くだんの川で正確な情報を得たうえでその奥ゆかしい胸部を悪用して事態を収拾した最高僧は、ずっと不機嫌であった。
が着院した翌日には長安近郊の寺々から生ける神をひと目拝もうと、客が押し寄せてきたのである。
門番を命じた8歳と9歳の小坊主だけでどうにかできるはずもなく、一時三蔵が離れの客殿に張り付く形になった。
天蓋つきの寝台の横に椅子を置き、「次ぃ」と低くいうと、ハゲじじいが出て行って、ハゲじじいが入って来る。その繰り返しだ。工場のベルトコンベアを見るような気分である。
三蔵が決めたわけでもないのに集会では散々文句と嫌味を聞かされて、ようやく済んだと思ったら部屋で悟空が盛大に駄々をこね、悟空が家出して静かになったと思ったらハゲじじいのベルトコンベアだ。
落ち着いて煙草の一本も吸えやしない。
この状況を生み出した元凶はというと寝台で上体を起こし、繊手を重ねて始終無言で坊主頭の頂点を見つめている。にこりともしない。
「ありがたや、ありがたや…!」
その容姿と、長らく陽に当たらなかった白い肌に加え、この何物にも心を動かさない様子がどうにも神仏ファンのハートをくすぐるらしい。
八戒によると、悟浄もこれにいわれたとおりの時間、街、店舗、枚数で宝くじを買って当たったというし、そのせいで長年囚われていたのだから実際、なんらかの人ならぬ異能があるのは間違いないのだろう。
「次ぃ」
かれこれ四時間を過ぎてついに三蔵は次を呼び込むのをやめた。
様はお疲れのご様子、これにて本日の謁見を打ち切る」
とは三蔵の言い分であったが、当の本人は疲れを訴えるどころか一言も発していない。
そも、造形の出来の良さも相まって生きているのかすらわかりにくい。
「本日の謁見は済みました」
声をかけてみると、視線が三蔵の方へうつったのでとりあえずは生きているようだ。
「…あの方々はどなたですか」
「当院の上級僧とここよりほど近い寺院をおさめる僧正たちです」
「…わたくしは何をすれば」
「特に何も」
「…」
「そのままでよろしいかと」
たいそう喜ばれていた様子だし、長話をされても困る。
女の表情からは三蔵の言葉を喜怒哀楽のどれで受け止めたのかさっぱりわからなかったが、それよりも今はヤニ切れである。
客殿の扉に鍵をかけておもての小坊主に預け、煙草をとりに足早に渡り廊下を戻る途中、向こうから紫の袈裟をかけた三人の老僧がのろのろと歩いてきた。三蔵とすれ違う時には体を手すりに寄せて道をゆずり、折り目正しく手を合わせる。彼らはこの慶雲院にある大派閥のうちのひとつ、その幹部であった。
「これは、三蔵様。きょうの謁見は仕舞ったと伺いましたが」
「ああ、いましがた」
「左様にございますか。私どもからもご挨拶申し上げてかまいませぬか」
「…かの君はお疲れのご様子。短く済ませるように」
「はは。ありがたや。では、これにて」
曲がった背中が亀のようにのろのろと離れに向かって歩き出した。
あらゆる事象と道理をあまねく見抜く叡智は、仏門において最も尊いものとされている。
星見や先読みの能力を持った者は、書物にその記録があるように多くの時代にたいてい数名は存在する。エセもあるだろうがそうでないものも稀にいて、西域ではそのような娘を見つけて生きる女神として崇め奉る文化もあると聞く。
生まれる場所が違えばあの娘も…そう考えるのはいらぬ情をかけすぎである。
ただ
もし
あれが真実その身に叡智を備わすならば

―――聖天経文の行方

乞えばその答えを得られるのだろうか。
「あ、三蔵!」
「お、代打三蔵法師様いっとく?」
「お邪魔してます」
「…」
帰り着いた執務室では野球が繰り広げられていた。
三蔵はマウンドを無言で横切り、執務卓の引き出しにあった煙草を咥えて火をつけた。
一息ついてから
「帰れ」
「開口一番それかよ。こっちはお宅の猿が逃げ出してたからわざわざ返しにきてやったってのぉ…にっ!」
「猿じゃ、ねえ!」
言葉尻に悟浄のはなったカラーボールは悟空の振りぬいたカラーバットをわずかに逸れ、背後の書架に当たって跳ね返った。
「おっしゃ、ストラーック、バッター、アウトー」
「帰れ」



「酒出せ」「帰れ」「腹減った」「この本読んでも?」
ぎゃあぎゃあと始まって暫く後、三蔵の執務室に小坊主がノックも忘れて跳び込んできた。
「さ、三蔵様!一大事でございますっ」
「あぁ?」
なんだかんだでバッターボックスに入っていた三蔵は疎まし気に小坊主を睨んだ。八戒が即席で作った紙の電光表示板によれば、ツーアウト満塁の大事な場面である。
「すごむなすごむな。どーしたよマルコメ君」
チンピラ風のピッチャーが寄って来ると小坊主は思わず御仏に祈りそうになったが、勇気を振り絞って声をあげた。
様がっ、すごい熱を出されてっ…!」
来るなといっても聞かなかった八戒と悟浄を連れて離れの棟にとんぼ返りすると、は寝台に横たわって胸を小刻みに揺らしていた。
「本当だ、かなりありますね」
額から手をはなし、八戒は沈痛な面持ちである。
意識はあるが話すことはままならない状態だった。悟浄も八戒の上から様子をのぞき込む。
「おいおい大丈夫か」
うすく開いている目が悟浄の姿を見つけると、少し頬が緩んだように見えた。この変化に目ざとく気づき「おし、やっぱうちに連れてこう」などとのたまって全員に無視される。
「いつからこうだったんです?」
「つい1時間前まではなんともない様子だったが…おい、そこの」
思い当たるところがあって戸口で不安げに立っていた僧坊を振り返ると、「はい!」と緊張した返事が返った。
「俺が出て行ってすぐあとに来た者たちがいたが、あれはどういう用向きだった」
「え、えっと、あのお坊様方は、様に隆南院から消えた五つの経典の行方を御尋ねになられて」
「それって僕らが以前窃盗グループから取り返したものじゃありませんでしたっけ」
「…それだけか」
「は、はい。おそらく」
「わかった。閉めて下がっていろ」
三蔵の思案顔を睨まれたと勘違いし、坊主は泣きだしそうな顔で慌ただしく扉を締め切った。
「三蔵」
「ああ、お前らがあたった例の件だ。経典はもう隆南院に戻っている。当然連中もそのことは知っている」
「試した、ということですか」
「ハッ、そりゃ徳が高ぇこって。占わせるふりして気に入らねえとかなんとか因縁つけて、毒でも飲ませたんじゃねえだろうな」
「奴らはうちでも老獪中の老獪だ。時間をかけてじわじわ追い詰めることはあっても三仏神から預かったモンをこうあからさまに殺すほど馬鹿ではない」
「じゃあ、あれだ。水だろうが食いモンだろうが、口に入れたらおっ死んじまうんだろ。おじいちゃん達がなんか食わせちまったんじゃ」
「食事の件は念入れて通達している。本人も食うまい」
「だとすると、単に疲れが出たのかもしれませんね。闇医者さんも少し熱があるといっていましたし、あんな場所にずっと閉じ込められていたんですから、環境の変化に体がついていかなくても不思議はありません」
いいながら八戒は乱れた前髪を横に流して撫でつけ、額の熱を逃がしてやる。
「かわいそうに」
傷一つない額に八戒の指がもう一度触れ、病人をいたわるというよりはどこかうっとりとした様子で意識を注いでいる。
この前拾っただけの女に対するこの執心は、恋慕ではなく後悔ゆえであろう。
しんと室内が静まる一瞬があって、三蔵は部屋の中を見回した。
悟空の姿はやはりどこにも見当たらなかった。



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