長安の中心地に位置する慶雲院は、六段の丘陵のうえに建立された広大な寺院である。この広大な境内を隙間なく巨大な壁が囲んでおり、妖怪はおろか一般の人間とてそう簡単には出入りできない隔絶された空間を成している。
三蔵が総責任者となってからは当の本人が堂々とこの禁を破るので緩和されつつあるが、それでも数年前妖怪の襲撃に遭って以来屈強な僧兵が六つの門それぞれに立ち、厳しく見張っている。
僧坊が外から鍵をかけて僧坊寮に戻ったのが夕刻、数十分後にタオルを交換し忘れたと気付いて戻ったときには扉は内側から開けられており、中はもぬけの殻だった。
六門の僧兵すべてに確かめさせたが、不審な出入りはなかったという。
ならばまだ境内のどこかにいるのだろうが、いかんせん慶雲院の庭は無暗に探すには広すぎる。こういう時こそ動物の出番だった。
「おい、悟く…」
呼べば来るだろうとそういう発想でいいかけて、おとといほとんど八つ当たりで追い出したあと、また八戒のところに家出して戻っていないと思い出した。
自らに舌打ちし、三蔵は西日さす境内を駆けずり回るはめになった。






「いけないんだからな」

夕暮れの強烈な閃光を顔の半面に受けながら、手をぐうで握りしめて睨む。
の驚いた表情を見ると悟空は一瞬ひるみ、逆に語気は強まった。
「こ、ここ入っちゃいけないんだからな!すっごくすっごく怒られるんだからなっ」
灯りのない経堂にぽつんと座っていたを見つけたのは悟空だった。
悟空が臆病な大声を発するまで、は積み重なった経文に向かって念仏を唱えるでもなくじっと手を合わせていた。
悟空にはこの人が恐ろしくて仕方がない。
いくら止めても三蔵は義務だといってこの人の近くに行くのをやめないし、八戒も悟浄も、悟空のほうが間違っていると遠回しにさとす。
間違っていない。
これは大好きな人たちを連れて行ってしまう、自分をひとりにする者どものにおいだ。
「だから、だから…」
そう確信があっても、こんなことはやってはいけないことだと心のどこかでわかっていた。
「絶対絶対、いけないんだからな!!」
悲鳴じみた自分の声が経堂の高い天井に反響し、そこで初めてはっとした。
経堂の磨かれた床に、ぽた、ぽたりと水滴が落ちる。
白い頬をすべる涙は悟空に注がれた目からあふれてくる。
これを見るや、悟空は金色の目をいっぱいに見張って震えあがった。
「あ、え、えっ」
困り困ってよろよろと近寄り、近寄り切れずに手前で足を止める。
伸ばしかけた指は小さな雷に打たれたように引っ込む。
このひとは水の一滴すら飲んでいないというから、そんなに涙をながしてはたちまちに干からびて死んでしまうかもしれない。
は自らの襟をきつくつかんで、これまで人形のように動かなかった顔をゆがませる。
「…腹、減ったの?」
おっかなびっくりに尋ねると、は悟空に向かって両手をつき、長い髪をふり乱して嗚咽を漏らした。
「お腹、痛いの?」
「あの子らが生きていたならあなたくらいになっていたろう」
うずくまって、すまない、すまないと絞りだす声がそれだけ繰り返し、やがてつまりきった喉からは息を震わす音しか聞こえなくなった。
それがあまりに苦しそうなので悟空はこわごわと膝を寄せ、こわごわと着物の背に触れて撫ぜた。
こつこつと、指に背骨の感触が伝わってくる。
三蔵よりもずっとやわらかい肌だ。
そう思った。



そう長くない時間背を撫ぜていると、は顔と床とを袂でぬぐい、ゆっくりと体を起こした。
「ありがとう」と消え入る声がいい、悟空の頭をひと撫でだけすると経堂を出て行った。
悟空はそれを追わなかったが、経堂の扉から頭を出し、渡り廊下の向こうに遠ざかる背中を見つめていた。
「この中にいたのか」
「三蔵」
「ったく、人騒がせな」
悟空の後ろからやってきて、至極面倒そうにそういって額の汗をぬぐうと、三蔵は大きく息をついた。
嫌味の一つでもいってやろうというのか、客殿の方へ歩き出した三蔵の腰に悟空は慌てて組みついた。なぜ慌てているのか悟空自身にもわからない。
「なんだ、ひっつくな。こっちは散々走らされて暑ィんだよ」
「あ、あいつ、お腹痛いって!」
「はぁ?」
「お腹痛いから来るなって、いってた」
「…あのお姫様がそういったのか」
「い、いった」
「…」
唇を強引に引き結び、眼をまんまるに見開いた悟空は、誰がどう見ても嘘をついているとわかるが、三蔵はしばらくそのアホ面を見てから、客殿とは反対へ踵をかえした。
悟空がそのあとをついて行っていいのか迷っていると三蔵が振り返る。
「なにやってんだ悟空、帰るぞ。さんざん走らされて腹が減った」
「…うん!」



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