二日目

朝食の場に、すこし血色の良くなった三蔵が現れ「一週間延長だ」とだけ力強く告げて戻っていったその日、午後になると恒天城から数名のお供をつれて紗烙三蔵法師がやってきた。
悟浄たちには序列がさっぱりわからないが、のまえではクマリ・タルチェさえも平伏し、「殿下」などとうやうやしく呼んだ。紗烙も目的はへの拝謁であった。



謁見は紗烙に限られ、厳めしい扉の外に締め出されていたお供の恒天部隊に悟浄が手をあげた。八戒と悟空も悟浄の後ろからついてくる。
「おう。神様と知り合いなんておまえらの人脈どうなってんだ」
波珊が驚きをとおりこしていっそあきれた顔でいう。
「俺らくらいになるとかわいい神様拾ったり、おっぱい丸出しの神様にキスされたり、カミサマに殴られて殴り返したり、いろいろあんのよ」
「またわけのわからんことを。ところで、そっちの三蔵の怪我の具合はどうだ」
「おかげさまで、恋のパワーで爆裂回復中です」
「コイノパワー?」
「それよか、大丈夫なの?むこう離れて」
いつまた哪吒なる天界の闘神が現れるかわからない。
「問題なかろう」
悟空の問いに応えたのは謁見の間から出てきたクマリ・タルチェであった。
「波珊、謁見の間の前で騒ぐとはなにごとだ」
タルチェに続いて紗烙も扉から姿を現し、最後にが出てきた。
いまにも透きとおって儚く消えそうな神の御姿に恒天部隊の男たちは目と鼻の穴を拡げる。
「しばらくはなにも起こらぬ星だ」
「ハッ、便利なこって」
タルチェにぎろりと睨みつけられても悟浄は軽薄に肩をすくめるくらいだ。
「そのあとおぬしらのわだち途絶えるけどな」
、こいつにおまえの占いかましたれ」
は困ったように笑う。その横でタルチェの眉が思い出したように変な形にゆがんだ。
「ん?いや、しかし、妖怪が現れる相がでておる。でておるが、なんじゃ、この問題ない感じは」






旭影殿に妖怪が現れる先見があるならと紗烙と波珊を残し恒天部隊は恒天城に帰っていった。「念のため」と旭影殿の僧侶たちが進言し、は寺院内の一室に閉じ込められ、そこへ続く廊下には門番が三人も立った。
「クソヒマだ…」
花札の手札をテーブルに放り出し、悟浄は座っていた寝台に倒れ込んだ。八戒、紗烙、波珊というメンツで臨んだ花札はほとんど八戒と紗烙の一騎打ちの様相を呈し、悟浄と波珊にはいっかな勝ち目が巡ってこない。
「ふん、玄奘の従者は戦線放棄か。“青短”張った」
「まだゲームの途中ですよ悟浄。あ、“猪鹿蝶”できました」
「てめェら相手にやってられっか。あー、せめてと組んでやりてぇ。せっかく久しぶりに会えたってのにこれじゃ生殺しだろ。こっちの酒がうまいのだけが唯一の救いだわ、やたら強ぇけど」
同じく負けが込んでいる波珊がこれを聞いて目を白黒させた。
「おまえまさかあの神様とデキてるのか」
「デキてまーす」
「デキてません。うちの三蔵とはアレがコレでソレかもなんですけど」
「ほう、詳しく聞こうか。“花見で一杯“」
とどめの役で紗烙が勝利を決めると一斉に手札がテーブルに散った。
「ハゲ坊主の話よかさ、この辺遊べるとこマジでないわけ?」
「遊べるところねえ…」
波珊はカバンから地図を取り出して花札の上に広げた。悟浄も体を起こしてのぞき込む。
と二人っきりで行けそうな範囲な」
「絶対行かせませんけど」
「いーだろ。夢くらい見させろ」
多少地形が変わっているが…と言い置いて波珊が地図を指でたどる。
「この近くでいうと、…ああ、湖があるな」
「みずうみ」と吐き捨てて悟浄は再び布団に倒れ込んだ。
「湖のなにが不満なんだよ。魚釣りデートでもすりゃいいだろ」
「生臭せェのは坊主だけで十分だっつの」
「行くなら岸から釣ることだ。湖に入るなよ」
紗烙の忠告に八戒が首をかしげる。
「湖に入ると何かあるんですか」
「ここの法師たちが張っている結界は半径1.5キロ弱だ。ちょうどこの湖のこちら側の岸が境界だ」
「お、なにそれ。そんじゃなにも部屋に閉じ込めなくても結界圏内なら別にいーんじゃん」
「いや、そうとも」
紗烙の言葉に、乱暴に扉が開く音が重なった。
「ライター貸せ」
「三蔵」
借りた濃紺の着物の下に包帯をぐるぐる巻きにした玄奘三蔵法師が不機嫌そうに立っていた。
「おらよ」
悟浄が放ったライターは棒立ちの三蔵の腕にあたって床に転がる。
「…ヘタクソ」
「今のはおめえがヘタクソだろうが重傷坊主」
「うるせえ」
三蔵は足元に落ちたライターを拾おうとしない。やがて
「拾え」
と命じた。
怪我のせいで屈めないのである。
「だいぶ悪そうだが、それだけ悪態がつければ心配ないな」
扉付近の床に座っていた波珊が取り上げて手渡したが、今度は着火ホイールが回せずに五度目の着火失敗で舌打ちした。見かねた八戒が立ち上がり三蔵が口に咥えている煙草にライターの火を寄せてやった。
八戒はあきれてため息をつく。
「いまにも落としそうじゃないですか。こんな時くらい煙草は控えたらどうです」
煙草はかろうじて三蔵の指の間に挟まっている程度で、落としたが最後煙草を拾えず、そのまま火事になる予感がしてならない。
三蔵は壁にもたれ、一服してから
「悟空は」
といった。
「猿ならまた外走ってくるって出てったきりよん」
「また?」
「昨日の晩も「ちょっと外走ってくる」とかいって急に跳びだしていってよ」
「食欲もあんまりないみたいなんです。今朝も五杯しか食べませんでしたし。食事の場ではのとなりをとってはしゃいで元気そうなんですけれど」
三蔵は思案するようにしばらく宙を見、煙を細く吐き出した。
「高山病か」
「高山病のやつは外走り回らねえだろ」






悟空は走った。
むき出しの岩を跳びこえ、とがった葉の間をくぐり抜け、険しい山道を闇雲に走った。
走っているうちに登っているともくだっているともわからなくなった。
それでもひたすらに走って走って切り立った崖の上までたどり着いてようやく足を止めた。
膝に手をつき、ぜいぜいと肩を揺らす
ひたいの汗をぬぐうと、途端にの姿が頭に浮かんだ。
浮かんだものを腹の底に押し戻すように息をとめ、悟空はまた走った。
巨大な岩の影からこちらをうかがう鋭い眼光に、無我夢中で走る悟空が気づくことはついになかった。






***






夕餉ではついに玄奘三蔵も席についた。
紗烙と波珊も揃い、大人数の長テーブルは厳粛な寺院内とは思えないほど賑やかである。
「めっしだー!!きょうも超うまそー!俺姫のとっなりィ!」
上座だろうが構わずの隣を陣取って人一倍やかましい。頬袋いっぱいに食い物を放り込み始めた悟空の姿は三蔵の目にはとても高山病には見えなかった。
「なあ、これあんた作ったの?すっげー旨いな!明日は肉も焼いてよ。姫も肉食べたいでしょ?」
配膳係の坊主が助けを求めるようにタルチェの方を見、八戒がフォローに入る。
「無茶言わないでください。一応ここ寺院なんですから」
「でもさ、恒天城だと普通に肉出たじゃん」
「高度があがると食えるものも限られるからな。うちは食えるものはなんでも食う主義だ」
「あのね姫、熊食え熊食えってね、あいつすっげーいうんだよ」
「ああ、特に熊の右手だな。あれは最高のたんぱく源で」
「紗烙、頼むからクマリと殿下の前でそれ堂々というな」
「だいじょぶだって、姫はそういうの全然怒んねえもん。ねー!」
おかしいところを強いてあげれば、これだけの量の食事を前にしてあの悟空が会話に興じている時間のほうが長いことくらいだが、見咎めるほどのことではない。
三蔵は気にするのはやめて目の前の豆腐料理を口に運び…落とした。
皿に落ちて崩れた豆腐をもう一度箸先でつかみ、持ち上げて…落とした。
口の中で舌打ちする。
三蔵は両利きだがいま片腕は肘が曲がらず、もう片方は指先に思うように力が入らない。豆腐や豆料理の多い食卓が自らのぽんこつぶりを突きつけてくる。
視線を感じて顔を上げると、箸をとめたがこちらを見ていた。
いや、だけではない。卓についた全員がこちらを見ている。
「…見てんじゃねえよ」
殺気のこもった眼光を一巡させて散らし、意地でもこの豆腐を掴んでやろうと躍起になった。
五度目豆腐を取り落としたところで、ついにが静かに箸を置いて立ち上がった。
と同時に悟空、悟浄、八戒の三人も突然席を立った。
、ちょっと待て」
悟浄のまじめな声に、三蔵のもとに向かいかけたの足が止まる。
その隙に悟空が素早くテーブルの下をくぐって三蔵の足元から這い出すと、三蔵の箸を奪い取った。
「なにしやがる。返せ」
「いっとくけど」
悟空にしては厳しい表情で言い置いた。
「俺が一番長く三蔵の事好きだから」
「…あぁ?」
三蔵の声がどす黒く濁り、悟空を睨みつける。
チッチッチと舌が鳴り、悟空が取り上げた箸をさらに上の位置から悟浄が取り上げた。
「愛ってのは時間じゃねえ。一瞬で燃え上がる愛だってあんのよ。愛してるぜ三蔵様」
三蔵は大きく身震いした。
「いえいえ、あなた一瞬で燃えつきて興味失くすタイプでしょう」
今度は八戒が箸を奪い取り、三蔵の肩に手をかけてにっこりと笑いかける。
「僕、執着がもの凄いんで」
「てめえらなんなんだ一体、気持ち悪ィんだよ、さっさとうせろ」
「モテるじゃないか玄奘」
「うるせえ!」
三蔵への「あーん」権を取り合う激しい攻防は悟空悟浄八戒の三人で繰り広げられているはずだが、明らかにがけん制されてよろめくようにあとずさり椅子にストンと戻った。
「おまえが諦めてんじゃねえよ」
口走った三蔵の肩に汗ばんだ腕が回り、悟浄が凄みのある声で圧をかける。
「おら、三蔵様、お口開けろよ。食わしてやっから」
「誰が食うかクソ河童…!犬食いのほうがマシだっ、っっ放せ!」
「遠慮すんなって」
「どれとくっついても良いがの、式は当院で挙げるがよい」
タルチェの手には色とりどりのパンフレットが扇のように拡げられている。
「冠婚葬祭から忘年会新年会、会議にセミナーまで幅広く対応しておる。このご時世、お布施だけでは寺院の経営も立ち行かぬからのお」
「三蔵様はこれでもぼーさんなのでご結婚は無理でーす!はいザンネーン!」
三蔵の口に料理を突っ込もうとする攻防のかたわら、悟浄が恨みのこもった声をあげた。
これを聞いた紗烙がきょとんとした顔でいう。
「別に無理ではないだろう」
「はあ?」
「我ら“三蔵”は単独で政令を変更する権限があるのだから、結婚したきゃ坊主の妻帯を認める政令を出しゃいい」
これを聞くや椅子を倒して立ち上がったのは波珊だった。
「し、紗烙っ、それはまさか俺とのことを真剣に考」
「いつ私がその政令を作るといった」
「三蔵、早まらないでください。あなた肉食べて煙草吸ってお酒飲んでボカスカ殺生してすでにリーチかかってるんですから、これで姦淫までしでかしたらチャクラがぽろっと落ちますよ!」
「てめェら…いい加減にっ!」
無意味な戦いに終止符を打つべく魔天経文が食堂の宙に広がる。
波打って舞い上がる経文の合間に一瞬の姿を見た。はこの騒ぎが聞こえていないかのようにぼんやりとただ一点を見つめていた。






***






蓮の彫られた扉は不用心にもわずかに開いていて、廊下には白い光が細くこぼれていた。
室内の灯りは消えており、白光は窓から差す月明りであった。
窓際に腰掛けてぼんやりと黒い山並みを眺めている夜着姿のはそのまま絵になる出来だ。
神域といって違いない寝室に足を踏み入れるとようやくこちらに気がついた。
「三蔵様、」
「邪魔する」
「いかがされました」
夜の深い時間だ。金の絡子を取りはらい、三蔵もまた夜の姿であった。
の寝室は三蔵にあてがわれた部屋より四倍近く広く、ひと目で特等とわかる造りをしていた。三人も門番がいて近寄れないと悟浄が文句を垂れている、治癒術を施しに来た八戒はそういったがここに至るまで三蔵は門番には出会わなかった。おおかた、待遇に気がとがめたこれが自ら辞したのだろう。
互いに襟はゆるく、の方はそれを少し正しながら灯りをつけに向かった。
「かまわん」
足がとまる。
「すぐに出ていく」
「…お怪我は。痛みますか」
心にもない、というわけではあるまいが、何か尋ねられないように自分から尋ねたように聞こえた。それにつきあってやるほど三蔵は親切ではない。
「ずいぶんぼうっとしていたな」
今ばかりではない。食事のときも。そうと気づけば自分が目を覚ましたところからすでに、どこか別のところに心を置いてきているようなそぶりを見せていた。
「いえ」
「いつもこんな時間まで起きているのか」
「まだ時差ぼけがあるようです」
は美しい微笑を向けた。その顔を三蔵はじっと睨んだ。
きれいに整えられたままの寝台が、眠ろうともしていなかったことを物語っている。
視線を重ねたまま暫くすると疲れた瞼が完全無欠の微笑に影をおとし、三蔵に背を向けた。
薄い夜着の後ろ姿に手折りたくなるような色気がからみついたようだった。
「……、二郎神様のことが、気がかりで」
観念し、ぽつりとこぼれた声を三蔵は黙ってきいた。
「本当によくしてくださる方だから」
「……」
は三蔵の沈黙を聞いてすっと顔を上げ、すまなそうな笑みをのぞかせた。
「申し訳ありません。お茶もお出しせずに」
扉へ向かって楚々と歩き出す。
「湯をいただいて参ります」
「湯はいい」
扉に手をかけたの顔の横に法衣のたもとがさがった。
の手より上に三蔵の手がかかり、廊下へ細くこぼれていた月光が消えた。
両肩から腕を前にまわすと、は身をかたくした。
「こういうのでまぎれるのか」
答えを口でいわせて辱めるためではなく、三蔵は純然たる疑問としてそれを尋ねていた。
「……」
は何もいわない。
顔も見えない。
三蔵はちょっと焦った。
「こっちは詳しくねえんだから、なんとかいえ」
「…」
こつんと、のひたいが扉にぶつかる。
その拍子にうなじにかかっていた艶のよい髪が横へながれた。
「むこうにいたときにはずっと四人が気がかりでした」
「…いまひとつ」
「三蔵様に、もう一度抱きしめてほしいと」
いわれて、の頭に無言で頬をおしつけた。の肩が小さく跳ねる。
あざとくも法衣の襟を抜いてきた甲斐があったというもの。
「なにもしないから早く寝ろ」
「…はい」
声にいくぶん安堵の色がまじった。
ふいに三蔵の両の袖が絞られた。
の手が前で交差して三蔵の袖をきゅうと掴んでいるのだ。
「もう一分だけ、このままでいてくださいませんか」
「……。かまわんが、尻になにかあたっても知らんからな」



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