珍しく夕餉の時間に遅れてきた悟空がずいぶんテンション高く帰って来たのでどこへ行っていたのかと尋ねると金の目をせわしなく動かし
「ど、どこへも行ってない!」
と大声でいうので、ポケットから出てきた飴の袋を顔の前に突き付け問い詰めた。
に食わせたと聞くや三蔵は居室を飛びだし、扉をたたき割る勢いでの寝室に駆け込んだ。
血の気の引いた顔でぐったりと目を閉じている姿に総毛立つ。
両側から肩を掴んで強く揺する。
「おい」
あとを追いかけてきた悟空が後ろで何かいったが耳に入らなかった。
「おいっ、しっかりしろ!おい!」
「うっ」
の顔が痛みに歪む。
まだ息があることはわかったが予断を許さない。
人間の医者を呼んでどうにかなるのか。
三仏神のもとへ運ぶべきか、
いや、間に合わないかもしれない。
は息を震えわせて、何かを訴えて首を横に振る。
「どこが痛むんだっ、ん?」
「っあ゛!」
…ふと、がひときわ高く痛みにあえぐタイミングが自分が体を揺するタイミングと同じである気がして、三蔵はためしにそうっとの身体を寝台に戻し、手をはなした。
すると、死にかけの虫のように体を縮めて、小刻みに胸を上下させて息をし、しばらくすると落ち着いていった。
自分が目に見えない患部を掴んでいたから痛がっていたと理解し「悪ぃ」と呆けた声がこぼれる。
後ろでわめく悟空の声もようやく耳に入って来た。
「そいつ怒んなってば!俺が晩飯の前にお菓子食わせたんだ、三蔵ったら!ぶつなら俺のことぶてよ!」
やけに男前なことをいうわりに、晩飯の前に菓子を食べたことを咎めて三蔵が仕置きをしていると思っている。
悟空が後ろから三蔵の法衣をぐいぐい引っ張る。
これを無視できるほど三蔵は驚いていた。
「…どうもしねえのか」
話が違う。
「俺晩飯もちゃんと食べるし、夜中に腹減ったとかもいわないから、怒んなってば!」
「やかましい!お前はちょっと黙ってろバカ猿!」
「イデ!」
ハリセンで打った直後であった。
「叩かずに」
どうか、とどうにか息を落ち着けたが三蔵に懇願する。
体が横に傾いているせいで前髪が流れ、白い額がのぞいた。
「…」
三蔵が何かに気づき、その額に触れる。
眉間の少し上、傷と見えた赤の覗く小さな裂け目が残っている。
ここに来たばかりの頃はなかったものだ。
なにより、胴を切られても傷ひとつつかないの身体にこんな傷ができるはずがない。
間違いない。
これは“神の座に近き者の証”。
の額にチャクラが現れようとしている。



「あっさりバレてやんの」
金縁の双眼鏡で水鏡を覗きながら、観世音菩薩の唇の端が笑う。
「で、誰だって?一度人となった身を神に戻そうとしていたふてえ輩は」
「ですから、階像天だと先ほどから申し上げております。三仏神への申請までに八つ別の組織を介して偽装していましたが」
「あー、あいつらな。納得。血統とか正統とか大好きそー」
ちょうどいましがた地上で神々の思惑に確信を得た三蔵法師は、悟空を部屋の外に追い出し、これをに聞かせている。
五百余年にわたる天帝の喪はまもなく明ける。天界は次なる天帝に自分たちに都合のいい者を据えようとあっちこっちで派閥を作り、王様探しに躍起になっている。
ここにあって、先帝の妹御という喉から手が出るほど欲しいコマを誰かが見つけ、しかし不浄のままこちらに拉致るわけにもいかない。そこで、人の世の食い物を絶ち、人の器を超える神通力を限界を超えて使わせ続けることで神に立ち返らせようとした。
この謀略が今に始まったことなのか、先日山から落ちて死んだ成金の手に渡ったころからか、あるいはもっと前からなのか。調査済みであったろうが二郎神はこれを報告せず、観世音菩薩も報告を求めなかった。
その事実が菩薩の耳に届いたことだけですでに充分であるからだ。
充分であるはずだが、観世音菩薩は何もいわない。
金縁の双眼鏡を覗き込み、慎重に焦点を調節している。
「…あの、観世音菩薩様?」
「しっ。ちょっと待て」
「ええと…そんなに真剣になにをご覧になっておいでで?」
「いまいいとこなんだ」
「…」
「……」
「………」
「あ!」
菩薩は双眼鏡を覗き込んだまま椅子を倒して立ち上がり、水鏡のふちに足をかけた。
「てっめえコラ金蝉!じゃなかった三蔵!おっまえ、若い男女が夜に寝室でふたりきりになっておいて何もしねえって、チンコついてんのかテメェ!ガバッと行けガバっと!」
「あ゛ーーーー、私は何も聞こえません。あ゛ーーーー」
白目を剥き両耳を両手で叩いて声をあげ続け、二郎神は必死に正気を保っていた。






念のため六日間様子を見、神仏の思惑が三蔵の見立てのとおりか検証した結果、七日目の朝もは静かに目を覚ました。
「おはようございます」と朝方は特に不機嫌な三蔵が元自分の寝室に入っていうと、
「おはようございます」と澄んだ声が返った。
は三蔵の足元にも「おはようございます」と小さな微笑みを向ける。
三蔵の後ろに隠れていた悟空が顔を出し緊張気味に「おはよ」といった。
「まとわりつくな。歩きにくいだろうが」
悟空を片足で蹴りだした三蔵のその手には盆があり、盆のうえには水と粥がのっている。
悟空は素足でぺたぺたと床を踏んで寝台に近づき、勝手知ったる寝台に腰掛ける。
その尻を三蔵が叩いて寝台から落とした。
「乗るな」
「なあ三蔵、やっぱそれだけじゃ絶対足んねえよ」
てめえの腹で換算すんじゃねえ、という視線が一瞬向けられたが三蔵はそこからはつんとすまし、クッションで背もたれを作っての首を起こした。
水にはストローをさし、スプーンを差し出す。
の腕は両方とも天井をむいてシーツの上に転がっている。
わかっていたことだが三蔵はため息をついてスプーンを粥に差した。
「…」
粥と真剣に見つめ合い、なにごとかを逡巡する時が流れ、一旦三蔵の手がスプーンから離れた。
何をするかと思えば顔にかかっていたの髪をすくって肩の後ろに流した。たしかに、食事の邪魔である。
「…ありがとうございます」
「いえ」
短く返し、再び三蔵はスプーンを掴み、粥と長い時間対峙した。
は粥と三蔵のまじめな顔を交互に見てこの時間の意味をはかりかねている。
「………。おい悟空」
「なに?」
寄って来た悟空にスプーンが押しつけられる。
「食っていいの!?」
「違う。おまえやれ」
「なんで?いいけど」
ふがいなさのあまり天上で観世音菩薩が二郎神を締め上げているとは露知らず、悟空は三蔵に代わってスプーンになみなみと粥をすくった。
「おまえそれ口に持ってくまでに絶対こぼすだろうが」
「あ、そっか。じゃあちょっとずつね」
量を減らしの口元にぐうでつかんだスプーンを近づける。
「あと器を持て」
「うん。はい、あーんして」
とまどいながら薄く開いた唇の間に、悟空がスプーンを差し入れる。
「三蔵が向こうでちょっと冷ましてたから、そんな熱くないだろイッテ!なにすんだよ三蔵」
「余計な事しゃべってねえでさっさとやれ」
「やってんじゃんかー」
「三蔵様、どうか無体をなさらずに」
三蔵が言いよどむと悟空の第六感がするどく働いた。
悟空はのすぐそばに腰かけてと並んで三蔵を見上げる。思わぬ安全地帯を見つけたのである。
「…っ、では私はこれで。悟空、終わったら膳をさげて持ってこい」
最近猿に悪知恵が付いてきた。



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