六日目

出立は明日である。
自分たちで決めたことだから延ばそうと思えばいつまでだって延ばせたが、三蔵の怪我が癒えた今、これ以上ここに留まる理由はない。
朝餉の席で三蔵はそういったが途端に
(ほんとに理由はないのかよ~)
とひやかす視線が一斉に送られ、三蔵は顔をひくつかせた。
こうなってしまうと三蔵は「ならばもう二、三日」などとは決していえない性格だった。
ひやかす視線を送らなかったのは悟空と雀呂だけだった。
黙々と饅頭を口に詰めこみ続けた悟空は、朝も昼ものとなりを取らなかった。
雀呂は単純に和気あいあいとした人の輪のなかで、乗っかる流れを読み切れなかっただけだった。

ちなみに雀呂の処遇に関しては、五日目にタルチェと二人の三蔵による審議がなされた。
玄奘三蔵は最後まで異議を唱えたが、最終的にはの護衛という名目でしばらくは旭影殿近くに身を置くことが許された。負の波動の中心から来た雀呂が天竺国から遠ざかった今になって突然凶暴化するとは考えにくいことと、いざという時には結界が発動するであろうということ、そして本人のやる気をくんでの采配だった。
雀呂の任は主に二つ。ひとつはを狙う不届き者がいないか旭影殿付近の山や村を警邏することだ。もうひとつはが散歩に出やすいように毎日山道の掃除をすることだった。寝床は引き続き納屋である。
の口からこれを拝命するや雀呂は周りが引くほどむせび泣いて左胸を叩き「必ずや!」と宣誓し、の御前に深々とこうべを垂れた。バカは単純でよい、とタルチェがつぶやいたことなど耳に届くはずもなかった。

さて、最後の夕餉であるが、旭影殿から恒天部隊の若衆も集まって食堂の長テーブルは満席となり、追加のテーブルと椅子が運び込まれた。「特別サービスじゃ」とタルチェが両手を広げ、肉料理もたんと振る舞われた。
男たちは喜んだが食卓にただよう異様な臭気には動揺を禁じえなかった。
難しい顔で悟浄がいう。
「うまそうだけど…なんか、臭くね?」
どの料理にもニンニク、ネギ、ニラ、ラッキョウなど強烈なにおいを放つ食材がふんだんに使われていたのである。においの強いこれらの食材はたいていの寺院では避けるべきとされているものだ。
「さあ、皆さんたんと召し上がってくださいね」
長テーブルの端ではお玉を持ったエプロン姿の八戒がニコニコ笑っている。
「なによ八戒、おまえ作ったの?」
「ええ、皆さんにはたいへんお世話になりましたから、せめてもの恩返しをと思って今日は僕もお料理に参加させてもらったんです」
笑顔を張りつかせたまま、抱えた大きなボウルから特製ねぎみじんをなみなみすくってドバドバとチヂミにかけた。八戒は忙しく三蔵のもとにもやってきて手早く小鉢を並べる。
「はい三蔵、カクテキどうぞ。すりおろしたばっかりのにんにくをたぁーっぷりいれておきましたよ。三蔵これ好きだったでしょう。ついでにニラ増量のニラ玉もどうぞ。精がつきますよ。それから箸休めに冷ややっこも」
冷ややっこは小口切りの長ネギの海に沈んでいて豆腐の姿がとんと見えない。
「…」
三蔵は、なにか猛烈な攻撃を受けている気がしてならなかった。
しかし、まあ確かに好物には違いないので、豆腐にどっさりかぶっているネギを箸で避けると
「好き嫌いしない!三蔵法師でしょう!」
と八戒の厳しい声が飛んだ。
三蔵は「今夜の何か」を阻む攻撃を受けていることを確信した。
ねぎみじんに沈むチヂミ、ニラ玉、カクテキ、豆腐の前で箸を逡巡させていると、一番上座からの明るい声が聞こえてきた。
「八戒、この餃子とてもおいしいです。こちらのお料理はなんというのですか」
「口に合ってよかった。これはチヂミというんですよ。コチジャン入りの特製ねぎみじんをたっぷりつけて食べてみてくださいね」
「…」
躊躇のかけらもなくパクパク食べているに閉口する。
三蔵はそんなを視界からはずして食堂を見渡し、欠けているものに気がついた。






***






途中から酒も入り、どこからか笛と太鼓も加わって、やんややんやとにぎやかな声は旭影殿の外まで聞こえていた。タルチェの予言した「なにも起こらぬ」一週間は明日でおわる。きっとみんな騒ぎたいのだ。
悟空はひとり、旭影殿に絡みつく巨木にのぼり、てっぺん近い枝の上から夜空にかかる月を眺めていた。
細くてたよりない月だった。
大きな紙製のバスケットいっぱいに詰め込んできたフライドチキンはもうすっかり食べ終わってしまった。KFCの製法をマスターしたという八戒のフライドチキンはおいしかったが、もっと食べたくて腹が鳴った。
「腹減った…」
食堂に戻って食べたいけれど、あそこにはがいて、三蔵がいる。
いまは戻れそうになかった。
けれど今戻らなかったら明日にはここを離れることになる。
天竺から帰って来る頃にははもう天上に戻っているかもしれない。死なないようにするけど俺が死ぬかもしれない。俺たちの知り合いだと気づかれて、この寺院が妖怪に襲撃されが死んでしまうかもしれない。
「…」
ひらいた眼に白い月を映す。
揺れる馬車のうえの少女の姿が頭をよぎった。
なにかの実のなる場所を指さす少年の姿がはしって
真っ白の景色が浮かんだ。
そこからはいくら意識を集中させても白の奥の景色が浮かばない。でも、こわい。
こわい。
地上の影が動いた気がして、悟空ははっと今にかえった。
樹上から目を凝らすと、おもてに出てきたのは見慣れた法衣の、うちの三蔵だった。煙草でも吸いにきたのだろうか。
しばらく見ていると、三蔵がうしろを振り返った。
まもなくが追いつき、ふたりは連れ立って山道をくだって行った。






夜の空気は冴え、道はそこそこに険しかった。
裾を気にせずどかどか歩ける三蔵と違って、は少しの段差であっても幾重にも重なる着物の裾を持ち上げて、いち、にの、さん、で乗り越えなければいけない。
低い垣根は針のように固い葉で肌を刺し、乾いた土がみるみるうちに白足袋を汚した。
いやおうにも身体が温まり、着せた厚手の羽織りも身動きをしにくくするばかりになったので途中から三蔵が小脇に預かって月夜を進んだ。
最後の難所は三蔵の身長の半分ほどある大地の隆起だった。
先に上にあがった三蔵と、下で見上げるとの視線が重なった。額にうっすら汗をかき、頬は上気している。は登れる場所がないか左右を見渡したが、断層はずっと先まで続いていた。
三蔵の頭にはこれを上にあげる手段として一度自分がおりての身体を上に放り投げるプランが浮かんだ。
逢引とかいうものを詳しくは知らないが、おそらくこれは逢引にあたるものであり、道中ですでに逢引要素は極限まで下がり、を投げればただちに逢引ではなくなる気がしてよした。
右へ行ったが土の断面から飛び出していた植物の根を掴み、とっかかりのない土壁に片足をかけた。力をこめるとたちまち根が千切れて転びかける。
三蔵が上でため息を落とすとは慌てて別の場所を探しはじめた。
「そうじゃねえよ」
こちらを見上げて長いまつげをしばたたく。三蔵は顎で踏み場所を示した。
「そこに足をかけろ」
「はい。…すこし、お待ちを」
は足元をごそごそやり膝まであげた裾をひとまとめに片手でつかんだ。足元に集中し、上の土に触れかけたもう片方の手を三蔵が握るとまた阿呆みたいな顔をした。



登り切った先の景色には息をのんだ。
一面が黒い鏡となったひろい湖のむこう、森林限界を超えた岩山が二つ並んでいる。ふたつの山の間には隙間があり、あいだの遠くにするどい山がそびえているのが見えた。すべての山肌は濃淡のない黒で塗りこめられ、そのうえに骨のように頼りない白い月がかかっている。
雄大ではあるがどこか恐ろしげな景色だ。
三蔵が横の様子をうかがうとはじっと景色を見つめていた。
下の瞼には涙の粒がたまっていて三蔵は静かに驚く。
「…」
気づかれないように視線を前方に戻す。
まあ、まずまずの景色かもしれない。
しばらく黙って眺めていると、静けさと湖から這い出す冷気が夜の寒さを思い出させた。
「三蔵様」
ちょうど声がかかる。
「上着をいただいてもかまいませんか。少し寒くて」
「ああ」
ここまでに汗をかいたからだろう。
預かっていた羽織をひろげて肩にかける。
かけて、
おわり。
「…」
なにか重要なタイミングを逃した気がしたが、なんのタイミングだったのか三蔵にはよくわからない。
「…あの、三蔵様」
これはよくひとを助ける。
「ずっと、あなた様にお尋ねしたいことがあったのです」
「なんだ」
慎重に言葉を選ぶような間があった。
「三蔵様は、わたくしの…」






追いかけてこなければよかったと、草むらの影で悟空は思った。
湖の前でふしぎな距離をあけてたたずむ二人の後ろ姿は、芸術のわからない悟空の目にも絵になる美しさだった。
さびしかった。
せめてをとられることだけさびしがればいいのに、三蔵をとられるさびしさまでまじってきてしまって胸の奥が冷たくなる。
「……」
の姿を目に焼きつける。
きつく目をつむり、しずかに息を吐いた。
つぎに吸い込んだ冷たい空気を胸に溜めてそれきり唇を引き結ぶ。
「…」
瞼をひらいて月を見上げた曇りのない金色の眼には、決意の色が宿っていた。

突然、重いものが水に落ちる音がして見てみると、湖の前にはひとりしか立っていない。
三蔵の姿がない。
「え!?」
なにが起こったのかわからなかったが、が水に入っていくのを見るや悟空は「わっ!」と声をあげて草むらを跳びだした。
湖を囲む草むらから跳びだしたのは悟空だけではなかった。
悟浄である。八戒である。紗烙に波珊に雀呂にタルチェ、旭影殿の僧侶に恒天部隊の男たちである。
「へ?」
同時に跳びだして顔を見合わせた者同士、一斉に目を丸くした。






「三蔵様は、わたくしの…」
の直後、三蔵の姿が目の前から忽然と消え、何かが水に落ちる音がしては湖を見た。
黒の鏡面に大きな波紋ができていたが三蔵の姿はない。
「え…、ぁっ、三蔵様」
はわけもわからず、三蔵と思われる波紋めがけて凍える水の中に一目散にわけいった。
「三蔵様、三蔵様…!」
声は返らず手は水をかくばかりで何にもぶつかる気配がない。
腰まで水に浸かり、いまにも消えそうな波紋を追いかける。
背後で、逢引を覗き見ていたたくさんの聴衆が互いの存在を知らないまま一斉に草むらから跳びだして顔を見合わせていることにも気づかない。
「三蔵様!」
震える喉から声を絞り出し、深みへ踏み出そうとしたそのときであった。
湖の中心で黒い水が膨れあがり、人の高さほどに立ちあがったかと思うと左右に割れて中から女の姿が現れた。
月桂樹の冠をかぶり、水の中から現れたというのにちっとも濡れていない純白の衣装を身にまとっている。
湖から現れた女――いったん女神と呼ぼう――女神は、陶器のような顔をに向け、バラ色の唇をひらいた。

「あなたが湖に落としたのは」

ザバァ!と水面を割って、向かって左に三蔵の姿が立ちあがった。
三蔵様、ああご無事で、と安堵しかけて、その三蔵がフライパンとフライ返しを持ち、身体にはエプロンがかかっているのを見、安堵の息がひっこむ。
女神はつづける。
「この、早めにうちに帰ってみると「な、なんでこんなに早いんだよっ」とぎょっとしてあなたの誕生日のために作っていた豪勢な料理を慌てて隠そうとする玄奘三蔵ですか」
にはちょっといっている意味がわからない。
聴衆たちにもわからない。
「それとも」と女神がいうなり、今度は向かって右の湖面に別の三蔵が立ち上がる。
はビクッと震えた。
「誰もいない薄暗い経堂であなたの身体を身動きできないほど壁に強く押しつけてあなたの下心を試すように「ん?」と首をかしげるガイアが俺にもっと輝けと囁いている玄奘三蔵ですか」
こちらの三蔵はパツパツのレザーパンツ姿でジャケットの襟をやたらときつく下に引っ張って喉をそらす格好のまま静止している。
女神はひときわ静かな声でに尋ねかけた。

「あなたが湖に落としたのは、どちらの玄奘三蔵ですか」

どちらの、と問われては二人の不思議な三蔵を交互に見た。
「どちらの玄奘三蔵ですか」
もう一度問われるとはまじめに焦り、混乱の宇宙のなかで言葉を探す。
「わ、わたくしが落としたのは…」
落とした記憶はないが女神の言に従った。

「わたくしが失くしたひまわりの種を見つけたといって新しいものを買ってきてくださった三蔵様です」

次の瞬間、湖面を突き破り高々と飛沫をあげて無数の経文が暗闇に広がった。






ツルのような触手に引っ張られて湖に落ちた三蔵は全身びしょ濡れで、これを助けにいったは腰から下の着物と袂と髪をじっとり濡らし、二人して唇を真紫にしてぶるぶる震えながら旭影殿に戻って来た。
「とち狂った妖怪が出る湖なら先にいえ」と叩きつけたい恨み言を口の中に溜めて門をくぐると、食堂に集まっていた全員がなぜかぜいぜいと息をして椅子に座っている。
「よっ…おかえり」
悟浄が汗だくで手をあげた。
「…これはどういう状態だ」
不可解な光景に三蔵は恨み言をいい忘れる。
「いえ、ちょっと…暇、だったもので。ついさっき、まで、みんなで、その…天下一武闘会、を、やっていたんです」
「気にするな…玄奘。それより、びしょ濡れではないか。風呂、入ってきたらどうだ」
不良坊主のときめき初恋メモリアルを見物しに興味本位で全員がそれぞれ二人の後をつけており、金の斧銀の斧風の妖怪襲撃事件のあと、二人に勘づかれる前にダッシュで撤収してきましたとは、口が裂けてもいえない。






***






風呂で体をあたためてさっぱりし、部屋に戻ってほっと息をついた。
―――いろいろなことがあったが楽しい夜だった
思い出し笑いをこぼしたとき、ちょうどノックの音が響いた。ゆるんでいた顔をもとに戻す。
扉のむこうに同じくさっぱりした様子の三蔵の姿を見つけると、また思い出し笑いをしてしまった。

おもしろくなさそうな顔で中に入ってきた三蔵は、立ったままおもむろにの髪をとって結い始めた。
並んで寝台に腰掛け、懐かしい感覚をは甘やかに受け入れた。
明日になればまた遠ざかってしまうのだから。
「あの時」
うしろで髪を結う三蔵がいった。
「あの時、なにをいいかけた」
”三蔵様は、わたくしの…”
ついさっきの出来事だ。忘れるはずもない。
は笑った。
「あれは、わたくしの植えたヒマワリが咲いたかどうか三蔵様はご存知かしらと思って」
「…それだけか」
「はい、それをずっと伺いたくて」
「……」
心なしか、編み方が雑に変わった気がした。
なにかまずいことをいってしまったろうか。
「あの…もしや、途中で枯れて」
「咲いた」
ぽつりといった。
それだけではうれしかった。それは、面倒をうんと嫌うこの人があのヒマワリが咲くまで何度もその場所を見にいってくれたということだ。
「…ありがとうございます、三蔵様」
「俺は水もやっていない。勝手に咲いただけだ」
「それでも、ありがとうございます」
髪を結う動きと言葉とが両方とまった。
黙って同じ寝台に腰掛けているだけの時間は髪を結われている時間よりもずっと長く感じられ、ふと不安がよぎった。

「するか」

の眼がひろがった。
「…」
前を向いたまま視線はゆっくりとおりていき、シーツの一点まで落ちて止まった。
そうか。と理解する。
男が夜に女のもとに来る理由の大半など飽くほどわかっていたはずなのに、体をひさがぬ夜を少しばかり繰り返して思い上がり、ヒマワリの話などしてひとり喜んで、まったくすくいようがない。
落胆がないといえば嘘だった。
そしてなにより、このひとに体をひらけばかつて自分がほかの男にそうした姿を見透かされる気がして恐ろしく、この身がおぞましかった。
背後の沈黙を咎めと受け取って、は静かに夜着の襟をひらき肩からおろした。
「お、おい、こらっ」
ずいぶんあわてた声が聞こえ、後ろから着物が肩に戻された。
予想外の反応に振り返ると、三蔵は世にも難しい顔をして、の眼には困惑しているように見えた。
困惑したのはも同じである。
いろいろの可能性を模索して、自分で服を脱がせたかった、ということかしらと考えたところで、三蔵は恥ずかしさをいら立ちに変換した調子で口を開いた。
「それはしたあとにするもんだろうがっ」
の困惑が極まったのを間近で認めると痛恨の様子で頭をかき、独り言をつぶやいた。
「やっぱこうしねえとだめなのか…」
寝台をおり、裾をはらっての脚のまえに膝を折った。
下を向いて何度も咳をはらう。
やがてあがった端正な顔は、耳まで赤い。

「戻ったら私と」



<<  >>