慶雲院の正門にあたる巨大な南門の下で悟浄が小声でいう。
「マジでうちにしとけって。こんなトコいやだろ普通」
「黙れ色欲河童」
「いやそういうの無しでいってんの。色欲まみれつったら寺こそそうだろ。やせ我慢した男だらけの空間にあのお姫さん突っ込むんだぞ。見ろアレ!」
悟浄の指さした先、八戒の手を借りてジープから降りた女は頭をそっくり隠す布を垂らし、三仏神に渡された装束は幾重にも衣を重ねて肌と体の形が分からぬように覆っているが、衣ごしにもまばゆい光をはなつがごとくであった。おそらくはこれもその身に宿る神通力によるものであろう。
三蔵が視線をとめて思案し始めたのを見、悟浄はここぞとばかり言葉をつなげた。
「だろ?ここに比べりゃ頻繁にヌいてる俺のほうがよっぽど」
南門の空にハリセンの快音が響いた。



名実ともに桃源郷東方随一の寺院、ここ慶雲院には長安のみならず桃源郷じゅうの優秀な僧侶の粋が集められる。誰も彼も戒律に厳しく、柔軟性は乏しく、プライドが高い。
ここに女を連れてきて厚く遇せとなれば、僧徒の性欲をさしひいても悟空を導きいれた時以上の悶着があることは想像がついていた。
「尊堂様のご来迎、我ら一同心よりお待ち申し上げておりました。ご神性ご識見の一端に触れさせていただきたく存じます。当院に一日でも長いご滞在をお願いいたします」
いざ広大な敷地に足を踏み入れると、広い廊下の両側に坊主頭がずらりと並ぶ、見たことのある景色と、聞いたことのあるセリフを以て迎えられた。三仏神から「神が行く」と事前の連絡があったのだろう。
しかし来る神が女とは聞かされていなかったようで、衣通姫の姿を見るなり次々ぎょっと目を剥いた。
三蔵がそうであったように裏であなどられることは避けられまいが、幸いにしてこの女のすみかは寺院の最北の伽藍群にあたる経堂のさらに北西、竹林へとつながる細く長い渡り廊下の先の客殿である。経堂はもとより寺院の北西から北東にまたがる竹林に足を踏み入れる者はほとんどない。加えて客殿は風通しを良くするために高床にしてある。花窓と扉を堅くとざしてしまえば僧徒とすれちがって悪口雑言を耳にすることはまずない場所だった。
女の耳には届かないかわりに、苦情は夜の集会(しゅうえ)で一斉に三蔵のもとに来た。






「だーからいったべ?うちにすりゃよかったって」
「うん…」
「すみません。チキン南蛮膳追加で、悟空ももっと食べますか」
「うん…、からあげと、エビフライと、ローストビーフと、デミたまハンバーグとサーロインステーキと、ライス大盛とキャラメルハニーパンケーキ…」
「このチビ猿、まだ食うのかよ。あ、おねーさん、ビールも追加ね。あとさ、今日何時にバイトあがるの?待ってっけど。俺きょう金あんよ~?」
「以上で結構です」
八戒が強めに閉じたメニューの音に断ち切られ、悟浄はあきらめてソファーに背を沈めた。
夜のべニーズで客単価を上げに上げている悟空だったが、夕方前に遊びに来てからずっと唇を尖らしてうつむいている。
どうしたと聞いてやっても野球に付き合ってやっても結んだ唇の下に波を作るばかり。夜にファミレスに連れて行き、好き放題頼んでいいといってようやくぽつりぽつりと不機嫌の理由を話し始めたのだった。
「そんで?三蔵様があのお姫さんのことでさんざん坊主どもに文句いわれて、なんでお前が家出すんだよ」
「…」
「悟空…」
八戒の優しい声音にも耳を貸さず、悟空は再び口をとざしてズボンをぎゅっと掴んだ。
「からあげとエビフライお待たせしましたー」
「だって結局、あいつ、居ることになっちゃったし」
あ、飯来るとしゃべるんだ。
「なっちゃったって。ラッキーだろそれ」
「ビールとコーンクリームスープ、サーロインステーキおまたせしましたー」
「はい、どうも~、君かわいいね」
苦笑いして去っていくウェイトレスの背に指を揺らす、その下で悟空は渾身の力で首を横に振った。
「俺もヤダっていったのに…!」
「はぁ?おまえ、あのお姫さんがどんだけ貴重かわかってんのか?」
「ヤだ!」
「バッカ!おまえ、ありゃ、その…肉に例えるとA5ランクだぞ」
「悟浄、悟空にものを教えるの上手くなりましたね」
「ヤだったらヤだったらヤだ!」
不機嫌の理由はわからないが、家出の直接的な原因はこの調子で三蔵の前で駄々をこね、ただでさえ苛立っていた三蔵に追い出されたからに違いない。
見かねて、「悟空」と八戒が優しくさとした。
「どうしてそんなに嫌だと思うんでしょう。叩かれたり、悪口をいわれたりしたんです?」
「それは…ないけど」
「最後のお肉を取られたりは?」
「ううん…。あいつ飯食わないんだって」
「嘘をつかれた?」
「ううん」
「なにか壊された」
悟空の顔があがり、大きな金の目が驚いたように何度か瞬きした。
「…なんか、壊される、気がする」
悟空の目だけに映る幻があった。
無数の手が追いかけてくる。
どれだけ走って逃げても振り払っても、闇に引きずり込もうと追って来る。
しかしふと振り返ると、無いのだ。
なにが無いのかわからないが、何かが無いとわかる。
なにが、なにがと考えて喉の奥がつまり、からの手のひらが震える。
あの女がその幻を連れてくる。
悟空の厭うそれが500年前にいやほど感じた神々の気配であるとは、この地上において気づくものはほかにない。
それでもこの子供が茫然とした顔で嘘をつけるほど器用でないと悟浄も八戒もわかっていた。
「…スキあり」
「あ!それ俺のからあげ!」
「一個食っただけだろうが。だいたい誰の金でファミレス来てると思ってんだ」
「返せよ!返せったらあ!」
「しっかたねえなあ。ちょっと待ってろよ、…オエ、おええ」
椅子の上に跳びあがって抗議すると悟浄はめんどうそうに喉の奥に指をつっこむふりをした。
「わっ!きったねえ!」
「おえええ」
「悟空、椅子の上に立たない。あなたもみっともないことしないでください」
「おえええ」
「あは!やめろったらぁ!」
つい今まで泣きそうだった悟空がもうキャッキャと笑っている。
こういうことに関してはかなわないなあと八戒はあたたかなコーンクリームスープに口をつけた。
今晩はうちで預かって悟浄と遊ばせておけば、明日にはケロっとした顔で帰っていく気がした。三蔵に後で電話の一本でもいれておこう。その時、悟浄が冗談で聞いた「宝くじの当て方」で本当に百万当たってしまったことも一応報告しておくべきだろう。
「そういえば、三蔵はどうやってお坊さんたちを説得したんです?」
「んとねー、女ではないかー!ってみんなにいわれて、女じゃない、神だっていってた」
「あの姿見せられといて女じゃねえって思い込めってか?」
「みなさんよくそれで納得しましたね」
「うん、その証拠に上も下もないって」



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