこそある日、廊下の角の向こうでうつくしい声を聞いたことはいまも鮮明に覚えている。
まず聞こえてきたのはグラディオも嫌ったの教育係の声だった。
いつも一方的に教育係が言葉をぶつけてはうつむいて反論をしない。それゆえに増長は留まることを知らず、その構図は最近では廊下でまで繰り広げられるようになっていたのだ。散々強い口調で言った最後に、教育係の女が嘆息まじりに言い放った。

「そのようになさるから、ノクティス王子があのような下賤な者と交わるようになるのですよ」

ノクトの教育係であり、友人であるイグニスの頭に静かに炎がかけあがる。

「わたくしの弟の友人はわたくしたちの下にはいません。いやしくもない」

「なっ」

従順な王女の初めての反論は、えんじ色の絨毯の敷き詰められた廊下に凛と響いた。

「下がってよろしい」

おそらく世界で一番うつくしい声だった。






「顔が見たい」

盗み聞きした声をずっと胸にしまっているような男に対し、姫君のそのような仰せは身に余った。
緊張の面持ちでイグニスはテントの中にはいり、無礼にならないよう考えた結果だいぶ距離をあけてかしずいた。しかし王女殿下がこちらへ手を伸ばしたのを見てしまったなら、おとなしく膝を進めるほかなかった。
それでも王女殿下が一方の手を支えに、もう一方の手を伸ばしてようやく届くという位置までしか進めなかったのは、勇気がなく、けが人への配慮も欠けた、イグニスにしてはたいへんに不適切な判断であった。
もう少しでイグニスに届くというところで支えていた肘からかくんと力が抜け、あわや王女が湯気をあげるお粥に倒れ込むという寸前でイグニスはようやく前にでた。

「姫様っ」「姉上!」

胸で頭をあずかり、背中に手をそえる。
完全に脱力したわけではなかったが痩せた腕は両方とも力なく床に垂れていた。

「ノクト、エリクサーを」

の頭と体を支えながら早口に言い、寝袋の形を素早く整える。
ノクトが空き瓶と中身の入った瓶をごちゃごちゃに積みあげてできたアイテムの山と格闘している間に、イグニスの胸に額を預けたまま、の声がした。

「よく無事でいました。よくノクティスを守ってくれました」
「王女殿下におかれましてもよくぞご無事で。ですが、いまはまだお休みください…どうか」

細心の注意をはらって身体を横たえる。

「あ!あった、エリクサー!姉上うおっ」

慌てて振り返ったはずみでノクトの手からエリクサーの小瓶が滑って弧をかいて跳んだ。跳んで行った先は横たわった王女殿下の顔の真上で、ノクトは「あ!」の形で大きく口を開けたが、これをイグニス・スキエンティアが止められないはずはなかった。
ぱしと、正確に受け止める。

「ナイスイグニス!」
「慌てすぎだぞ、ノクト」

言いながらエリクサーのガラスの蓋をあける。
魔法の光をまとった青い液体が霧となって舞いだした。
ノクトと同じ色をしたの目はエリクサーではなく、イグニスの顔をじっと見ていた。
はて?とイグニスは考えた。

「…お食事を、なさいますか」
「球技大会の日のよう」

寝袋のなかに口元まで隠して微笑んだ姫君を見るや、イグニスの身体は一瞬で動けなくなり、手から滑り落ちた空き瓶が床に転がった。



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