三日目

門番がいなくなったと聞くや旭影殿からを引っ張り出したのは悟浄であった。観光名所も歓楽街もなく、湖でデートというのも心が躍らなかったので、特にあてもなくせめて緑のありそうな方角へ散策に出たわけだが。
悟浄が振り返るとまばらに茂る針葉樹の合間を縫って人の列ができている。
「おまえすげえ人気な」
悟浄がに手を出すことを警戒してついてきた悟空と八戒に加え、「リハビリだ」と言い張って玄奘のほうの三蔵、先見のとおり旭影殿周辺に妖怪が出るとすれば狙われるのは二人の三蔵かクマリかであろうといって紗烙の方の三蔵に波珊、タルチェに旭影殿の坊主達までついてきて遠足のように成り果てている。
は首を横に振った。
「わたくしは何もしていない。ただの人のままです」
自嘲した横顔に悟浄の不満げな視線を感じるとは笑顔を繕った。
「それでも清潔であたたかい服を着て過ごせることはとてもありがたい」
きゅうに悟浄の手が伸びてきての額にぴたりと重なった。
「熱くねえな」
満足げに悟浄の口が笑う。
異能を用いるたび熱を噴くこの頭を悟浄はいつもいたわった。あの頃からずっとそうだ。見かけよりもずっと優しいこの男に、今度はちゃんと自然に頬が緩んだ。
この者たちが危機に瀕したならば自らに誓った戒めなど迷いもせずに破って助けよう。
と、隙ありとばかり悟浄が素早くの手を握った。
直後に「えい」というほがらかなかけ声とともに悟浄の手首に手刀が落ち、繋いだ手は早々に引き離された。
「イッテ!何すんだよ八戒。つかなんでおまえらゾロゾロついてくんのよ」
「べっつにいいだろ。暇なんだから。ねー姫」
「よくねえよ!俺はこいつとデートしてんの。童貞だからってそんくらい見りゃわかんだろ」
「どっっっ!~~~っこの赤ゴキブリ河童!!今日こそぶっ飛ばすっ」
「かかってこいやクソ童貞チビ猿!!」
「ちょっと二人とも、人前で暴れないでください」

「フハハハハ!!油断したな三蔵一行!」

突如針葉樹林一帯に不気味なわらい声が響きわたった。
姿の見えぬ敵の存在に、旭影殿からついてきた頭巾の老僧二人が素早くタルチェを囲んで印を組み、紗烙と波珊は背を合わせて無骨な銃を引き抜いた。三蔵一行は
「あー…、この声は」といたたまれない表情で八戒が腕をくむ。
「んー、どっかで聞いた覚えあんな。名前なんだっけ」と悟浄は面倒くさそうに耳をほじる。
「えっとぉ…あ!たしかケで始まる!」と悟空がひらめく。
「俺は知らねえな」と三蔵。
「コラ玄奘三蔵!忘れたとは言わせんぞ。あとケで始まらないぞ少年!」
三蔵は腕組みして鼻を鳴らす。その手に銃を構えるそぶりもない。
同じく錫杖を取り出すそぶりのない悟浄がタルチェにいう。
「妖怪は入って来れない結界張ってんじゃねえのかよ」
「結界は張っているが、妖怪をはじくものではない。そもそもわしは妖怪だし、おぬしらが入ってきているくらいだからな。結界が問題ないと自動判定した者は通る仕組みじゃ」
「もしもーし、問題ないって自動判定されてしまっているそうですよ」
「な!?」
「あいつは俺たちの仲間だからな」
皮肉たっぷりに三蔵がいうと木々にこだまする声はわなわなと震えた。
「き、貴様らァ!またそのようなことをぬけぬけとっ。そのせいで俺がどんな目にあったか、わかっているんだろうな!」
「知るか」
「~~~~っ!!…フッ、しかしいつまでそんな生意気な口がきけるかな」
悟空がなにかを察知し素早く視線を巡らせた。
「姫!」
「おっと動くなよ」
木の影から姿を現した雀呂の片手は女の長い髪を掴んでいる。
「動けばこの女の喉が血泡を噴くぞ」
もう片方の手はの首筋に鋭い爪を押しつけていた。
軽口をやめ、ぴたりと動きをとめた三蔵一行を見、雀呂はにんまり笑う。
「フッフッフ、よほどこの娘が大事と見えるな。ちょうどいい、積年の恨みを今こそっ、え?」
の首の皮を裂かんとしていた雀呂の手を自身が両手でぐっと掴んだ。拍子に爪先が白い首を薄く裂いた。
「へ?え?」
雀呂は動揺した。
この娘に恨みはない。
三蔵一行をこてんぱんにしたあとには無傷で解放してやろうと思っていたものを、意図せず傷つけてしまった。
そしてなにより、女性にこれほどまでにしっかりと触れられた経験は生まれて初めてのことだった。
「こちらに」
雀呂がぐにゃぐにゃになったすきにはすばやく腕を引き寄せ、雀呂の頭を胸に抱いて土に伏せた。
直後、いままで雀呂の立っていた場所に強烈な斬撃と銃撃と打撃と砲撃が殺到し、轟音をあげて弾け跳んだ。
爆風で長い髪と羽織りが強くたなびき、女の背に戻って来るまでの光景が雀呂の目にはひどくゆっくりとしたものに映った。
衝突地点の砂煙がさっと流れると、黒く焼け焦げてじゅうじゅうと音を立てる地面から悟空がゆらりと立ち上がった。堅い大地に亀裂を刻んでいた如意棒を引き抜くと、強く土を踏んでこちらに近寄ってくる。
もの凄いほどの怒りを身のうちに煮えたぎらせた形相である。
「悟く」
う、をがいう前に、悟空は雀呂の頭を抱いて守っていたの両手を掴み、万歳させた。
の足が地から浮く。
金色の揺るがぬまなざしを間近で受けとめるとはそれきり言葉が次げなくなった。
悟空がパッと手をはなしたかと思うとの腰を高い位置でがっちり抱いて、また強い足取りでその場を離れていった。
運ばれていくの姿を雀呂は目と口をまんまるにして見つめ続けた。そこに凄まじい斬撃と銃撃と砲撃の集中砲火を浴び、最後、雑に飛んできた如意棒が雀呂のあごを下から跳ね上げてとどめをさした。



悟空は誰も待たずにひとりを担いで山道をずんずん戻り、旭影殿の階段の下でようやくおろした。

「姫、だめ」

屈んで目線を合わせてきた悟空の言葉は犬か何かに言い聞かせるようにシンプルで、表情にも声音にも一切の迷いがなかった。
「姫が怪我するのが一番だめ」
先程から、はじめて見る男が目の前にいるような錯覚を覚え、は言葉を口にできずにいたが、階段に座らされてようやく心が追いついてきて悟空の言葉を理解した。
これは…そう、自分が怪我をしたと思って、優しい、かわいい悟空はいたく心配してくれているのだ。
「心配をかけてごめんなさい、でも、少しも痛く」
「俺は姫が怪我するのがこわい」
をさえぎり、悟空は手を握って言い聞かすように揺らす。
堅い手に込められた力が思いのほか強く、指が痛い。
真剣なまなざしにまっすぐに射抜かれ、または錯覚のなかに戻された。
「こわいから、もうしないで」
ふと悟空の声にさびしさと優しさがまじり、間違って握っていたかのように手をはなし、間違って見つめていたように視線がはずされた。
「八戒にきれいに治してもらお」
そういって立ち上がり、悟空は来た方角へ体を向けてしまった。
はいままで悟空がどういう顔をしていたか、いまどういう顔をしているのか、考えようとしたが頭が真っ白になってついにわからなかった。



一方その頃、八戒はというと
「はっか、八戒!落ち着けって!の怪我治しにいこうぜ、な?おいったら!ちょっ、ロープロープッ!!」
雀呂に馬乗りになって無言で殴り続けていた。






****






「こちらに」

とっぷりと日が暮れてもあの声がまだ耳の奥に響いている。
何度も何度も何度も、昼間の光景が頭の中で繰り返される。
やわらかな白い肌はそれ自体が淡い光をはなつようで、間近で嗅いだあたたかなにおいは魔酔のごとく雀呂の身体をしびれさせた。
は、と熱いため息がこぼれる。
突如目の前の扉が勢いよく開かれ、中で簀巻きにされて横たわっていた雀呂は簀巻きのまま全身で跳ねた。
「ヒッ、ヒィィィ!」
乙女の幻想はたちまちにかき消えて、笑ってない笑顔で自分を殴り続けたあの男が再びやってくる悪夢が脳裏をよぎった。
しかし、うす雲のかかった月の光が照らしだしたのは燃えるような赤い髪だった。その後ろには誰もいないように見えた。
「なぁーにビビってんだよ」
旭影殿の納屋にやってきた悟浄はいかにもチンピラらしく屈みこみ、血の気の引いた雀呂の顔に煙草の煙を浴びせかける。
「ゲホッゲホ!ビ、ビビってなどおらんわ!何をしに来た、お、俺様は敵の情けなど受けんぞっ」
「イチイチめんどくせえ奴だな。殴りに来たわけでも情けかけにきたわけでもねえよ」
「むっ、う。ではなんの用だというのだ」
「いやちょっとよお、モノは相談なんだが」
「む?」
にやついたチンピラから「相談」という単語が飛び出し、雀呂の疑念は深まっていく。
「おまえたしか幻覚使えんだろ」
「そ、それがどうした」
「いや、大したことじゃねえんだけどさ。とエロいことしてる幻覚見せろ」
「ぬぁ!!?」
雀呂は簀巻きのまま器用に跳びすさった。
「ぬぁ、ぬぁ!!?なにをハレンチなことを抜かすか貴様ァ!!」
「だっておまえ、昼間見たろ、つか体感したろ。マジで手ぇだしたら八戒のやつにどんな目にあわされるか」
雀呂の脳裏に白昼の暴力がよみがえり、ぶるりと震えあがって頭の全周から脂汗がにじみだす。馬乗りになられたところで幻覚世界に引きずり込んでやろうと喉が千切れんばかりに「この目を見ろ!」と叫んだが、糸目で笑う男には全く効かず、ただただ無言で拳を振り下ろし続けた。
「幻覚なら八戒にもバレねえし、俺もスッキリだし、ハゲ坊主のファーストラブも邪魔しねえで済むし、Win-Win-Winだろ」
「Winなのは貴様だけだろうが!な、なぜ俺様がそ、そん、そんなふしだらな世迷言に崇高なこの能力を貸してやらねばならんのだっ!」
「ハレンチとかふしだらとか、さーてはおまえ童貞だな」
「どどどどどどど童貞ではないっ!!!」
「やっぱそうじゃん」
「無礼で不躾で下品な愚か者め!そのような口を利いてこの幻覚使いの雀呂様に願いが聞き届けられると思うかっ」
「ほーう、そうゆことは自分の立場よく考えてからいえな?」
「お、おいコラ、煙草の火を近づけるな、危ないだろう、おいっっ!!」
「こっちは協力すんのかしねえのかって幻覚使いの雀呂様に相談してんだよ。ハイですか、イイエですか?大きな声でいってみろよ」
煙草の火が雀呂の目玉めがけて近づいてくる。
「ヒッ、ヒィイイ!」
「ん?悟浄か。なにやってんだこんなとこで」
悟浄の後ろから彫りの深い大柄な男が姿を現した。
「波珊」
「わめき声が聞こえたから来てみれば、一体なにごとだ?」
「いんや、別に」
悟浄は膝を起こし、煙草を咥えなおした。
「ちょっとこいつと知り合いだったからよ、旧交を温めていたわけよ」
「たわけが!なにが旧交だ!そこの男、この悟浄とかいう男はな、この俺様の偉大なる力を使って婦女子のげん」
ぱっと悟浄が外を向き、軽く手をあげた。
「よっ、八戒。こっちこっち」
「ヒャン!」
「ウッソー」
「~~~き、貴様ぁああ、どこまでも俺様をコケにしおってからに」
「っせーな。じゃあてめェ絶っっっ対ぇ自分にそれ使うなよな!」
「誰が使うか貴様と一緒にするな!」
「絶っ対ぇだかんな!!」
叫ぶようにいい悟浄は肩を怒らせ旭影殿のほうに戻っていった。
取り残された波珊はしばらく悟浄の背を見送ってから雀呂の方へ顔を向けた。
「なんだ、見世物ではないぞ。散れ、しっ、しっ」
「いや。その格好ではここの夜は寒いだろうと思ってな」
雀呂の身体に獣の皮でこしらえた布がかけられた。全身を覆うほどの大きさではないが、思いがけず触れた優しさに雀呂の胸に熱いものがこみ上げる。
「ところで物は相談なんだが」
波珊が膝を折って屈んだ。
「ひとつ、紗烙とのエロい幻覚を」
「帰れ!!」






***






ノックの音のあと、扉から悟空がひょこっと顔をのぞかせた。
悟空が別の人のように映った真新しい記憶がよみがえり、は我知らず緊張し腰掛けていた椅子から立ち上がってしまった。膝に置いていた櫛が床に転がる。
「ひーめ。晩ごはんの時間だってさ、一緒行こ」
そこにいたのは確かにの知っている悟空でほっと胸をなでおろす。
「呼びに来てくれたの」
「うん。わっ、姫の部屋デカッ。俺らなんてさベッド三つがテトリスみたいになってんだぜ」
部屋の中に入り、きょろきょろとせわしなく金色の目を動かす悟空の姿には自分の杞憂を恥じた。恥じればこそ、あのとき悟空はただ純粋に自分の無茶無謀を怒り、諫めたのだと思い知る。
「悟空、さきほどは申し訳ないことをしました。思慮の足らないことでした」
「あ、櫛落ちてるよ。はい」
「…ありがとう」
櫛を受け取ると悟空はなんとも不思議そうにこちらを見てくる。
「どうしましたか」
「姫お風呂はいった?」
「ええ、先ほど」
土埃をもろにかぶって戻ると、夕方には湯が用意された。
悟空の手が伸びてきて、櫛で梳いただけの髪の一束を手のひらにすくった。
「三蔵に結んでもらわないの」
「三蔵様のお手をわずらわせるほどのことでは。もう自分で結べますし」
「ねえ」
「はい」
「姫、ほんとに小さくなってない?」
眼をまんまるくして尋ねた悟空にはくすりと笑った。
「ええ。あなたの背がずっと高くなったのですよ」
「病気になったりすると人はしぼんで縮んじゃうんだよ」
「わたくしは元気です」
「そっか…じゃあ」
金色の目がのぞきこむ。

「そんなに可愛かったのも昔から?」

の表情がやさしく微笑んだ形をしたまま、おもしろいようにぴたりと止まった。
じっと見つめる視線に困惑して、笑顔がほどけていく。
笑顔のすべてがほどけ落ちてしまう前に、悟空は手のひらから髪の一束をこぼしてニッコリと笑顔を作った。
「アハ、姫びっくりした顔した!イェーイ。あ、姫、大変だ。俺腹減った。早く行こ、早くー」
先に廊下に跳びだして振り返ると、はあからさまにほっとした様子で「ええ、行きましょう」とうなずいた。
廊下の先で同じく食堂へ向かう三蔵と合流した。
「ねえ三蔵、三蔵ってば」
「なんだ騒々しい」
「姫の髪結んであげて。俺腹減っちゃったから先行くね」
「廊下は走るんじゃねえ…たく。なんだってんだ」
ぴゅーと走って行って悟空の姿はもう見えなくなった。反対側からは髪をおろしたままのがふらふらと歩いてくる。
「おまえ…」
「はい」
「何か占ったのか」
顔が赤い。
「い、いえ、いいえ。なにも考えられません。頭は真っ白で」
「なにいってんだ」
「なんでもありません…」











食堂へは向かわずに途中の窓から外へ跳びだした。
だめだと頭の中で響く。
息が白くけぶる夜を走って走って走って、体の熱をすっかり冷ましてから三蔵たちが食堂にたどり着くより早く席について元気に飯を食っていなければいけない。それで、姫の隣で子供みたいにはしゃぐふりをしなくてはいけない。走って走って、走って…。
やがて足が止まり、肩で息して月を仰いだ。
白い息が情けなくこぼれる。

ああ、だめだ
俺、姫とセックスしたい



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