折り重なった占術の申請にはことごとく棄却印が押されるなか、悟空が僧房の外へ、三蔵がの君を寺院の外に連れ出す「公務」が二度、三度と続けば不満が噴出するのはごく自然なことだった。が一日も欠かさず部屋で素振りをし、芽の出ない鉢を熱心に観察していると知ったらあるいは見方も変わるのかもしれないが、僧侶たちにとっては今以ては人ならざる神域の存在なのである。
「小僧めが。神聖を神聖とも思わぬ所業、仏罰がくだりましょう」
「神の御業を我が物として分けるのが惜しくなったと見える」
「三蔵法師ともあろう者が欲に狂ったか」
「不浄の者どもまで連れ込んで、三蔵様の横暴は目に余る」
ついでとばかり、赤髪のチンピラと悟空の家庭教師を名乗る男がひょこひょこ遊びに来ることへの批判も今更再燃した。
もはや陰口なんか屁でもねえ四人に対し、そこが竹林にたたずむ客殿ではない以上悪口雑言はの耳にも届き、批難の矛先が自分ではないことにはまじめに苦しんだ。
そんな折に訪れた四度目の「公務」の機は、真実斜陽殿からの呼び立てによるものであった。

―――斜陽殿・拝殿

前方と後方の扉が閉ざされ、銅鑼が一度響くまでと並び立つだけの時間が暫くあった。
上からうかがい見れば常の美貌に緊張が見てとれた。
此度この場で無理矢理に天上に召されるわけではないとあらかじめいったが、さしたる効果はなかったらしい。もしくは、血縁の者に初めて相まみえることを心細く思っているのやもしれない。
の心中がどうあれ、「ずいぶん人らしくなった」と三蔵は思った。
銅鑼の音が鈍く一度響き渡った。
前の扉が誰の手も借りずに押し開かれた先、水鏡に三仏神の姿はなかった。
此度の召喚は三仏神ではなく例のの血縁者からのものであるから三つの顔がなくても不思議はなかったが、当の血縁者とやらの姿もどこにもない。
いつもと違う点といえば、水鏡の前、燃え盛る炎の壺の間に低い卓と半紙が備えてあるくらいである。
あたりを見回しつつ卓の前まで来ると、上から半紙に黒い墨が落ちた。
天井を見上げるが朱と金と緑で描かれた龍の壁画があるばかり。
「三蔵様、文字が」
「なに」
天井から垂れたと見えた墨は半紙の上で点と点の間を埋めて線となり、人の解する文字を作り上げていた。タタタ、タタタとどこからともなく墨は落ち続け、やがてそれは短い文を成した。
は瞠目し、墨に集中して視線が動かない。
唇がわななき、小刻みに震える指先が文字をたどる。
「たず、ね、れば……」
「尋ねれば墨がこたえる」
たどたどしいに代わって三蔵が読み手をになった。
不気味なことに三蔵が読むと墨は音もなく薄れて真っさらの半紙にもどった。そこに再び宙空から墨が落ちる。
「尋ねよ」
とあらわれる。
姿を見せる気はないらしいが、ご丁寧に説明の場を設けるとは、よほどは欲しいと見える。もそれを理解したようだった。
「…この脳を求めてわたくしを呼ぶのですか」
張りつめた声音であった。
つぅーっと墨が垂れて落ち、書かれたのはたった一文字だった。
「否」
この冷淡を通り越して冷然とした短い返事がこわばりを逆なでた。
次の最初の音が震えたのは恐怖からくる怒りであろう。
「担ぎ上げて、まつりごとに使うために呼ぶのですか」
「否」
返答は同じ文字であった。
「では、どうして」
しばらく墨が垂れなかったのは天上の者の逡巡なのか、上と下とで時差でもあるのか、はたしてわからない。
墨がながく落ちた。
三蔵は一切の感情をかけずにそのままを読んだ。
「其方を心配に思う者が在る」
はこの時一瞬、自らの頭が熱を持ったのを感じ、髪を振り乱して自らにやめろといい聞かせた。天上からこの墨を落とす者が真実をいっているのか確かめたくて演算を始めかけた己が浅ましく、恥ずかしくて仕方がなかった。この脳を動かすために奪われた命がある。そのようなものをわが身可愛さのために用いようとする己がおぞましかった。
しかし、経堂の暗がりが脳裏をよぎってはっとした。
おぞましさにひたり人のどうあるべきかを忘れたこの背を、小さな手のひらが撫ぜた。
その強さ、やさしさにいまこそならいたい。
は目を塞ぎ、慎重に息を整えてからすうっと顔をあげた。
眼に宿った火のわけを三蔵は知らないが、はためにもその横顔はうつくしかった。
「墨のぬし殿。この機会をくださったこと、有難いことだと感じます。ですが、わたくしは天上を知りません。地上すらほとんど知りません。神仏の言葉を信じるべきかもわからない。それ故にここでたくさんを教えてくださってもただ迷って途方にくれる気がいたします」
墨は黙っていた。
「ですから、お尋ねするのはあとひとつだけにします」
三蔵も少し驚きながら黙っていた。が場違いにも微笑むような顔をしたように見えたからだった。
「あなたは天上のどんなところが一番好きですか」
墨が落ちなかったのは、こればかりは上でこのバカみたいな問いかけに神様が迷っているからだと三蔵はおもった。
たっぷりの時間があいてから墨がつつぅーと落ちた。
「常春の桜が…ん?」
二重の取り消し線が入って文字が消え、すぐに次の墨がタタタ、と落ちた。
「宝石の石畳の」
取り消し
「ボトルシッ…」
また取り消し線が塗りつぶして消える。思わずあきれる。
「なにやってんだこいつ」
はどこか嬉しそうに半紙を見つめている。
しばらくあいて今度は、墨がぽつ、ぽつ、とゆっくり、ひときわ丁寧に落ちた。
三蔵は軽く頭をかかえたがいちおう読み上げる。

「大きな図書館があるところ」



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