櫛で梳いた艶の豊かな髪を首の下あたりからきつくしすぎず、しかし丁寧に編んでいく。
音の空白を埋めるように時折短い会話が生まれた。
「日中はお騒がせしました」
「にぎやかで楽しゅうございました」
「…」
「…」
手慰みに、は寝台の上に散らばる絵本に手をかけた。
指でめくるのではなく表紙のふちを手の甲で持ち上げる。
のいったとおり、目に見えない患部は人よりずっと早く癒えていった。
すでにの腕は引きつりながらも動き始め、何かに頼れば自分の足で歩けるまでに快復していたのである。
指でできずとも手の甲をあててページをめくれぬわけではないが、表紙を開いたページでの手は止まり、「ネズミ君のチョッキ」はいっかな先へ進まない。
この緊張感を生み出している理由は、いまの髪を結っているのがかの玄奘三蔵法師であるからに他ならない。
昼に騒がしい窓の外を見ようとして自分の髪を踏んで転びかけたのを見た。が、悟浄の時とは違って安易に切れともいえず、八戒をつかまえの髪を人並みに切り揃えるようにいった。
「ちょ、ちょっと待ってください。無理ですよ」
八戒にしては珍しく動揺を見せた。
「悟浄の頭も俺のもぱっぱと揃えてたろうが」
「男の頭と一緒にしないでください。女性の髪を切るのがどれだけの重大行為か、わかっていないんですか」
思いもよらぬ強い反対に三蔵は怪訝そうに眉間にしわを寄せた。
「重大行為っておまえ、ただ髪切るだけだろう」
「女性の!です。いいですか、三蔵。女性というのはちょっと前髪を切りすぎただけで、ミリ単位でそれはもう理不尽に怒るものなんです。向こうが頼んできたのに鏡を見た途端表情が石みたいに変わらなくなって、これ見よがしにため息をついて、毎朝鏡の前で何度も何度もピンでとめ直して、しまいには、わたしきょう学校行かない…、とかいい出すものなんですっ」
「お、おう…」
「本当にわかっているんですか!僕は眉の上くらいで切ってといわれたから眉の上で切るのをやめたのにも関わらず、そうなるんですよっ」
「わかったから、すこし落ち着け」
八戒がこうで、猿は論外。周りを見渡せばハゲしかいない。悟浄に依頼すれば性犯罪ほう助にあたる。
もはや誰にも頼めず、本人にハサミを渡したところ指の動きがまだ鈍いためかこだわりがないのかわからんが豪快に後ろ髪をつかんで一息に切ろうとしたので、慌てて三蔵が取り上げた。
八戒の言葉に影響されたわけではないが、人の美醜に疎い三蔵でも美しいとわかる、質のよい長い髪を切り落とすというのは思いのほか勇気を要した。
結局、座ったときに引きずらない程度まで後ろの髪を切って、そこで三蔵は手をはなした。それでも十分に長い。
ついでに結った方が食事の邪魔にもならず、動きやすかろう。これもまた女の髪に触れただけで果てそうな僧徒にもいえず、というかハゲだし、悟空に結ばせてみたところ新進気鋭の前衛的デザイナーの作品のように成り果て、しかたなくの湯あがりに三蔵が編んだ。
寺院の同じ石鹸を使っているはずだがそばに寄ると、ふむ、悪くないにおいであった。
「悪くない」ですますなと激怒した菩薩がギンギンになるお薬を速達で送ろうとして二郎神に阻まれているとは露知らず、三蔵は淡々と三つに取ったすべらかな髪を編んでいく。
「済みました」
肩から前に持っていってやった三つ編みをはしげしげと眺め
「お上手であられる」
「あいにく、これしかできませんが」
「悟空の髪を?」
「わが師の髪結いを、多少」
手は意外におぼえていたが、ほかの人間に師の姿を重ねることには幼稚な抵抗があった。
「そう」
「…では、私はこれで」
「ありがとうございます、三蔵様」
ありがとう、江流
「…」
ふいに、自分が結ったのに自分が三蔵と呼ばれる不思議が降ってきた。
ぼんやりした頭で寝室に戻り、この夜、ひさしぶりに悪夢ではない師の夢を見た。






八戒の持つ缶の底が歯切れのよい音を立ててテーブルをたたく。
「いえ、ノンアルコールにすべきです」
「それじゃ意味ねえだろうが。せめてチューハイとかよ」
ロング缶がテーブルをたたき、続いてごとりと重い音を立てたのは三蔵の持ち込んだ酒瓶である。
「清酒」
「じゃ、あれだ、スパークリングワインとかどうよ、シャレオツだろ」
「スパークリング清酒」
「ならカシオレは?女子of the女ぉー子」
「もう甘酒でいいでしょう」
「だからアルコール飛ばしてどうすんだ」
悟浄宅のテーブルにアルコールの缶と瓶をずらり並べ、酒女暴力作戦の第一弾「酒」に関して侃々諤々の協議をしてそのまま軽く一杯ひっかけて戻ってくると、やけに院内の僧徒たちに落ち着きがない。一方でやけに顔の血色はいい。
「さ、三蔵様がお戻りになられた!」
「三蔵様がご公務から戻られたぞっ」
「なんだ騒々しい」
「さささ、三蔵様、じ、実はまた…」
が すっかり歩けるようになると悟空はを外へと連れ出すようになっていった。
あの悟空が絵本と落書きだけでいつまでも耐えられるとはもとより思っておらず予想していたことだったが、ともかく場所が悪かった。のいまの寝室は慶雲院境内の東に位置する僧房、すなわち僧侶たちの居住空間のその最北にある区切られた一室である。
部屋から一歩出れば当然僧侶の目に触れ、若い僧侶の襟を正しくさせ、無い髪をなでつけさせしめる。
そろそろ面会謝絶の一点張りもきびしくなっていたところだ。潮時かもしれない。
が、それはそれとして三蔵はハリセンを片手に境内を探し、夕暮れにバナナの皮が落ちている楓の木を見上げたところで二人を見つけた。
眼を細めると、小さくまるまったの背中を撫でて、悟空が励ましの言葉をかけているように見えた。
「おい、悟空」
「げ!?三蔵」
「げ、じゃねえ。さっさと降りてこい」
慌てた悟空が枝の上で足をふみはずしごと落下したのもまた、予想していたことだった。
ため息とともに空に魔天経文がひらめいた。
を寝所に放り込んだあと、煙草を片手に新聞を広げつつ悟空の言い分を一応聞いた。
「種だと?」
「うん。この前のトコ吹っ飛んじゃった時に新からもらった種なくしちゃったんだって」
新とは確か世話役で客殿の前に立たせていた小坊主のなかのひとりだ。
「だからと一緒にあっちの竹いっぱい生えてるとこに何回か探しに行ったんだけど」
「客殿はもうとっくに瓦礫を運び出し終わって更地だろう」
「けど探したいって」
後生大事に取っておくほどのものではなかろうにとあきれかけ、貸したローブを肩から降ろした川での姿を思い出した。
なにも持たなかったその手に久しく与えられたものがその種だったのならば、固執するのもわからぬではない。
いや、待て。
最初に与えられたのはあのガラの悪い女医のところでもらった、着物と…
「あ」
三蔵が唇の端から声をこぼした理由は悟空にはわからなかった。



<<  >>