その後客殿への立ち入りは事前の承認制とするルールを設けたが、小坊主のいったとおり、三蔵が出て行ったあとのあの三老僧はこれに占いを頼んだだけだった。毒を飲ませたわけでも物を食わせたわけでもなく、それどころかの逗留容認派に加わり七日に一度は拝謁の申請を上げてくるようになったほどだ。
その者たちを機にに占いを頼む者たちは増えていった。
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依頼内容はどうでもいいものから深刻なものまで多種多様であった。しかしこれがまたことごとく当たる。噂が噂を呼び、はじめは日に一件だったものが、三、五件と増えていき、1か月もすると、承認印を求める書類は束となって毎朝三蔵の執務室に運ばれてくるようになった。
「入ります」
三仏神に世話を命ぜられている三蔵は、責任者に義務付けられた院内見回りの際に経堂から離れへ渡り、中の様子を確認する程度はしていた。心の底から面倒に思いながらも生来この男は真面目なのである。
最近はたいてい占っている最中か、熱を出して寝台で短く浅く息をしているかのどちらかだ。
今日は後者のほうだった。
「お加減はいかがですか」とこの状態で眠っているに棒読みで尋ねるのはしばらく前からやめていた。
これは占うと頭だけ熱を出す。
そう気づくまでに時間はかからなかった。
八戒と悟浄が知れば非難を浴びせるに違いない。若い娘にこんなことを強いるのが坊主のやることかと。しかし、やはりこれはただの人の女ではない。
水一滴も飲まずに生きながらえているのだ。
おかげで用事の一つも発生しないため、一週間前に小坊主は夜間の番の任を解かれた。夜の内は三蔵付きの僧侶らが複数名で鍵を厳重に管理して朝と昼だけ小坊主が戸の前に立って鍵の番をしている。
死なないという噂の検証まではしないものの、500年ものあいだ飲まず食わずで生きた悟空に近いといえば近い。
その悟空はというと
「やだ!」
相変わらずこの一点張りで、客殿のある竹林に寄りつこうともしない。
「なにがそんなに嫌なんだ」
「…嫌な感じがするから」
「猿語には疎い。人語で話せ」
悟空は服の腹を意味もなくこねて、胸のうちをいいあらわす言葉を頭の中に探しにいくがどうしても見つからない。
「…におい、とか」
絞り出したのがそれだった。
「客殿には風呂もついているだろう」
「ともかく、やなの!」
いっていることはさっぱりわからなかったが、あれは、動物的に勘がきくことがある。
組んでいた腕を解いて、三蔵はの寝台のすぐそばに立った。
シーツに手をつき、顔を寄せる。
特になにも感じない。
いま少し寄せると、寝台がぎしりと軋む音をたてたがのまつ毛は伏せられたままだ。
特には。
嗅覚としてのにおいではなく、動物の第六感がこれに不穏なものを感じ取っているのかもしれない。
「…」
起こさぬようにそうっと額に手をあててみたのは、哀れみからではなかった。
このやわらかな肌の熱い額のその奥に、血反吐を吐きながら土を這って探し求めた聖天経文のゆくえが、師を殺めた妖怪の真実がおさまっている。
「…」
扉を外から叩く音があった。
「三蔵様、様、次のお坊様がお見えです」
の瞼がゆっくりと開いた。
そばに立つ三蔵の姿を見つけたがその表情に感情はなく、体を起こし目礼をしただけであった。






開け放たれた渡り廊下の先、木漏れ日のさわやかな竹林の合間に曲線を描いた屋根がかすかに見える。
「あれは何をする建物なのですか」
が尋ねる。
「あれは経堂ですよ」
元気に応じたのは、日中は交代で客殿の門前に立つ僧坊である。名を新といった。
僧坊とは僧侶の身の回りの手伝いをする見習いのようなもので、まだ男とは見なされない年齢の者も多く、こうしての住む客殿の門番を任されている。
タオルや衣類の交換以外で客殿内に入ることは許されなかったが、朝方など占術の客がくるより早い時間には、たまにこうしての方から扉を開けて渡り廊下に降りる階段まで出てくることがあった。
はいつも階段の同じ段に腰掛ける。
僧侶たちと同じ藍色の着物なのにが身に着けると新の目にはまったく違う清廉なものに映った。
「経堂というのは何をする場所でしょう」
容姿がこうで、相手は叡智を身に備わす神仏だというのではじめのうちは言葉を交わすなどもってのほかとひれ伏していたが、まるではじめて外の世界を知った人のようにが尋ねるのは小坊主風情でも知っていることばかりだった。
しかも僧侶方々とは違って馬鹿にされることもなかったので、いつしか教えるのが楽しみに、そしてが高熱を出して寝台から動けない日は可哀想に思うようになっていった。
新は得意になって短い指をピンと伸ばし、経堂を指さした。
「あそこにはたくさんのありがたい経典をおさめてあるんですよ。大掃除の時くらいしか普段はほとんど入らないんですけど、あ、三蔵様はたまにあそこで座禅を組んだり、読経をされているようです」
「どうしてお坊様はお経を読むのですか」
「お経を読むのは仏様の教えを繰り返しいって覚えるため、というのがあるんですが、まえの大僧正様は何かを誓うために読んでもいいし、誰かを供養するために読んでもいいっていってました。だから私は、亡くなった母の供養のために」
いった後に照れくさくなって頭をかく。前に寮でこれをいったらマザコンだとバカにされたのを思い出し、恐る恐るを窺う。
向けられていた真剣なまなざしにどきりとした。
「優しいひとだったのですか」
「は、はい、とても!…」
「そう」
はゆっくりうなずき、遠く渡り廊下の向こうを見つめただけだった。
「そうなの」
「…あの、様の家族は」
その横顔がふいに硬質なものを纏った。
失言をしたのかと思ったが、視線の先をたどると背の曲がった袈裟姿が二つ三つ、廊下の向こうからこちらに近づいてくるのが見えた。
引き摺る長い髪を扉に挟まぬように中へ送り、門をぴたりと閉じた。
新はこの客殿に向かい来る仏敵を金剛力士のように退散させる夢を見ながら、今はただ震えて鍵を握りしめ、を苦しめる老人たちの足が亀よりも遅いことを祈っていた。







境内に落ち葉の降り積もったある日、百発百中と思われたの占いが外れた。
わざわざそれを三蔵に報告に来たのは永年という名のキツネ顔の僧侶だった。タヌキのような小太りの僧侶を従えている。
「三蔵様、この寺院のために敢えて申し上げます。あれは神仏をかたる不届き者に相違ございません」
永年は昨日のもとを訪れ、明朝五時までに降る雨がひしゃくにどれだけ溜まるか占わせたという。あまりにくだらなくてそのような申請に承認印を押したことさえ三蔵は忘れていた。
は五割二分一厘であると答えたが、今朝仲立ての僧が見てみると実際には三割ほどだったという。
「ほかの占いも当てていると見えて、色香で男どもを操って自分の占いが当たるように仕向けているのではありますまいか。我らをたばかる不浄の者をこれ以上この清浄なる慶雲院に留め置けばわざわいを招くやもしれませぬ」
鼻息荒くキツネが主張する横でタヌキ顔が何度もうなずく。
「わかった。下がれ」
半ばから聞いていなかったが、そろそろ煙草が吸いたかったので追い払うと扉の外で待っていた悟空が執務室に入ってきた。すれ違いざま、キツネ目が侮蔑の目を悟空に向けていたが、本人はその視線の意味に全く気付いていない。
今以てこういう扱いは珍しいことではなかった。
友好的な者もいればそうでない者もいるというだけだ。
「なあ三蔵、今のおっちゃんたちなにしに来たの?」
「うどんとそばの話だ」
一服していう。
「ホント!?俺、両方好きだよ。食っていいの?」
「さっき朝飯食ったばかりだろうが」
「えー?あ、そういえばうどんとそばのおっちゃんたち俺朝見たよ。今日二回目」
「ああ」
「ひしゃくの水飲んでた」
「…ああ」
うどんとそばはあちこちに醜聞を吹聴するだろうが、こんなことをいちいち咎めるのは面倒だ。
第一、100の占いのうち1はずれたとしてももはや長安の僧侶のお歴々はを門外に出すことすら同意しないだろう。



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