あかるい日差しを瞼の裏に感じて目を開けると、そこには見慣れた倉庫の天井があった。
「…夢かぁ」
ほっと胸をなでおろして、大きく伸びをする。
「やっと起きた。もう昼前だぞ」
ホトトの声にあくびしながら生返事を返す。天晴がやかましくエンジンをいじる音でさえ今日はなんだか安心感を覚えた。
「小雨」
天晴が車体の下から顔を出した。
「早く支度しろ。今日はこいつのところに行く。あの本の続きがあるらしいからな」
「こいつって?」
「おはようございます。お邪魔しています」
車体の横からお姫様が顔をだし、海辺の倉庫に野太い悲鳴が響きわたった。






――― 数年前に父が決めたことだった。

幼いころに海外に渡り、放任されてきたである。それゆえに、何も聞かされないまま突然に自分の許嫁を決めてしまった父の暴挙には「どうして」という思いがやまず、真意を問おうと欧州での留学から一時帰国した。
相手は、かの騒乱の折、父の命を助けた人の子息だという。
新政府や華族の人であればいっそ疑問も興味もなかったが、冬月県の小さな村の平凡な出自のひとだと知って、はお目付け役の加納を引きつれてその村の、とある剣術道場の前までやってきた。

「姫様、今からでもお戻りくださいませ。おひとりで許嫁に会いに行くなどとんでもないことですぞ」
「じいがいます」
「じいは姫をおとめするためにともに参ったのです」
「人が集まって、なにかあるのでしょうか」

姫様、と言いかけて、口の中に押し戻す。
確かに道場の周りには人が集まっていて、開け放たれた戸口から中をのぞきこんでいる。新政府になってしばらく経ったこの時世に、未練がましく姫様と呼ぶのを市井の人々に聞かれるわけにはいかない。
は人だかりを避けてすばやく裏手に回った。加納も人目を気にしながらはや足にあとを追う。つま先立ちで格子窓から中をのぞき込んでいるを見つけ
「はしたないっ」

「うわっ」
「めん」

中からそんな声が聞こえて見てみれば、傾奇者みたいな恰好をした少年が、網に絡まって倒れている相手の頭を竹刀の先で小突いたところだった。
見物人からどよめきがあがる。
同門らしい者たちが倒された男に「大丈夫か、小雨」と声をかけるのを聞いてぎょっとした。その名は、この姫君の許嫁となった者の名だ。
あまりに情けない許嫁の姿に加納は目を回した。
その加納を宿で休ませ、は一人で道場に戻ったが、もうみな帰ってしまったようだった。
夕暮れの道をぽつねんと歩いていると、角の先から女の子のしくしく泣く声が聞こえてきた。

「ふみ、どうした」
「お兄ちゃんがっ、負げだ」
「そんなことで」
「あんな、ひきょ、ものに、ぐやじい!ばげだぁあ」

いよいよ天をあおいで泣きはじめた妹に、小雨はあわてふためき、なんとかなだめようとかかる。

「あんなことはなんでもない。本当だ」
「ばげだぁああ、お兄ちゃん痛くて泣く、うわああん」
「俺は泣かない。全然痛くなかったもの。ほら見てみなさい、元気だろう、うおー!」

両手を広げて空に伸ばし「うおー、うおー」といってニコニコ笑って見せると、妹は唇を真一文字に引き結び、鼻をずびずびやった。

「それにしても腹が減ったな。そうだ、今日は父上には内緒で小さいおにぎりを作ってやろう。夕飯の前にこっそり台所へおいで」
「お兄ちゃんと父様も一緒がいい」
「じゃあ三人でこっそり食べよう」
「三人はみんなよ」
「そうか。そうだな」

機嫌を直して鼻をすすった妹と歩き出し、は二人の長い影が見えなくなるまで見送っていた。






おだやかな波が防波堤でくだける。すがすがしい青空のした、波止場の先で一色小雨はうずくまって頭を抱えていた。
全部嘘だ。あんなものは幻覚と幻聴に決まっている。現実であるはずがない。キツネかなにかにばかされているのだ俺は、そうとしか思えない。そう、たぶんそう、絶対そう。一か月ほど前に腹を撃たれた後遺症、あるいはこのまえシャーレンに軽く振られたからその衝撃、さもなくば昨晩俺は気付かないうちに異国の酒にしたたかに酔って酩酊し、前後不覚、人事不省に陥り、壮大な眠気に苛まれて夢を見たのに違いない。いや待てよ、壮大な美人局という可能性も
「頭が痛みますか」
「や、どうぞおかまいなくギャ!」
すぐ横に将軍家の姫君がいたく心配そうに立っていた。
支度をしてくると言って倉庫から逃走し、いま顔と体を拭いて着替えたばかりなのに全身からどっと汗が噴き出す。突然に口腔がカラカラに乾き、喉は絞られ、唇は鯉のようにパクパクと動くがひとつも声にならない。
これを見、姫君はおそれおおくもその場にお膝をつかれ、小雨のこめかみにお手をばお伸ばしあそばされた。
小雨は身を縮めて後退する。
伸ばしかけた手を胸の前にすくめて、
「気を失われたほどですから、よほど強い衝撃です。どうか病院へ」
小雨が昨晩卒倒したのは、実のところ言葉の衝撃によるものであって、酒瓶は関係ない。にもかかわらず本気で小雨の怪我を心配している生真面目な姿を見てしまったなら、畏怖より「なんとかしなければ」という情が勝った。
「や、まったく!全然痛くなかったですから。拙者、地元では有名な石頭ゆえ、ほら、ご覧ください。うおー!」
「…」
両手を広げて天高くつきあげて見せると、可憐なまなざしが黙ってこれを見上げ、小雨は羞恥の極みに至った。が、どうしようもなくて「うおー!うおー!」言っていると、はふっと目を細めて微笑した。どこか嬉しそうに。
ほっとしたが、その笑顔が物凄いほどの可愛さで、ものすごい。
おずおずと腕を降ろし、こちらも笑ってみたがおおいに引きつる。
そのとき、別の気配に気づいて小雨は向こうの空き倉庫に目をやった。物陰に男が二人、悟られたことに気づくとさっと立ち去った。
――― 美人というのも大変なものらしい。
小雨の視線の先を追って
「なにかありましたか」
「いえ、なんでもありません。ひとまず戻りましょう。いぶせき住まいで恐縮ですが」



並び歩く間、小雨は右手と右足、左手と左足が同時に出た。この不審な挙動を問われたら「武士の歩き方です」と言い訳する準備までしていたが、は特に気にしていないようだった。
「きのうは、急に許嫁だなどと、さぞや驚かせてしまったと思います。すまないことをしました」
「いえ、そんな、…その、本当に、そうなのですか」
うなずいて、
「かの騒乱の折、父を助けてくださった恩義ある方の御子息と」
まさか父の武勇伝が本物だったとは。
小雨は額の汗をぬぐった。
「そうとは知らず、申し訳ありません。ご挨拶もしないままこちらに来て、音信不通に」
「小雨様がいなくなったことは先日まで知らなかったのです。ずっとこちらの大学の寮にいたものですから。一週間ほど前についた迎えの者たちから、あなた様がむこうで消息不明になっていると聞いて」
「なんと」
「そうしたら、大陸横断レースの表彰台にいらっしゃるんですもの」
「いやはや、それは、なんとお詫び申し上げたらよいか」
そのときの姫の驚きようを想像し、小雨は不謹慎ながら少し笑ってしまった。
笑ってから気づいた。
「迎え、とは」
「一か月後に日本へ戻るのです。向こうでやりたいことがありますし、もともと大学までという約束でしたから」
「あ、帰って来た。天晴、二人が戻ってきたぞ」
倉庫の入り口を掃除していたホトトが中に呼び掛ける。「遅い」と不機嫌そうな声が返った。






姫君の滞在するホテルの一室に足を踏み入れた天晴一行の様子は三者三様であった。
天晴は、荷造りされた複数の大きな箱に大量の外国語の書物が詰まっているのを見、大興奮して片っ端から箱をひっくり返した。
ホトトは重厚なしつらえの部屋に圧倒されて借りてきた猫のようになった。お目付けの加納なる老人と侍女が部屋の隅からずっと睨みをきかせていたのも、ホトトの居心地を悪くした。
小雨は喜怒哀楽のどこに心を置いていいのかわからなかった。

「全部くれ」とのたまった天晴にげんこつして、その日はひとり一冊本を借りて倉庫に帰った。

天晴は夕飯も食べずに天晴号の中にこもって愛読書「From the Earth to the Moon」の続編「Trip to the Moon」を読みふけり、ずっと物音ひとつ立てない。
古い方のホトトは「英語の本は読みたくない」といって、するとフランス語の動物図鑑を渡された。英語は「わかるけど読みたくない」、フランス語に至っては「読めない」。
年相応にうろたえて拒否したが、当のは新しいホトトを撫でつつ、
「この子は…」
プレーリードッグのページを熱心に読み込んで、聞こえていない。
「繊維の多いイネ科の草を食べるのですね。ホテルの馬屋でもらえるかもしれません」
と、本当に馬草をとってきて、図鑑と一緒におみやげに持たされてしまった。
小雨も流されて「月の旅」なる物語を借りた。
いま天晴が読んでいるものと同じ本に、が日本語をあてた訳書というやつだ。製本されていない、手書きの紙の束である。
「これを、姫様が訳されたのですか」
おどろいて表紙ととを交互に見ていると、完全無欠の美貌が一瞬はにかむような表情をみせた。
「拙い訳で読みにくいでしょうし、一冊丸ごとではかさばるでしょうから、まずは半分」
と束の後半をまびき、
「お願いいたします」
審査員にでも提出するように小雨に差し出した。その紙の束を覗きこんで天晴がいう。
「From the Earth to the Moonの訳書はないのか」
「ありますよ」
と探しかけた手が止まった。
「ごめんなさい。ないです」
天晴の愛読書の訳書はまだないそうだが、二巻にあたる「月の旅」からでも問題なく読めるらしい。
とはいえ、小雨は悠長に物語を読んでいる場合ではない。
は一か月後に日本に帰るといった。小雨は天晴とここに残ると決意した。どちらかをどうにかせねば婚約は成らない。あるいは、婚約をどうにかせねばどちらかの未来が成らない。しかも相手はかの将軍家の血を引く美貌の才媛で、こちらは脱獄囚の手助けをして(きっとそう思われている)海に消えた下っ端役人である。これだけ格に違いがあって果たして自分はこの問題をどうにかできる立場にあるのだろうか。
どうしよう
どうにか
どうする
どうしようも、なくて、
手慰みにやっていた家事もすっかり済んでやることがなくなってしまった。
眠っているホトトの肩まで毛布をあげ、倉庫の隅の寝床で小さなランプをつける。

月の旅
著 ジュール・ベルヌ

美しい文字をなぞり、表紙をめくった。



一八六…年、フロリダに設置された巨大なコロンビヤード砲は、二人のアメリカ人と一人のフランス人を乗せた砲弾を、月へ向かって発射した。
アメリカ人のひとりは、砲兵隊の集まりである大砲愛好会会長、バービケーン。もう一人は技師のニコール。技術にあかるい二人である。陽気なフランス人はミッシェル・アルダンといった。



はじめのうちは、美しい文字を一文ずつたどるたびに「すごい」と、ため息した。
1ページをすすむたび、「遠い人だ」とみじめな思いがしてきて、
やがて、物語に夢中になった。



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