「リー!リー!」
「ピッチャーびびってんぞ、かましたれ悟空ぅー!」

若い僧侶を一塁に置き、バッターボックスに立つのはカラーバットを携えた悟空である。
ベンチから声援を送るのは悟浄ばかりではない。グーパーで別れたチーム三蔵の僧侶たちも三蔵が持っていた書類を丸めてメガホンにし悟空を盛り上げる。監督の三蔵だけはベンチにどっかと座って腕組みしている。
彼らは竹林に向かう道々ですれ違った若い僧侶たちである。
「おーいそこの人ら、野球やろうぜ」
こういう時、悟浄の軽さは炸裂する。
神聖な院内でチンピラに声をかけられ、僧侶たちは最初こそびっくりした様子だったが、チンピラの横に玄奘三蔵法師との君までいるのを見て、顔を見合わせた。

悟浄と悟空、そして三蔵がひとつのチームに入り、初回に悟空がセンターへの特大スリーランホームランを放った時点で勝敗は決したかに思われたが、対するチーム迦陵頻伽の坊主達もただ者ではなかった。
時には命を落とすものもいる厳しい修行をくぐりぬけ、名刹・慶雲院の門をくぐった男たちである。そこに的確な助言を授けて選手たちをマウンドに送り出す監督兼選手の八戒の采配も加わり5回までに1点差まで追いついた。
チーム三蔵 6 - 5 チーム迦陵頻伽
7回表、チーム三蔵の攻撃はすべての塁に坊主を置き、ツーアウトの場面である。
化け物並みの運動神経と動体視力を持つ四番・悟空を前に、ピッチャーはごくりとつばを呑む。
サインにうなずいた。
恐れることはない。
ピッチャーは自らにそういって聞かせ、迷いなく信じられるだけの理由があった。
「がんばってくださいー!」
ベンチから、こんな大声を上げたのは初めてですと必死そうな顔に書いてある女神が声援を送っているのである。
悟空は振りかぶったピッチャーの眼が光り、背に炎が揺らめく幻を見た。
伽藍の掃除で鍛えぬいた剛腕がしなり、物凄い一球が放たれた。
見えた!
悟空のその黄金の目が赤球を確かにとらえる。
ボールとバットが衝突するまさにその一瞬、悟空の視界がカッと白んだ。
中天にのぼった太陽がピッチャーの頭に反射したのだ。
「くっ!」
悟空のフルスイングは空を切り、カラーボールはキャッチャーの手に収まった。

真ん中まっすぐ、アンパイアの声は聞くまでもなかった。
最大のピンチを乗り越え1点を取り返したものの8回に追加点を奪われ、チーム三蔵がさらに引き離したまま試合はついに9回裏、チーム迦陵頻伽の攻撃をむかえていた。
相手チームへの声援との格差に世を儚んだためか、童貞歴28年のベテラン投手の投球が乱れ、坊主を三塁に送った。
チーム三蔵 8 - 6 チーム迦陵頻伽
ツーアウト三塁、最後のチャンスで打順が回って来たのは、麗しきの御君である。
の次の打順は八戒だ。ここでつなげば一縷の望みが持てるが八戒監督は代打を起用しなかった。
たもとを縛り、カラーバットを構えたがバッターボックスにはいった。大きすぎるメットが落ちて、持ち上げる。
「姫ぇー!がんばれー!かっとばせー!」
「えっあらヤダ!デッドボールしたら仏罰くだっちゃうんじゃなーい?徳サガっちゃうんじゃなーい?つか当てたらぶっ飛ばす」
「てめえら、どっちの応援してんだ」
ピッチャーはむらむらと沸き上がる情欲と嫉妬を念仏を唱えてこらえ、大きく振りかぶった。
ここまで一度も八戒とエリート僧侶打線にリードを許さなかった剛速球は、しかしふわりとやさしく浮いた。
モテたかった。
三蔵が思わず身を乗り出す。
「っバカ野郎!」
たゆまぬ素振りの結晶が青空に快音を響かせた。
ボールはレフトを鋭く切り裂く。
三塁の坊主が土を蹴った。
もバットを手放して一塁に走る。
俊足が滑り込み、1点を返す。
の足が遅い。
走り方がへん。
身を 乗り出した三蔵の後ろで、悟浄がぽつりいう。
「…あいつ、生まれて初めて走ったんじゃね?」
「うん…なんか、そんな感じ」
ファーストにボールが届いてたっぷり五秒後、息も絶え絶えのの足が一塁を踏んだ。
アウトを取られたことに気づかずが塁を振り返ると、僧侶たちは敵も味方も塁審も、尊きものを見たとばかりに向かって手を合わせていた。



ありがとうございましたと互いの健闘を称えるところまでひとしきり終えて、尊いものと交わった僧徒たちはとろとろにとろけた笑顔で手を振り、持ち場に戻っていく。
負けたのには楽しかったとよく笑った。
悟浄と八戒を送り、走る練習だと悟空がの手を引いて橋を渡る。
「転ぶぞ」と試合の空気のまま声をかけそうになって、優しすぎる気がしてやめた。遠ざかる背にふんと鼻を鳴らす。

明くる日
「三蔵様、お願いがあるのです」
から鉢を託され、断った。
「うちには猿がいる。二日ともたず割られるのがオチだ」
そういい、竹林の西に鉢を運んだ。
が手ずから浅く土を掘り、まだ種の姿のままのそれを植えかえて土を戻した。
頭上の竹の葉が渇いた音をたてる。
綿入りの外套を持ってこなかったが冷たい風が額に汗して動いたには心地よいのかもしれない。
とおく、本堂から読経の声が聞こえはじめた。サボるのはいつものことだ。
は屈していた膝を起こし、こぼれた息は白くけぶった。
「この種がどんな花を咲かせるのか、先を見られないのは残念です」
「…そうか」
春は遠く、夏は遥か
「占えばすぐにわかるだろう」
首を横に振る。
「もう占うのは仕舞いにします」
「…」
「この花が咲いたら皆さんに種をさしあげたかったけれどそれはかないません。だからどうか三蔵様の望むものをわたくしに教えてください。これまでのお礼に」
「…」
「それを最後にさせてほしいのです」

聖天経文の在処を問えば、これは正確無比にいい当てるだろう。
師の仇を問えば、その居場所と名と風貌とをいま見て来たようにいい当てるだろう。
迷うことはなかった。

「やだね。おまえに施されるなんてクソくらえだ」
はその答えを半ば予想していたようだったが、それきりうつむき、所在なく土で汚れた自分の手に触った。
「……。最後くらい自分がアホほどラッキーになるにはどうすればいいか、全力で占ってみたらどうだ」
の顔があがる。
これは、およそ俗世など似つかわしくない姿かたちをしているが、たもとを縛ってカラーバットを振り回したり、運動神経ゼロの走りをしたり、土をいじるほうが三蔵の目にはよく映った。妙なフェチズムを自覚する。
「ぶっ倒れたら部屋に放り込むくらいはしてやらんでもない」
やがては長い睫毛を伏せた。
冷たい風がの髪と袂を空に流した。
けしかけたはいいが、冗談の通じないこれが本当に本気でやってぶっ倒れたりしないだろうか。消えたチャクラが一気に復活するということがあってもまずい。
声をかけようとした時、睫毛があがり、熱をはらんだまなざしが三蔵をまっすぐに見てわらった。
「明日はよく晴れます」
本当にもう二度とはその力を用いることはないような気がした。






天界には前科がある。悟浄と八戒は諸手を振って賛同したわけではなかった。むしろ反対した。ここにいろと。はそれを辞した。どうしてと問われると「大きな図書館がある」といった。
は自分がいささか攫われやすい性質を備えていると自覚している。相当の保護を受けねばあっというまに洞窟に逆戻りだ。かといってこの四人に頼ることはできない。冗談と思ってもう誰も忘れてしまったろうけれど、出会ったばかりの車中で、はこの四人と一匹がやがて旅立つことを一度演算していたのである。だから
「大きな図書館がある」
そういった。
すべてが虚勢の嘘というわけでもない。
まよいまよって半紙に落ちたあの墨は、悟空や、ひまわりの種を見つけたといった時の三蔵くらい、かわいらしいと思ったのである。



「姫、待って、行かないで」
懇願する悟空の頭を撫で、両手で頬に触れ、親指で涙をふく。
そのときが楽しいことでもあったように笑ったのは悟空に習った笑顔である。
ひたすら首を横に振り、の着物を掴んで離さなかった悟空の手を三蔵の指が静かにほどいた。
悟空の伸ばした指の向こうで三蔵との姿が斜陽殿の重い扉に絶てきられた。
扉の風圧で栗毛が揺れる。
全身が冷たくなった。
おそろしかった。
その腕をポンと誰かが叩く。
「なーに鼻水垂らしてんだよ」
眼をまんまるに開いたまま悟浄を見上げる。
「大丈夫ですよ」
背に八戒の手が触れた。
「お互い生きてるんですから、また近いうちに会えちゃいますよ」
「明日あたりひょっこり俺のベッドに現れたり、あるわコレ」
「それはないですが、は悟空に憧れているんですから、次に会う時にかっこよくいられるように今のうちに修行しないとですね」
「そうそう、ビィビィ泣きべそかいてたっていいつけんぞぉ」
見上げた景色と悟浄と八戒の感覚が、襲い来た感覚をほどいて風にながしていく。
もう永久にすすらぬとばかりに、力を込めて鼻をすする。
「っ泣いてねえし!」
「そうですね」
「鼻たれ子ザルゥ」
「垂れてねえし!」
その日の空はよく晴れていた。












謁見の間に至る前に数分間待たされる部屋がある。
前方の扉と後方の扉に塞がれた部屋では一切の音がなくなる。
三蔵の言葉と法衣の衣擦れの音だけがすべてだった。
「行くのか」
の頭をゆっくりと自らの胸に押し付けた三蔵には火事だと叫ばない。
荘厳な銅鑼の音がただ一度響くまで、月すら看ることの叶わぬ時がながれた。






雲は行くし、川は流れる。三蔵の元寝室は再び三蔵の寝室に戻り、悟空は騒がしく、世界は何事もなかったようにまわり続けた。
唯一変わったことがあるとすれば、慶雲院の責任者に課せられた院内見回りのコースに竹林の西が加わったことくらいであった。






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