まるふた月が過ぎるころにはの熱が下がることはなくなり、悟空の家出はいよいよ頻繁になった。
は相変わらず三蔵の前では人形のように表情ひとつ変えず、文句のひとつもいわない。まずその姿に腹が立つ。
次に、一年先まで占いの依頼が埋まるとこれこれこういう理由だから先に占ってくれと三蔵に直接陳情する僧侶があとを絶たなくなったことにも腹が立つ。
悟空の方は戻ってくるとケロっとしているのだが、そのたび八戒と悟浄も一緒についてくるようになり面倒が重なっていく。
「大丈夫ですか。ああ、こんなに熱を出して、かわいそうに、かわいそうに…」
八戒はいよいよ一方的に恋人の姿を重ねて危うい。
悟浄はというと…が最も気を許すのは意外にも悟浄だった。三蔵には人形と見えた顔が悟浄の前ではかすかに笑むような形をすることがある。
、ここ、ヤなんじゃねえか」
悟浄が睨むように問いかける。
「みなさん親切にしてくださいます」
「おまえ親切のボーダー低すぎんのよ。ガキ人質にされなかったら優しいとでも思ってんじゃねえだろな。おまえをこんなしてこき使ってそれが親切か。坊主が揃いも揃って頭おかしいぜ」
「…小さなお坊様から、植物の種をいただきました」
が小棚からとって手のひらを広げて見せた。
「種だあ?…ひまわり。よかったな。けど種なんて欲しけりゃ植物だろうが俺のだろうがいくらでもっ痛ッテエ!」
ぶん殴ったが、悟浄はここにいる誰よりもまともなことをいっていると三蔵にもわかっていた。
なにより腹が立つのは、この娘に己が悲願を託したならばと血迷う自分自身に対してだった。

苛立ちに追い打ちをかけるように、その日はひどい雨だった。
壁で覆われている本堂の回廊とは違い、経堂から客殿へつながる渡り廊下は竹林の景観を楽しむために屋根と手すりだけの造りである。
斜めに走る雨に打たれつつ三蔵が客殿に入ると、天蓋から垂れる布の奥でかすかなうめき声を聞いた。
布をかき分けて確かめると、いつも熱を出して、生きているか死んでいるかわからないような静かさで横たわっているが、いまは歯を食いしばり、シーツを掴む手がぶるぶると震えていて様子がおかしい。
「おいそこの」
戸を開けて声をかけると、ぼうっと雨を眺めていた小坊主が跳びあがった。
「ひゃ!三蔵様。なんでございましょう」
「大庫裏へ行って氷を持ってこい」
「え、様がどうかされたんですか」
「ダッシュ」
「は、はい!すぐに!」
どうもはあれの話し相手などしてやっているらしく、小坊主は心底心配した顔で雨もかまわずピューっと走っていった。
扉を閉めて吹き込む雨をさえぎる。
額に手をあてるがたいてい熱いので自分の額と比べても程度がわからない。
突然手首をきつく掴まれた。
「っ」
肌に爪が食い込み、見れば熱に浮かされた目がうっすらと開いていた。
「やめて」
肩で息をし、乱れた息の合間でかすれた声がそういった。
なにも劣情をもよおして手を出したのではない。
「お願いです」
「何をいって」
「殺さないで。その子はちがう」
目はこちらを見ていない。三蔵より向こうを、夢で見ている。
悪夢だ。
「なんでもします」
「…」
三仏神によれば、これの最初の所有者は村であったそうだ。そこで神格化されていたが、両親がいたという記録はなく、そこですらすでに誘拐されてきた先だった可能性がある。二人目の所有者はその村を襲った盗賊たちの首領だった。はじめのうちは直接的な暴力で従わせていたが、ある時から子供を使って占術を強要するようになったという。三人目は首がすげ変わっただけ。四人目はを盗賊団から助け出した許昌の自警団の長、先日の高定という男だった。
三蔵は五人目に過ぎない。
額の熱が嘘のように、三蔵の腕を掴む手は冷たかった。
八戒がそうしたように前髪を撫でつけ、額を空気にさらす。
すると、いつついたのか、眉間の少し上に細く赤の覗く傷を見つけた。
爪でひっかいたのだろうか。
指でなぞると傷と見えた赤は硬質であった。
「…」
見覚えがある。
三蔵の手首を掴んでいた手が緩んだ。
悪夢から目覚めた目が、愕然と三蔵を見ていた。



氷枕の上に頭を置き、次の占いを遅らせるように僧坊に命じると三蔵はしばし客殿に居座った。
「あなたの御子か」
は夢うつつに三蔵に何をしたか覚えがあるらしく、これで通じた。
「攫われてきた子供たちです」
「いくつの時の話です」
「わかりません」
「未来も過去もことごとく見通すあなたがわからぬと」
「要素のひとつにわたくしが加わると、何度も0に戻って答えが出ないのです」
掛け算でもしているようにいう。
外から扉を叩く音があった。
「三蔵様、あの…お坊様が、お見えなのですが」
遅らせるようにいったが、悪賢さに年季の入った老人たちを僧坊程度に引き留められるはずもなかった。
ふらつきながら体を起こしたを三蔵の手が押し戻した。
肩を寝台に縫い留める。
「そうして占術を施すのはあなたの本意か」
紫暗をたたえた射るような眼光には一瞬言葉につまった。
「…お坊様方の頼みは誰を殺めるものでもありません」
「そうではなく、あなたはあなたの考えで、あなたが最良であるように行動なさることがないのかと揶揄しております」
「…」
「その首から上は飾り物かと、そしっております」



夕方、家出した悟空が蝉のように八戒の身体にしがみついて離れないというので、そのままの格好で傘をさし、八戒が慶雲院にやって来た。
「こんにちは」
三蔵は執務卓について筆を動かし、顔も上げない。
「いやあ、いつもは悟浄と遊んでいるうちになんとかなるんですが、昨日は悟浄のほうが遊びに行ったまま帰らなくて。さ、悟空、もう観念してください」
「やだ!」
「……おい、猿」
「猿っていうな!」
声だけは元気がいいが、まだ八戒にしがみついている。
三蔵は手をとめずに淡々と続けた。
「気に入らんなら出ていけ」
「え」
売り言葉に買い言葉でこういわれるなら慣れていたが、戻った途端のその言葉に悟空は虚を突かれた。
「どうした、行かんのか」
悟空は八戒の服を放すと下を向き、握った小さな拳を震わせた。
ぽつりとこぼす。
「なんで」
「ここが気に入らんなら出ていけといっている」
「なんでだよ!」
爆ぜるように床にさけんだ。
「あいつはみんなをいなくするんだって!なんでわかってくんないんだよ!」
「…」
ようやく三蔵が顔を上げた時には、悟空はもう誰の事も見てはいなかった。
「…俺がちゃんといえないからだけど、なんでいえないのかわかんない」
消沈し、かすれた子供の声がそれだけいって扉の隙間からすり抜けるように出ていった。
三蔵が筆を置いた音で止まっていた時が再び動き始める。
「世話、かけるな」
「どうかしたんですか三蔵」
「なにがだ」
「…いえ。昨日は悟浄がいなかったから悟空の不機嫌が直らなかったんですけど、いつもは楽なものです」
「河童はまだあぶく銭で遊びまわってんのか」
「とっくに使い切っちゃいましたよ。昨日は一応情報収集という目的を持って遊びに行ってもらったんですが、この時間まで戻りませんから、途中で目的忘れてどこかに転がり込んでますね、これ。まあ大した収穫がなかった証拠でしょうけれど」
「情報収集ってのはなんのだ」
「ええ。どうもここ最近長安の周辺で彼女の居場所を嗅ぎまわっている輩がいるみたいで。この寺院の占い師の噂は広がりすぎていますから、もう連中に見つかっていてもおかしくありません」
またあのお姫様の話だ。
「冗談ではなく、本当に一旦僕らの家に移しませんか。あるいは斜陽殿にかくまうとか。その場合は僕が護衛についてもかまいません」
「…」
「洞窟の上に屋敷を建ててまで閉じ込めていたあの屋敷の主が、この状況で手をこまねいて見ていると考えるほど、あなたは楽観的ではないでしょう」
「…考えておく」
「三蔵」
八戒の理屈は理解しても、もううんざりだという思いが勝った。



それから二日後、は客殿から姿を消した。



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