その夜は美しい月夜であった。
月は大きく、白く、夜の竹林を神秘的に照らす。
明るいわりに虫の音はとおく風もない。いっそ不気味なほど静かであった。
あけ放った花窓のそばに椅子を置き、絹の夜着を纏っては明かりを消した離れからこの月夜を眺めていた。
ふと、窓の真下から栗毛の少年が不思議そうにこちらを見上げているのに気づいて驚いた。
いつからいたのだろう。
夕刻、命を奪われたあの時のおさなごが鎮魂の祈りに応えて現れたと一瞬みまごうた少年である。
「そこ、どいてて」
悟空はそれだけ言い置くと、ごく短い助走で跳んだ。
地上から花窓まで大人二人分はあろうという高さにもかかわらず、悟空の片手が軽々と窓の木枠にかかった。二、三度左右に体を揺らすと、次の瞬間には両足が花窓にのっていた。
「あのさ」
呆気にとられていると悟空がいう。
「ごめんな」
理解が遅れ、返せないでいるうちに悟空がつづけた。
「泣かせて、ごめん」
なにをいうのかと、言葉が次げない。
「ほんとはあそこ入ってももうそんな怒られないんだけど、俺、すっげえ怒られるっていったから」
「…」
「それで、怖かったんだろ」
「…いえ」
「え、そんじゃやっぱ、腹減ってたの?」
「……そう」
が小さくうなずいてみると、悟空は天を仰いで「あー」と心底安心した声をあげた。
「やっぱそうかあ。びっくりしたあ」
「びっくりさせて、ごめんなさい」
「いーよ。よかったから。あー、もー、びっくりしたぁー」
悟空は部屋にすべり込むと、両手両足を投げ出して絨毯の敷き詰められた床に寝転んだ。
「それをいいに来たのですか」
「そうだけど、じゃあ饅頭持ってきたらよかった。三蔵がさ、いつも饅頭隠してるんだ。食べるとものすごーく!これはほんとにものすごぉーく怒るから俺知らないふりしてやってるんだけどさ」
「そう」
「三蔵の一番下の大きい引き出しにいっぱい紙があって、その下なんだよ」
「そうなの」
この心のありように、あてられる思いだった。
このようにありたい。
「……、悟空といいましたね」
「うん」
は床に寝そべる悟空から、すこしの距離をあけて膝をついた。
「あなたはわたくしを厭うていると思いましたが」
「…そうだったけど」
悟空は頬をかいた。
「さっき近くに行ったときはそんなヘンな感じしなかったし」
「へんな感じ」
「うん。あの洞窟とか、斜陽殿から出てきた時とか、じいちゃんたちいっぱい来たあとの時とかはヤだった。ヤな感じのにおい。けどさっきはあんましなかった、気がする」
「湯あみをしたからでしょうか」
「わかんないけど」
悟空が四つん這いで素早く寄ってきての肩口の髪にぐいと鼻をつきこんだ。悟空の元気のよいくせっ毛が首筋に当たってくすぐったい。
熱心にかいでいたかと思えば、不意に鼻が外を向く。
「悟空?」
「…火の匂いがする」
立ち上がり、外の気配をさぐっていた金色の目が突然見開かれた。
「あぶない!!」
目の前が光り、そこでの意識は一度途絶えた。



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