すれ違いざま「たのみます」と消沈した八戒がこぼした。
八戒のローブを頭からすっぽりかぶったそれは、荒れたドライブに酔ったのか、あるいは長い間歩かなかったためか、踏み出す素足は震え、もつれた。洞窟を出た瞬間、光が目に入って身体が跳ねたからおそらく後者だろう。
それでも「ついて来い」というと、松の幹にすがって三蔵のあとをついてきた。
大した距離ではなかったが思った以上に時間がかかり、川岸にたどり着いた時にはもう夕日は山の影に沈んでいて、かろうじて山々のふちどりを赤くしているだけだった。反対の空はもう暗い。月が出ていて真っ暗闇でないのが不幸中の幸いだろう。

人を押し流すほどの急流ではないものの一応大き目の石を積んで囲いを作る。
「そこで体を洗え。タオルはここに置いておく」
洗車用のタオルらしいが、ないよりはましだろう。
川に向かって立ったまま反応がない。
早くもしびれをきらし、語気を強めようと三蔵が口を開いた瞬間、黒いローブが砂利の上に落ちた。
三蔵にしては珍しい素早さで顔をそらして背を向ける。
ぼさぼさの髪が引きずるほどの異常な長さであったためほとんど見ずに済んだが、見えた肩や腕のしなやかさは三蔵には見慣れないものだった。

後ろの水音がやけにあたまに響いて落ち着かない。
煙草を取り出し、ライターの火を寄せた。
何度かジッポを開け閉めするが火が出ない。
洞窟で灯りがわり使ったせいだと思い当たると、ふつふつと背後に恨みが湧いてきて煙草をへし折った。
女の水浴びは長かった。
髪が長いからかと思った。
光明三蔵法師は髪の長い人で、風呂が長かった。乾かす手伝いをしていた弟子はいつだか「どうしてそんなに風呂が長いのですか」と口に出して聞いたことがあった。
「髪が長いからですよ。洗うのが結構大変なんです」
師はこたえた。風呂で熱燗をやっていると知るまで、師には素直な弟子はしばらくこの言を信じ、ドライヤーと櫛とで入念に師のキューティクルを整えていた。

川の静けさと懐かしい記憶がヤニ切れの心を静めていたが、石の崩れる音に再びかき乱された。
女は三蔵が作った囲いを超えて川の中へ進み出していた。
手に黒いローブを掴み、向こう岸に渡ろうとしている。
水底を必死に踏み、水をかき分けながら三蔵のほうを一度だけ振り返った顔は、その造形だけで神仏が欲するのもうなずける。あの洞窟ほどではない暗がりに骨の浮き出た女の体の輪郭を見たが、眼を見たとたんもはや感情は湧かなかった。
その眼は三蔵を自らの尊厳を奪い続けた者たちと同列に見ている。
深みに踏み出したのか、不意に水面から女の姿が消えた。
三蔵は息をおとした。
短い真言のおわり、魔天経文が夜の闇に不気味に広がった。



夜になって松林は急に冷えだし、火のそばだけがあたたかい。
悟空がこれでもかと集めた松の薪のおかげだった。
「遅いですね」と八戒が三度目同じ言葉をつぶやいて小川の方角を見た。
「腹減ったァ、腹減ったァー」
「我慢してください悟空。これしかないんですから」
非常食のカンパンだけが今日の夕飯だ。
犯人の身元を隠すために使った黒いローブを地面に敷き、そのうえに仰向けに寝そべっている悟浄が組んだ足をぶらぶら揺らす。
「だーから俺が川で釣ってきてやるっていってんでしょ」
「それ以上いったら怒りますからね」
「へいへい。つか八戒さあ、ここってどこだかわかってんの?」
「おおよそは。夕日があっちだったので、長安はあっちかなー程度ですけど」
「なによそれ不安。ん、どした猿」
悟空が急に立ち上がり、さっと八戒の後ろに隠れたのである。
ほどなく三蔵の足音が聞こえ始めた。
「おう、遅かったなあ、何発ヤってんのかとイッテ!なにしやがんだっ」
すれ違いざまに脇腹を蹴られていきり立った悟浄だったが、三蔵の両手を塞いでいるものを見ると呆気にとられ、握っていたこぶしは自然とほどけた。
三蔵の腕の中で三蔵法師の法衣をまとった女が眠っている。それも、もの凄い美女である。
「三蔵、パス、パス」
両手で乞うがあっけなく無視され、女は八戒が土に広げたローブの上に横たえられた。悟浄がのぞきに来る前に八戒が女のからだに自分の上着を脱いでかける。
「途中で眠ってしまったんですか。あ、髪まだびしょびしょじゃないですか」
「向こう岸に逃げようとして溺れたから経文でとっつかまえて引きあげた。息はしている」
「おっまえ、もう少し優しくやれねえのかよ。ったく、相手は猿じゃねえんだぞ」
三蔵に突っかかっていきながら、悟浄も上着を脱いで女の体の上に放った。
「服まで貸してやってんだ。上等だろうが。それよりカッパ、そのローブ寄越せ。くそ寒くて腹が立つ」
「は?それ俺が寒いだろうが。持ってったやつどうしたんだよ」
「そこのが川に流した」
「じゃ許す」
「ぼく、あなたのそういうところ好きですよ」
「よせよ八戒。そっちの美女にいってほしさが増すだけだっての」
悟浄の使っていた敷布の上にどっかと座り、三蔵は焚火でようやく煙草に火をつけた。深く吸って吐き、物憂げな八戒を見、いうほど浮かれてもいない悟浄を見、拾い物を警戒してやけにおとなしく自分の後ろに座っている悟空を…悟空は見ずに、これ以上の面倒ごとだけは御免だと夜に煙を吐いた。






真夜中に、悟浄は自分のくしゃみで目が覚めた。
川から這い出す冷気が肌を刺す。生臭坊主にローブを奪われたせいだ。そういえば上着まで貸してしまったんだっけ…誰に
「…」
そこまで思い出すと、悟浄の目ははっきりと冴えた。
あたりを見回し、八戒と三蔵がローブにくるまって寝ているのを見つける。悟空の姿が見えなかったが三蔵のローブの中から悟空の足だけ見えた。
もうひとりは…。
焚火のあかりがかろうじて届く松の木の下、見慣れた三人ではない人影がぽつんと立っていた。
しばらく目を凝らしていたが足は止まっていて逃げようという様子はない。
悟浄が近づくとその足音に気づいて黒いローブを羽織った女は前にニ、三歩出たが、足がもつれて転びかけ地面に手をつくと、そこからはもう逃げなかった。
「よっ。なに見てたの?」
悟浄は女の横に屈みこむ。
「見してみ」
地面に着いた手のひらを取り、ついた小石と砂をぱっぱと払った。
「髪も地面についてるし」
長すぎる髪をすくって手櫛でちょっと整える。あのあと八戒が丁寧に拭いていたが、小さなタオル一枚ではこの長さはまかなえなかったのだろう、髪はまだしっとりと濡れていて外気にさらされ冷えきっている。あと、生臭い。川の水がよくなかったらしい。
右のポケットを探って出てきたゴム違いのゴムはポケットに戻し、左のポケットから出てきた目出し帽で適当に女の髪を縛り、火のそばに戻した。
間近で見るとひときわで、寒さとは別の意味でぶるりと震えた。
これの沐浴についていき彼シャツ状態で抱えて戻るというコンボに見舞われながら鼻血のひとつも出さない三蔵がむしろちょっと心配になる。
「…」
「あー…なんつーか、俺らこんなナリだけどさ、神様のお使いであんたを助けにきたんだよ」
手慰みに悟空の集めた小枝を手折っては火に放る。
悟浄の言葉に長いまつ毛が動き、この姿で本当に生きていることにひっそりと驚く。
「今日はこうなっちまったけど明日になりゃ腹いっぱい食って、あったかーいベッドでフリフリのパジャマで寝られるようになる」
「…」
「楽しみだろ」
「…あなた方は、どなた」
明日を楽しみに生きろなんてガラにもないことをいった甲斐あって、声が聞けた。
夜に沁みる耳に心地よい声は、感情が壊れ狂った者のそれとは違う。嫌悪の念どころか、長い間閉じ込められていたにしては言葉遣いも悟浄よりよほどいいのは最初にこれを所有していた村では神様扱いされていたというからその名残だろうか。
ただ、まともな神経のままあの場所にいたのだとすればイカれるよりももっと運が悪い。
「俺は沙悟浄。あっちのアクセルベタ踏みが八戒で、あっちの坊さんに見えねえ坊さんが三蔵様。んで足だけ見えてんのがチビ猿」
悟浄が指さした順に素直に視線を巡らせ、最後に悟浄に戻って来た。マブい。
「名前は?」
「……易、と」
「それ名前じゃねえだろ」
それきり女は考え込み、長いまつげが伏せられる。
「ま、そーゆーこともあるだろ。じゃあ明日は名前ももらえるかもな」
再び二つの目が悟浄を見上げる。
肩を抱きたい衝動は不思議とおこらず、頭の上に軽いチョップをお見舞いしておさめる。
「うっし。楽しみにしてもう寝るべ」
女は小さくうなずいて立ち上がった。
おもむろに黒いローブの留め紐をほどき始めたのを見てぎょっとする。
「や、そういう意味じゃなくてっ」
こんな千載一遇の機会を無碍にするのは沙悟浄の名が廃る、が、そういう扱いをされていた女を助けたその晩にどうこうしようとはさすがの悟浄も思わない。
女のほっそりとした腕がこちらに伸び、もはや観念して、これまでのことを忘れるくらい優しく抱いてやるほかないと右ポケットに元気よく手を突っ込んだ矢先、冷たい風にさらされていた悟浄の肩に上着がかけられた。
「貸してくださってありがとう」
遠ざかった細い背中は、少し離れた場所でローブにくるまって横になった。
右ポケットで掴んでいたものを放し、悟浄は黙って煙草に火をつけ夜空を見上げた。
肩透かしでも男四人の野宿に心躍る瞬間をプレゼントしてくれたことに感謝すべきだろう。
煙を細く吐き出しさめざめとつぶやいた。
「…でもこれ、八戒のな」
そのころ、悟浄の上着はジープの寝床となっていた。



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