死なぬものを取り返すのに火薬を加減する必要はなかった。
北西は堅く閉ざされていた黒門から招き入れられ、賊は寺院のあちこちに同時に火をかけたあと、爆薬で客殿を噴き飛ばしたのだった。
混乱に乗じて女を運び出し、四番目の所有者・高定の姿はすでに長安の中心をはるか東に臨む山中にあった。
この月のまぶしい夜に、東方随一の寺院からもうもうと立ちのぼる煙はよく見え、打ち鳴らされる半鐘も高定にはおかしくて仕方がない。
「高定様、坊主どもの追手がかかった様子」
死体からはぎ取った着物を寄せ集めて体に巻き付けたという風体の男が高定の足元にやってきた。見た目のとおり、金で雇った山賊である。これまで侍らせていた元自警団の連中はが連れ出されたのちそのほとんどがこの数か月のうちに高定のもとを離れ、残ったのは金でつながるこのような者たちだけだった。
高定は自らが急激に求心力を失ったこともまた女の持つ奇跡の力が遠ざかったからに違いないと考えていたが、にそのような力はない。
「ここからはどこへ向かえば」
「間もなくわかる」
にんまりし、高定は縛って立たせた意識のない女の頬に拳の甲を叩きつけた。
壊れたおもちゃのように首が揺れ、をしばる鉄線を後ろから引き絞っている賊徒もその粗っぽさに思わずぎょっとする。
うすく開いた眼が、間近にある高定の顔を見つけた。
「久しぶりではないか。こうして戻してやるのにどれだけ手間をかけたとおもう」
が状況を理解し眉根を寄せて目を塞ぐと、高定の唇の端はきゅうっと嗤う。
細い首をつるりと撫で上げたあと、輪郭にきつく爪をたて無理矢理顔をあげさせる。
「やめろ!このやろう!」
この声には息をのんだ。
「離せっ!離せったら!」
「なんなんだこのガキっ、なんて馬鹿力!」
数メートル先に、五人がかりで悟空の小さな身体を地面に押さえつけている姿がある。
高定は嘆かわしく首を振った。
「力でおさえようとするからよくない。頭を使え」
見通すまでもなく見えたおぞましい予感に、は戦慄する。
白をとおり越し青くなった頬を再び高定が強く打った。
「あっ!」と声をあげた悟空に高定はくるりと向き直り、今度は手のひらでいやらしく女の頬を撫で「暴れればこうする」と示した。
悟空が歯を軋ませると
「さて」
といった。
「この私は前の主よりずっと優しかったろうに。なぜおまえが連れ出される未来があることを私にいわなかった」
背を向け、枯葉の敷き詰められた上を嘆息交じりに歩を進める。は身をよじったが鉄線は絹を巻き込むばかりで到底ほどけそうにない。
高定は悟空を押さえつける賊の手から幅広の刀を取り上げると、その切っ先を悟空の首の裏に差し向けた。
切っ先が子供の肌を押し、ほんの小さく血の粒が生まれる。
「おまえがいい子にしていれば、このような仕打ちはせなんだものを」
は言葉もなくかぶりを振る。
「久しぶりの仕事はこのあとどう向かうのが最良か占うことだ。簡単だろう。その次におまえを盗んだ者どもを八つ裂きにする方法を占う。それが終わったらこの者どもにまわしてもらえ」
混乱と焦燥を極めた脳が、悟空を救う道とかの男が再び栄華を手にする道を同時に命題と定め一気に熱を噴いた。
0に戻る。
悟空の首の血だまりが膨らむ。
0に戻る。
0に
は一歩を踏み出した。
絹に深いしわを作っていた鉄線が肌に喰い込む。
背後の男は慌てて鉄線を引き絞ったが、これを細く鋭い鉄線としたことが過ちであった。
絞られた鉄が絹と肌とを裂いた。肉にうずまり、腕のおもてから肘へ、腹から背へとすり抜ける。
仕掛けの分からぬ縄抜けを目の当たりにし、その場にいた者どもは眼球を白黒させて釘づけになる。
この間にもはちぎれた絹を体に巻き付けたまま獣のような声をあげて猛然と走った。
倒れ込みながら高定の腕に食らいつくと、刀を高定の身体ごと奥へとおしのける。
女につきたおされてふしまろんだ高定はすぐさま起き上がったが顔を真っ赤にして激昂した。
「っき、貴様ァ!!」
覆いかぶさって倒れている顔の上に刃を振り上げ、髪をひっつかんで無理矢理起こす。
高定は胴震いした。
目前の刃など無いように、の双眸は炯々たる光を宿してこちらを見ていたのである。
長い間意のままにしてきた、しかも身動きのできぬ小娘の眼光に一瞬間でも射すくめられた恥が頭を駆けのぼり、高定は奇声を発して滅茶苦茶に刀を振り下ろした。
その右腕が刀を掴んだままポーンと月夜に跳ね上がる。
ひと蹴りで高定の肘から下を腕からはなした悟空は、すでに五人の男を振り払い昏倒させたあとだった。
小さな体が強靭なゴムのようにしなり、悲鳴を上げる間もなく高定の身体は山腹から宙空へと放りだされた。



濡れた枯葉の中に突っ伏すの身体を悟空は両手で引き起こした。
「あ、あ、」
喘ぎながら必死にの顔についた泥をはらう。
「あぁ、ああ!」
揺すってもぐったりとして動かない。
「三蔵」
唇の端からこぼれた言葉はそれだった。
すると堰を切ったように喉からはもうその言葉しか出てこない。
「三蔵っ!三蔵ぉー!」
半狂乱で繰り返し叫ぶ声は木々の間に巣食う闇に吸い込まれ、悟空は自分が誰かの影にはいったことに気づかなかった。生き残っていた凶賊のひとりが悟空の背後に忍び寄り、柄の赤く血濡れた刀が音もなく振り上げられる。
その時、とおくからうなりをあげて近づく音を聞いて悟空は天を振り仰いだ。
月の光を帯びた巨大な矢が夜を裂き、男の目前に突き立った。
驚いて後ろにバランスを崩し、男は短い悲鳴を残して急な斜面を転がり落ちて行った。
するとあたりは静まり返り、土に斜めに立つ矢の矢羽からは天にかかる月に向かって光がながく尾を引いている。
この世のものとは思われぬ美しい光景であったが、悟空は無意識にの頭を腹の中にぎゅっと抱き込んで隠していた。
「悟空!」
三蔵の声に我に返りあたりを見回す。
「…さんぞ、三蔵っ!」
ここにいると叫び続けると、まもなく三蔵が数名の若い僧徒を連れて悟空の前に現れた。
地面にのされた無法者を縛って連れて行くように僧徒に短く命じると、三蔵は悟空のそばにやって来て、倒れているも見つけた。
「起きない」と喉を絞ってそれだけ告げると三蔵は手早く息と脈とを確かめ始める。
「…、悟空、手を放せ」
なにかがおそろしくて必死の思いで三蔵の着物を掴んでいたが、その手を振り払われて悟空は悄然と首を横に揺らした。その姿を見かね、三蔵の声にわずかに優しい色がまじる。
「こいつの服が千切れてんだろうが」
いわれて見れば確かにの夜着は裂けていて、かろうじて体に張り付いている布の間からあちこち肌がのぞいている状態だ。
悟空はおずおずと手をはなし、眉根と口をゆがめて今にも泣きだしそうな顔で三蔵を見上げる。
「…死んでない?」
「ああ」
悟空のこわばりが一気に緩んだ。
「ったく、こいつも何遍ひとの服借りりゃ気が済むんだ」
三蔵は舌打ちしながらも白い法衣を脱ぎ、を包むとその体を持ち上げた。
「帰るぞ」
「うん」
三蔵のあとについて歩き出してから、ふと悟空は後ろを振り返った。
夜空に明るく大きな月が浮かんでいるくらいで、何ら特異なもののない山の景色だ。
見渡す。
「…」
ない。
「なにしてんだ。行くぞ悟空」
三蔵に呼ばれ、悟空はもう一度見渡してから、三蔵を追いかけることにした。



蓮の浮かぶ水鏡に波紋が広がっている。
手を打つ音が響いた。
「おぉ、おぉ、見事な腕だな」
水鏡の前で弓をおろした二郎神は、観世音菩薩の賛辞にも応じない。
うつむいて、映像の途切れた水面を見つめている。
「まだまだ現役でイケるんじゃねえか」
かの剛弓は観世音菩薩の所有する宝貝であった。その切っ先は次元をも切り裂くという伝説はいま二郎神の手によって証明された。
驚嘆すべきは宝貝の性能だけではない。
初めて触れる宝貝を、水鏡越しに次元のゆがみまでも見据えて放ち、殺さず殺させずの正鵠を射たる二郎神の実力にこそ観世音菩薩は手を打ち鳴らしたのである。
法力なしで打ち合えば菩薩であっても二郎神にかなわない。それゆえにこの男は菩薩のそば仕えを任ぜられているのだ。
一方、この神業をやってのけた当人は悲愴を背負って菩薩の御前に顔を伏せた。
弓とで一揃いだった宝貝は二郎神の手から露となって消え、もう二度と戻ることはない。
「…お咎めはいかようにもお受けします」
「まあ、俺の秘蔵の宝貝を勝手に使ったしな」
「はい」
「手続きも踏まず下界に干渉したしなあ」
「申し開きもございません」
「出世コースまっさかさま」
「覚悟しております」
そう返したあごを観世音菩薩のつま先が持ち上げ、副官の顔をしばらく覗き込む。
「見えなかったな」
「…は?」
呆気にとられた二郎神の顔を見、菩薩は椅子にふんぞり返って満足そうに笑った。
「あれほどの剛弓をノロマな天界の者どもの目に捉えられるはずもないだろう。俺も含めてな」
二郎神はその言葉の意味するところを理解した。
「よかったなあ。おまえの上司が慈悲と慈愛のかたまりで」
もう一度深く伏せてから、二郎神は立ち上がった。
「わかったら仕事を続けろ、頼んでいた調べ物の続きがあるだろう」
「御意のままに。…」
返事はよかったが二郎神が動かない。
不審である。
「ん?おいどうした。行けよ」
「…さきほどので、こ、腰が」



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