悟浄に殴る蹴るの暴行を加え、その日の「公務」は泊まらずに夕刻には慶雲院に帰着した。
そこで事が起こった。
首を垂れて手を合わす僧侶の列から一人の老僧が亡霊のように進みだし、の足元に膝をついたのである。
「なんだ貴様」
「どっ、どうか御仏の御慈悲をぉ」
震えた両手を合わす。
その姿に三蔵は見覚えがあった。奇跡の力を求めて繰り返し繰り返し占術の申請を上げてきた男である。しびれをきらしたと見える。武器を持たない血走った眼の老僧ひとりどうということはなかったが場所が悪かった。
慶雲院の中央は南北に運河が貫いていて、境内の東西を横切るときには小舟を使うかかなり遠回りして運河にかかる建物まで行かねばならない。
はいままさに運河を横切り終え小舟から陸に降りようとしていたところを、その僧侶に舟に押し戻された。
近くにいての出迎えをしていた高僧たちが蒼褪めてひっくりがえった声をあげる。
「ひゃっ!な、なにをしておるか」
「お、おぬし、離れよっ」
制止の声は死に物狂いですがる男には届かない。
一方で、はその場で身じろぎひとつせず静かに男を見おろしていた。顔に垂れる布で表情はわからないが恐怖ですくむ姿とは三蔵には到底おもえなかった。
「あなた様の奇跡のお力で私をお救いください、もう金がっ…お慈悲を、お慈悲をぉお」
ここまで静観していたが、ぶるぶる震えた男の手が肌を覆う装束の中からの白いてのひらをさぐり当てるのを見るや、三蔵は本能ともいうべき速度で声をあげた。
「無礼者!」
大喝に不作法な侵入者が腰を抜かすと舟が大きく揺れた。
僧侶たちの目の前で、の身体は船べりからこぼれ飛沫をあげて極寒の水に落ちた。
間髪入れずに動いた者は三者あった。
ひとり、僧侶の列の一番端から飛び出した新という小坊主である。
ひとり、新よりも圧倒的な素早さで飛び出したのが陸路を行っていた悟空である。
そして誰より近くにいた三蔵法師は法衣のまま水の中に跳び込んだ。

跳びこんだ途端、着物が冷たい水を吸い、凍える水の中に体を引きずりこまれる。
水中で器用に下向きに体勢を変えると、幾重にも布を重ねた装束がゆったりと旗のたなびくように揺れながら水の底へと沈んでいく姿が見えた。
衣をかきわけた向こう、の唇からこぼれた水泡が三蔵の喉ぼとけをかすめて水面へのぼっていった。
視線が重なる。
暴れることもなく澄んだみなそこに在る姿は一種凄まじい美しさであったが、三蔵は気に入らない。
むしろ腹が立っていた、自分に。
―――なぜ俺が水に落ちる必要があった。
あの時のように経文を使って引きあげてしまえばよかったものを。






「川に落ちただあ!?」
悟浄が奇声をあげた。
もはや隣の家の友達感覚で来る。
「わめくな。落ちたっつっても数秒だ。ピンピンしてる」
「そういう問題じゃねえ!」
三蔵の執務卓を強く叩いた。
悟浄の剣幕に八戒と悟空は黙り込んでいる。
保護しろ、さもなくば引き渡せとそういうことだろう。
あれだけ大勢の僧徒の前で素顔をさらし、肌に吸いついた装束が艶めかしいかたちを縁取れば、三蔵法師の威を以てしてももはや長くは留め置けない。三仏神の命だからとあれの酷使を善しとした日々に悟浄が怒ったように、悟浄の怒りは時に誰よりも正しい。絶対に口になど出してやらないが。
「マウストゥーマウスしたのかって聞いてんだよ!!」
前言撤回。
あきれ果てた三蔵はすれ違いざまに悟浄のすねを蹴りつつ書類を持って執務室を出ていった。
「ってーなアンニャロ。ちょーっとふざけただけじゃねえか」
「三蔵にそういう冗談が通じないことくらいわかってるでしょう」
「ドーテーはこれだから」
「ドーテーってなに?」
「道のりのことですよ」
「ふうん」
「さーてと、またクソ真面目に落ち込んでんだろうから、励ましてやっかな」
三蔵が席をはずしたのをいいことに、僧房をチンピラが跋扈し、ノックもそこそこに神聖なるの君の寝室に押し入った。
そこで一心不乱に素振りをするの姿を見つけて、悟浄はにんまりした。



「てめえら何やってんだ」
チンピラが怖くてどうすることもできなかった僧侶たちに泣きつかれ、伽藍東側の僧房から西側に至ったところでようやく最高僧がお出ましになった。
「なにって、野球しに行くんだよ」
「人数足りないんで三蔵もお願いしますね」
「なあ、あっちの竹のとこならあんま人いないからいいだろ三蔵」
「よくねえ」
を見て三蔵は頭をかかえた。
顔を隠しておらず、部屋にいたそのままの姿で出歩いている。その手にカラーバットを大事そうに携えて。
「…」
三蔵は苛立たしげに頭をかいて眉間にしわを寄せる。
「おい悟空」
「ん」
「戻れ」
「やだ」
「そいつの綿入りの上を持って来いつってんだよ」



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