五日目

浴場で騒動のあった夜の続き、日付が変わってしばらくした頃に三蔵が部屋を訪ねてきた。
今宵もまた寝台に眠ろうとした痕跡がないのを見つかってはたいそうばつが悪い。
三蔵は寝台と同じ高さの卓にある白磁の水差しに目をやった。同じ色の湯呑には口をつけていない液体がなみなみと注がれている。
鼻孔をかすめた匂いがあったのだろう。三蔵の眉根が怪訝に寄った。
「…酒か?」
「よく眠れるようにと、紗烙様が」
浴場での出来事のあと「さぞ驚かれたでしょう」と気遣って、僧侶たちに見咎められぬよう水差しでカムフラージュして持ってきてくれたものだった。
「そうか」
それきり三蔵が黙るとは気まずく目をそらす。
天上の二郎神を地上から自分がいくら心配してもなにが解決するということもなく、むしろこの厚遇でここに置いてくれている者たちと優しい人々に気をつかわせるばかりである。
眠らなければ。
三蔵はというと、さっさと寝ろと追いつめに来たわけではなかった。どうせまた眠れていないだろうと、ただそれだけ。目的もなく訪ねたに過ぎなかったが、結果として目の前の娘は二郎神なる神の心配と自分の圧とで二倍追いつめられているように三蔵の眼にも映った。
本意ではない。
本意ではないが、三蔵はここで気の利いたことがいえるような性質はとんと持ち合わせていなかった。
三蔵は「二郎神」と「眠れ」以外の言葉を宙に探しにいった。
「……あの馬鹿はしばいておく」
あの馬鹿がどれのことかわからずぽかんとしていると
「クソ河童だ」
思い当たって、は首をぶるぶると横に振った。
悟浄の長身を一撃で垂直に土に埋めた紗烙のもの凄いかかと落としを思い出す。
「い、いえ、そのことは全く気にしておりませんので。どうかあまり無体をなさらずに」
「少しは気にしろ」
「いえ、本当に、わたくしは慣れておりますので、…」
そこまでいって、しまったと顔に出た。
瞠目したまま下を向く。
は自分があの洞窟で孕むこともなく死ぬこともなく、何をされ何をしてきたか、その一片すら言葉にすることはできない。してはならない。したくない。
きゅうに絹の寝間着を纏っているのが滑稽に思えてきて、暗がりに進みかけた思考を明るいほうへ必死に手繰り寄せる。
「…どうか、お忘れを。わたくしはなにを」
少しでも混乱を鎮めようとは部屋を歩きまわった。

「申し訳ありません、妙なことをっ、どうかお気になさらずに、ウッ」
うろうろの末に卓に足をぶつけ、振動で転びかけた湯呑を慌てて手で押さえて「申し訳ありません」と卓に謝り、三蔵にも頭をさげた。
「すこし落ち着け」
「は、はい…申し訳ありません」
頭上からため息を聞き、落ち着かなくては、といっそうはやく言葉がめぐる。
ちょうど手の中にあった湯呑をぐいとあおった。
「おい、それはっ」
むせぶような喉への刺激に口に入れた瞬間に水ではないことを思い出したが、一気に口に入れたせいで吐き出すこともできず、何かの拍子にごくりと喉が動いた。
まもなく喉の奥からわきあがってきた感覚に覚えがあり、は手で口を塞いだ。
ぐらりときて、落ちるように寝台に座り込んだ。
脳をぐらつかせるのは酔いではない。炎のような酒を注ぎこまれた記憶であった。
「おまえ、もしかして酒を飲むの初めてなのか」
「いえ、初めてでは。どうかお気になさらずに」
一度や二度ではない
「大丈夫か」
口ですら
伸びてきた三蔵の手を払ってしまい、はっとした。謝ろうと口を開いたが
「そんな価値は…」
笑うようにこぼれて、もうここまで。
目の前の男の沈黙と眼がおそろしくてたまらない。
洞を暴かれることをおそれて顔を伏せると、男の手が髪をくぐった。
すくうように頬にかさなる。

「…俺が美しいといえば少しは価値を認められるのか」

紫暗をたたえたまなざしがまっすぐにこちらを見て、唇が動いた。

「美しい」






***






さかのぼること半刻。
しんと静まりかえった真夜中に、土中より人の腕が突き出た。
突き出た腕は肘からぐんと曲がり、地表に手をつくとぶるぶると筋肉を震わすほどの力で土を圧した。砕けた土を撒いて肩が生まれ、胴まで這い出し、足がかかった。
ついに完全に土から這い出した男の赤い眼が、妖しい月光を浴びてぎらりとひかった。

「…この俺が、このくらいで諦めると、思うなよ…」

悟浄はあきらめの早い男だった。
ダメだと思ったら即座にカードを放りテーブルを蹴って賭場を出る。
ダメだと思ったらパッと向きをかえてほかの女に声をかける。
かつては自分の命さえも、ダメだと思ったらすみやかに死を受け入れた。
急に性格が変わったわけでも徐々に更生したわけでもないが、その夜だけ悟浄は固執した。
デートは遠足と化した末に劇団員にめちゃくちゃにされ、命がけの覗きはあともう一歩というところで血迷った猿にぶち壊されたうえに紗烙の強烈なかかと落としで死にかけ、さらにこのまま部屋に戻ろうものなら悟空か八戒に殺されかねない。
―――それならば…
凍るような温度の水で体を洗い、自分の分だけ取り込まれていなかった洗濯物に袖をとおし、冷え切った重い体を引きずって、ぶつぶつとつぶやきながら亡霊のように廊下を進んだ。
「こうなったら、絶対に、這ってでも」
諦めるとか諦めないとか、もはやそういう問題ではない。意地だ。

「今晩中に、絶っ対ぇ、エロいことしてやる…!」



”負の波動の影響ですか?こわいなあ”
ええそうなんです負の波動のせいなんです
というわけで悟浄は一路と合体すべく夜の旭影殿を這った。
八戒のことだ。こうする可能性を見越しての部屋と三蔵の部屋を入れ替えているかもしれない。廊下の分かれ道で悟浄は立ち止まった。一方は天国、一方は地獄である。
「…」
目を閉じ、ふうと細く息を吐いて精神を集中させる。
頭をゆっくりと左右に揺らし、その頭が左の廊下へ向かった時だった。悟浄の触覚がゆっくりと開く振る舞いを見せたのである。
唇の端がきゅっと上がり、悟浄はまっすぐに左の廊下へと踏み出した。



蓮の彫られた扉は不用心にもわずかに開いていて、廊下には白い光が細くこぼれていた。
室内の灯りは消えており、白光は窓から差す月明りであった。
扉の隙間からのぞきこむと、広い部屋の奥、天蓋つきの寝台にひとりの女の姿が見えた。
寝台のうえ、布団にはいってはいるが上体を起こしている。
正確な時間はわからないがもう深夜2時をまわっているだろう。
悟浄は扉を押しひらいて中にはいった。
「なんだよ、まだ起きて…、」
すすり泣くような声が聞こえた気がして速足に近寄り、読書灯として寝台のそばにそなえつけられたランプにライターの火を寄せる。
見上げてきたの顔は真っ赤で、長いまつげは涙に濡れていた。
悟浄は慌てての額に手をあてる。
「なにがあったっ、占ったのか!?」
は震える唇をきつく噛んで引き結び、ゆるゆると首を横に振った。瞬きをするたびに涙がぽろぽろと零れ落ちる様はただごとではない。
「じゃあどっか痛いのか。怪我とか」
のあちこちを確かめ、湿った手をとってそこでようやくの頭だけでなく全身が熱いことに気がついた。嗅ぎなれた酒の匂いにも。
寝台横の卓に水差しを見つけ、手のひらに垂らして舐めてみる。
途端に喉にカッときた。
「おま、まさかこれ飲んだの?」
心細そうにうなずいたの眼から涙がまたぽたぽたと布団におちた。
「ただの泣き上戸かよ…、ったくびっくりさせんなよ」
悟浄はつめていた息を吐きだして肩の力をゆるめた。
「おまえねえ、こっちの酒やたら強ぇんだから、…」
改めて向き直って、悟浄はぎょっとした。
はだけた夜着のあいだ、の白い肌は見事に色づき、酔いの回る不安とはやまる鼓動に責め立てられて、むしゃぶりつきたくなるような色気がの全身に絡みついていたのである。
悟浄は鼻息を噴き、この度の主旨を鮮明に思い出した。
いや、それ以外考えられなくなった。
男の重みを受けて寝台がきしむ。
の足の上にまたがって向かい合い、熱い頬をなぞってさらに熱い首筋へと指を這わせる。
悟浄の冷たい手が下へ下へと伝っていってもは身じろぎ一つしない。酔いと涙でとろんとし、いっそあどけないような眼がただ悟浄を見つめて、小刻みに熱い吐息をこぼすばかりだ。
「…」
悟浄の指はついに両の乳房の間へとすべり込み、柔らかな輪郭へと押し付けられた。かに見えたが、悟浄の手はゆるんでいたの両襟をひっ掴み、ぴたりと閉じた。さらに自分の羽織っていた上着をの肩にまわし、ファーの襟を立てて首元も閉じる。
「ちゃんとしろよなぁ、んなん、見てるこっちが寒ィだろうがっ」
「…あつい」
「暑くねえの!今は酔ってっから暑く感じるだけで今クッソ寒ぃの。それあとで風邪ひくやつなのっ」
のありさまにすっかり毒気を抜かれて、もう鳥肌も立ちゃしない。
「ほれ、寝る」
肩をおして強制的に枕に沈める。
「体あったけぇうちにさっさと寝な」
やけにやさしい声が出て気恥ずかしかったが、この様子ではどうせ目が覚めたころには何も覚えていないだろう。
まだ不安げに見上げてくるその頬をぺちぺちと叩いてやって今日の仕事はお仕舞いだ。
まったく、俺もヤキがまわったもんだ。
悟浄はどこか満足げに自嘲した。
背後で扉の開く音がした。

「おい、水持って来た、ぞ。……」

暗・転






洗いざらしのシーツがつまった洗濯カゴを抱えて八戒がおもてにでてきた。
手で笠をつくり、まぶしい朝の陽ざしに目をほそめる。
その視界の端に、燕尾に反った見事な瓦屋根からさかさまに吊られている悟浄の姿が映った。
「おはようございます、悟浄」
さわやかな笑顔を向けてから「おや」と声をあげて目を丸くした。

「さかさまにぶら下がるなんて負の波動の影響ですか?こわいなあ」

からからと笑って、立ち去った。



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