アルとソフィアが国に戻り、シャーレンはロサンゼルスへ、小雨がニューヨークに残ることを決意して数日が過ぎた。
そのころにはもう新聞記者たちは日本から来た奇抜なレース優勝者への興味を失って、港は静けさを取り戻していた。
この都市は、小雨の目を回すような勢いで発展していて新聞の話題に事欠かない。銀行強盗だとか金持ちの誘拐だとかの物騒なニュースも多いし、新技術の開発成功だとか、巨大なビルの竣工だとか明るいニュースもたくさんある。

「聞いてくれ、いま向こうの船乗りたちが教えてくれたんだが」

昼前の港の倉庫に小雨の弾んだ声が響いた。
「こっちに徳川のお姫様がいるらしいぞ。アメリカの大学を卒業されたって新聞に載っていたそうだ」
ホトトが疑似餌づくりの手をとめた。
「トクガワって誰だ?」
「小雨、俺は腹が減った」
話題ではなく小雨が買ってきたサンドウィッチの匂いにひかれて、天晴もやってきた。
「手を洗えよ。徳川っていうのは、俺たちの国の王様みたいなものだ」
「元・王様だろ」
「まあそうだが。うちも父の代は幕府、ええとガバメント?に仕えていたんだ」
「小雨の父さんは王様の家来だったってことか」
「直接じゃないけど、大きくいうとそうだな」
「小雨や天晴は王様とそのお姫様に会ったことがあるのか」
「ばかをいえ。会えるわけがない。遠い人だよ。天晴の家は大店だから昔は幕府と取引があったそうだが、うちなんてほんとうに普通だし。ま、父はよく“かの騒乱の折、わしは上様と親交があった”なんて真面目顔で冗談を言っていたけど」
誰にも伝わらない父親の物まねをして小雨はひとりでからから笑った。
小雨の冗談に誰も笑わないこの空気だってもう慣れたもの。傷つかない。
けれどふと、ニューヨークを離れた仲間たちを思い出し、腰掛けた木箱で小雨はこっそり肩を落とした。
特に思い出されるのは ―――

――― あれはシャーレンがここを離れる前日、ふたりで食事をしたときのことだ。
「一緒に行かないか」と、誰かのその一言を心のすみで期待して、叶わず、しかし小雨はここで一度だけ食い下がった。
「シャーレンはその、どういう男が好みなんだ」
「え」
「や!その、変な意味ではなく、単に、どうなのかなと」
小雨の眼は泳ぎに泳いだ。あからさますぎただろうか。
ちらと見るとシャーレンはほんのり頬など赤らめて小雨から視線をそらし、めずらしくもじもじしている。一縷の望みがつながった。
「わ、私は、そうだな……、実は」
ごくりと喉が鳴る。

「オーナーのことは、すこしかっこいいなと思う、かな」

なにかが完全に砕け散った音はシャーレンの耳には届かない。
「いや別に好きとかそういうことではないんだ!奥さんは十年前に亡くなったそうだけど、いや、そんなことは関係なくて、まず年がずっと離れすぎている。だから憧れているだけというか。ほら、デビッドがわざとクラッシュさせてきたとき、私より先にオーナーが怒ってくれただろう。女はレーサーになれないって言ったときだって、嫌味とか、馬鹿にしたとかではなかった。あの人はレースを真剣に愛していて、レースや観客の現状を考えて真剣に言ってくれたんだって。そう思うと、そういう強い信念を持っているところがすごくかっこいいなって。それにっ、ぽっちゃりしたお腹もちょっとかわいいだろう?」

―――いま思い出しても笑えるし、泣けてくる。
「小雨。ついて来い。部品の買い出しに行く」
「はいはい」
長く感傷に浸っている暇を与えないこの傍若無人な男には、意外と救われているのかもしれない。なんて受け取り方は人がよすぎるだろうか。






出どころ不詳のあやしげな機械を売る露店を一日かけてつぶさに見て回り、風車みたいな羽のついた装置やら、超強力ライト12点セットやら、そのほか小雨とホトトには用途のわからないちまちました機械を大八車いっぱいに買い、それを小雨が引かされて汗を噴く帰り道のことだった。
暮れなずんだ街並みのなか、上品な光を放つホテルの前を通りかかったとき、なかから押し問答する声が聞こえてきた。
ガラスが派手に割れる音も続く。
「あ、TJだ」
とホトトがホテルのなかを指さした。
「なに」
「ディランもいる」
「そ、それはまずい。巻き込まれないうちに早く行こう。うわっ」
立ち止まっていた天晴にぶつかりかけた。てっきり無関心に通り過ぎているものと思ったが、ホテルの中をじっと見ている。
「あいつら…」
「ん?」
天晴の視線の先を追う。
「日本語でしゃべってる」
「ええ!?」
ぎょっとして目をこらせば、もめているTJとディランを取り巻いてやいのやいの言っている男たちは、格好こそ紳士然とした洋装であるが、顔はたしかに日本人のそれである。
奥の中央階段に仁王立ちした恰幅のよい老人が、顔を真っ赤にして叫んだ。
「乱波者ども、これより先は一歩たりとも通さぬ!通るというなら、このわしを倒してから行けえい!者ども、わしの刀を持ってまいれ!柳生流の妙技をば見せてくれよう!」
「加納様、落ち着いてくだされ、またお倒れになりますぞ」
「何言ってるかわからねえが、俺と子猫ちゃんとのデートを邪魔するってんなら容赦しねえぜ、じじい」
「騒ぎを起こさねえと死ぬクズが。ここは俺のホテルだ。人攫いと祭りならよそでやれ」
「運転手さんの次はホテルの用心棒たあテメェも見境がねえな、ディランよう」
興奮した老人をなだめようとする者もあれば、すでに銃を抜いているTJとディランに、背後から組み付こうとじりじり距離をつめる無謀な者たちもいる。
羽交い絞めにしてどうにかなるような連中ではない。
小雨は慌ててホテルのなかに跳び込んだ。
「いやー、どうもどうも!夜分すみません、ハロー、ハロー、グッド・イブニング!」
明るい声を発し、腰は低く、もみ手しながらTJとディランの間に割って入ってみたものの、ここからどうしようという、そのときだった。
中央階段の手すりに繊手がかかった。
「なにかありましたか」
透きとおるような美しい娘が、えんじ色の絨毯の上にその姿をあらわした。



念願の“子猫ちゃん”との再会に急激に機嫌を良くしたTJは、「パーティーだ!」と雄たけびを上げ、その場にいた者たちを一人残らず近くの酒場に押し込んだ。
その後、「やるか」「やらいでか」でTJとディラン、興奮した老人とその部下らしき男たちが向こうで酒豪決定戦をはじめ、これを諫めに行こうとした娘を「そっちは危ない」と引き留めて、思いもよらず絶世の美女と同じテーブルにつく運びとなった。
ソーセージの盛り合わせをバクバク食べる天晴とは対照的に、小雨は水も喉を通らない。
正面に座るこの美貌が同じ日本人、いや、おなじ人間とはとてもではないが思えなかった。
純白の白のブラウスも水色のロングスカートも見れば見るほどこの体の、この顔の、この人のためだけに極楽浄土から下ろされたもののようで、ほのかな光を放っている。手前のグラスのきらめきも、指先が触れたフォークのきらめきも、すべてこの人から放たれた光が
「痛った!」
小雨の足をホトトが踏んだ。
「見過ぎだ」
「あ、ハ、いや、これはっ、申し訳ない」
テーブルにがばと伏して、そうっと顔をあげる。
女は一瞬困ったような微笑を見せてから、長い睫毛を伏せて頭をさげた。
「はじめまして。徳川と申します」
「トク」と、新種の鳥のように鳴いたきり小雨が止まる。入れ替わりに、頬袋をソーセージでふくらませた天晴が日本語でいった。
「ああ、おまえがこっちの大学を卒業したっていうやつか」
「どうしてそれをご存知なのですか」
「新聞に載ってた。大学って何を勉強すモガ」
小雨は張り手の勢いで天晴の口をおさえこみ、電光石火のはやさで椅子から引きずり降ろして床に深々と額ずかせた。
「どうしたんだ二人とも」
テーブルの下をのぞきこんでホトトは大いに首をかしげる。
小雨はぶるぶると全身の震えが止まらない。
ここニューヨークに日本人がそう何人もいるわけがないのに、まさかそんなことはあるはずがないという思いが勝って、今の今まで目の前の人が姫君であるとは思いもよらなかった。それに加えて、姫君その人とわかったというのに天晴のあの態度。すっかり酔っていまほど後方でサウザンド2と相撲対決を始めた男たちは姫君を守る家臣団であろう。ただちに首をはねられても文句は言えない。
椅子の引かれる音を聞き、反射的に
「申し訳ございません!」
といった小雨の手に、やわらかい手が触れた。
はたとして顔をあげる。白い手巾で小雨の手についた砂をぬぐう人は、すぐ目の前だ。
びっくりしているうちに小雨の手を拭き終えて、
「痛いぞ小雨」
頭を押さえつけていた小雨の手が緩んだすきに、天晴がすり抜ける。
その天晴の額についた砂もまた白い手巾が拭いて落とした。
天晴はきゅうに尻のむず痒さを覚えた。むかし、転んで、姉・綾音に同じことをされた情景が突如として胸に去来したのである。
「いいって」
天晴の無礼な振る舞いが小雨を我に返らせた。
「お、おい、言葉に気をつけないかっ」
「かまいません。あなたは、空乃天晴様」
「そうだ」
「おいったら」
「なんで知ってる」
「表彰式を拝見しました。新聞の一面でも。みなさまは有名人です」
微笑して立ち上がり、
「あなたは、ホトト様。I’m so happy to meet you.」
「う、うん…」
「そしてあなたさまは」
送られた視線に身震いして背をただし、再び床に突きかけた手は指をそろえて膝に押し当て
「拙者、一色小雨と申します」
「…存じております」
一瞬、ひとしおの思いを持って見つめられた気がしたのは、さもしい男の願望によるところであろう。
椅子をすすめられて立ち上がったときに小雨がテーブルに頭をぶつけ、ひと笑いあってちょっと和んだ。

「お二人はどうしてアメリカへ」
ホトトを思いやってか、は英語で尋ねた。流暢で、まったく現地の人のような発音だったことに小雨は大いに驚いたが、八歳ですでにヨーロッパに留学していたときいて得心がいった。
一方で、かくかくしかじかで、とここに至るまでの珍道中を話す間、小雨は日本語を使った。
身振り手振りに加えて必要に迫られヘタクソな英語を話し、なんとか聞き取ってここまで来たが、いまだに難しい単語はわからないし、微妙な違いは表現できない。敬語の表現などもってのほか。
客観的にみれば、知識ゼロからおよそ一年でそのレベルに至るだけでも利口な部類に入るのだが、横にいるのが天晴だけに小雨を褒める者は誰もいなかった。
それゆえに、
「たいへんなご苦労をされましたね。こんなに短い間に、外国語をここまで習得なさるほどですもの」
この言葉には胸に熱いものが満ちた。
「どうってことない。ふわ…眠い」
「おまえなっ!」
小雨の文句もむなしく、大あくびのあと天晴は頬杖ついて舟をこぎはじめた。は楽しげに笑う。
「こんなに愉快なお二人となら、ホトト様は道中あきることがなかったでしょう。…ホトト様、眠って?」
「え、おい二人とも。こんなところで寝るやつがあるか」
が何かに気づいて、ホトトの掴んでいたグラスを取り上げる。
「いけない、これはお酒です」
「え!おいホトト、一口飲んでわかるだろうに、なんで飲むんだよ」
と言いつつ、理由はなんとなくわかった。キレイな大人のおねえさんの横で、水に変えてくれと言いだせなかったのに違いない。
「それでは天晴様も?」
「こいつはただのゼンマイ切れです」
後ろの相撲対決がひときわ騒がしくなった次の瞬間、椅子が小雨たちの頭上を通り越し向かいの壁に激突して落下した。
TJとディランだけでも手におえないというのに、さすがに柳生流の指南を受けた徳川家臣団というべきか、日本人のほうも存外手練れが揃っていたものだから勝負は熱を増し、相撲はいつのまにか無手勝流の大喧嘩に発展していた。
ほかの客たちや店員が悲鳴をあげて物陰に隠れる中で、すっくと立ちあがったのはだ。
「おやめなさい。乱暴をしてはいけません」
「あぶない!」
とっさにテーブルを跳ね起こし、飛んできた酒瓶からを守る盾とした。
立てたテーブルの裏に、と、この状況でもぐーすか寝ている天晴とホトトを引っ張り込む。
「頭を出さないでください」
「とめてまいります。だれか怪我をする」
飲み干された瓶が次々にテーブルに当たって砕ける音のするこの状況でこの天衣無縫なおっしゃりよう。この人は本当に、蝶よ花よと育てられた姫君なのだ。
「おそれながら、あなた様が怪我をされるのが一番の大事かと」
なにか言いたげな切ない表情を間近に見て、ひどく悪いことをした気分になった。同時に、濡れた花みたいな姿を間近に見られて、眼福、眼福と心の中で手を合わせる自分もいて、やはりいっそうすまない気分になった。
「そうだ、姫様はホトトをなにとぞお頼みします」
床に無防備に転がるホトトを見てはすばやく自分の役目を了解し、ホトトの頭を膝に乗せると、前かがみに体をかぶせて守り始めた。
お姫様が飛び出していく心配がひとまず消え、小雨は高速で飛んでくる瓶をつかまえては静かに床に並べていく作業に集中した。破片が飛び散ってに刺さったりしてはいけない。
――― 尋常ならざる喧嘩のすぐ横で、事もなげにこれをする小雨を、はしばらく黙って見あげていた。
「……小雨様には、日本に許嫁がおいでだとか」
「そんなことまで新聞に載っていましたか。いや、お恥ずかしい」
小雨はいろいろが飛んでくるテーブルの向こうから目を離さないまま、自嘲の笑みを浮かべた。
「実は会ったこともないんです。一度くらいは会ってみたかったですが、海へ飛び出して一年も経ちましたから、死んだと思われてきっともう破談になっていますよ」
「そんなことはありません」
「はは。過分なお心遣い、いたみいります」
「わたくしが、あなた様の許嫁なのです」

取り逃したテキーラボトルが小雨のこめかみに激突した。



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