砲弾のなかで目覚めた三人は、自分たちが地球と月の間のふかい闇に達したことに気づく。
猛スピードで砲弾に向かってくる流星、
絶対の真空、
削られる速度、
果たして彼らは引力の中間点を乗り越えて、月にたどり着けるのか。



水平線はまもなく紫色にひかりはじめるだろう。
倉庫の中はまだ暗い。ホトトはひどくあわてた調子の小雨の声で目を覚ました。
「天晴っ、天晴…!」
まだ眠たい目をこすって声の主を探すと、小雨は船を改造した車の中にその半身を突っ込んで、乗り込もうと足をばたつかせていた。
天晴号の運転席にはまだ灯りがついていて窓ガラス越しに中の様子が見えた。
天晴は夜通しシートに座って本を読んでいたらしい。
その襟を小雨が乱暴に掴んで揺すっている。
「なんだ、邪魔をするな」
「今どこだっ」
「は?」
鬼気迫る小雨の表情に天晴は首をかしげる。
「今どこだ!俺の、これ!最後、ミッシェルも、バービケーンもニコールも、きゅうに全員倒れたんだが!これ、死んだ!?」
ホトトにはわからない。
天晴にはわかったらしく、目を大きく見開いた。
「は!」
めずらしく天晴が大きく口をあけて笑った。
「言うもんか、言うもんかよ」
嬉しそうな声は車の外まではっきり聞こえた。
そこからは、言わないと言ったり、言えと言ったり、言うと言ったり、やっぱり言うなと言ったり。ホトトにはよくわからない。
ホトトは見たことのない動物の絵がたくさん載った図鑑を借りたが、絵にそえられたフランス語の説明が読めず、どこに生息するなんという動物なのか、ちっともわからなかった。
退屈にページをめくっていると見たことのある鷲が出てきて、その鷲の絵がかっこよかったものだから真似て紙に書いたりしてみたが、三回も四回も同じ絵を描いているうちに飽きてしまった。
ホトトはしばらくのあいだ、狂ったように楽しそうな二人の姿をランプの灯りのなかに見て、それから何も声をかけられないまま毛布の中に頭までうずめた。





翌朝、ほとんど寝ていないだろうに天晴と小雨は午前のうちにホテルに押し掛けた。
お目付け役の老人が怒れる山の精霊のような顔で見ているのを気にもとめず、天晴は床に坐り込んで周りに本を並べ、次はどれにするか真剣に顎をひねっている。
小雨はお目付け役と召使いの女の目は多少気にしていたが、それでも、
「これが続きです」
と、恥ずかしそうに差し出された紙の束を受けとると、頭上にかかげて目を輝かせた。
「小雨が天晴みたいになった」
「誰が天晴だっ。だが、ホトト、おまえも借りて読んでみたらいい。きっとおまえも天晴みたいになるぞ」
「俺は英語の本は読みたくない」
ぷいと顔をそむけた先でたくさんの英語の本の持ち主であると目が合って、そらした。
「これは日本語だぞ」
「日本語はそもそも読めん」
「では、すこし勉強してみましょうか」
がいった。
「え」
は窓際の机の引き出しから紙と使い込まれたペンを取り出すと、椅子を引いてホトトに示した。ホトトは震えあがるように首を振る。
「いい、です」
はホトトを見ずに椅子をポンと手で叩き、ペン先にインクをつけて紙に何かを書き始めた。
上体を傾けて、肩から滑り落ちた髪がきれいだった。その肩に新しいホトトがよじ登っても動じない。
ポンポンと二度座面を叩かれると根負けして椅子に座った。
顔に似合わず、天晴みたいな強引さである。
「ホトト、ホトト…」
は紙と見つめあったまま、うわ言のように繰り返す。
「ホトト様にはどんな漢字が合うでしょう、天晴様、小雨様」
「ホトトの漢字、ですか。ふむ、生意気な雰囲気のものが合うかと」
「小雨は黙ってろ。その、カンジって、なんだ…なんですか?」
の顔がホトトのすぐ横まで近づいた。
「こう」
いい匂いがした。



“穂渡都“
そう書かれた紙をホトトは大切に抱き、別れ際にはに大きく手を振った。
は手を振り返して見送ってくれたが、歓迎しているのは彼女くらいで、家臣団もホテルマンも用心棒のディランまで冷たい視線を送ってきた。
家臣団が冷たいのはおそらく自分のせいだと小雨はわかっている。かわいい姫君の相手がこんな男なのだから気持ちはわかる。
ホテルの従業員が嫌な顔をするのはアメリカではよくあることだ。先住民と、着物を着た日本人が堂々と出入りするのが気に入らないのである。そういう目がに向けられないように家臣団も侍女も無理をして洋装をしているのだろう。
それにしたって、ディランは一度はともに戦った仲なのだから、そんなに怖い顔で睨まなくたっていいじゃないかと思う。が、あの人はああいう顔だから仕方ない。

「これは麦や稲の先の花実のこと。最後は大きな街。真ん中は渡る。大地の恵みが街を渡っていくって意味だ」
夕飯を囲んで、ホトトは誇らしげに漢字の意味を天晴と小雨に説明した。もっとも、天晴は分厚い横書きの本に顔を突っ込んで聞いちゃいないが。
「穂渡都…、難しい字だな。俺の案でもよかったろ。歩兎々。うさぎがぴょんぴょん跳ねて歩くって意味だ」
「うるさい。オレはこれがいいんだ。かっこいい。これを書けるようにする」
「どれ、教えてしんぜよう」
舌を出してそっぽを向いた。
この態度のとおり、ホトトは夜遅くまで机がわりの木箱にかじりついて鉛筆を動かしていた。ずいぶん熱心で、こっそり小雨が後ろに立ってもしばらく気が付かなかったほどだ。
「どうだ、手本なしで書けるようになったか」
「わ!見るなっ」
肘で隠す。
「あっちに行け、行けったら」
「はいはい」
「にやにやするな!」
小雨は肩をすくめて倉庫の隅の定位置に坐った。
手をこすり合わせて「よし」と気合いをいれ、物語の続きをめくる。



コロンビヤード砲なる巨大な大砲から放たれた砲弾は、空をつらぬいて、宇宙へ飛び出し、月に着陸するはずが、しかし様々な問題に見舞われて、どうも月には降りられそうにないとわかる。
“この砲弾は、永遠に月の周りをまわる棺桶に成り果てるかもしれない”



没頭して読むうちに、小雨は、三人の男のうち、ミッシェルというフランス人に自分を重ねていた。あとの二人は学者肌で、なにかというと難しい計算や専門用語を持ち出し、「君にはわかるまいが」という。まるで天晴みたいなのだ。これに対し、ミッシェルは明るく「わからん」という。そのうえで、突拍子もない発想で、悲嘆する二人を元気づけたりする。
――― もしも俺がこんな魅力のある男だったなら
一瞬、そんなばかばかしい考えがよぎったが、ページをめくると、月の裏の真っ暗闇をすすむ砲弾の中へと意識はもどっていった。






車体側面の扉を外から叩く音がして、天晴は本に突っ込んでいた頭をしばらくぶりに持ち上げた。持ち上げると、首が痛いことに気がついた。運転席で座りっぱなしだったから背中と尻も痛いし、喉が渇いた。腹が減っていることも思い出す。
倉庫の上の小窓を見上げる。
満月にもう数日足りない、白い月が見えた。
「おい、生きてるか。小雨様が夜食を作ってやったぞ」
扉から小雨が顔を出した。鍋敷き板を持って、その上には小さいおにぎりが六つと湯気のあがるカップが二つ乗っている。
「姫様からいただいた煎茶付きだ。豪華豪華」
「読み終わったのか」
「ついさっきな。面白い!」
「そうだろう」
大きく一度うなずいて、茶をすすった。懐かしい味に腹がほっとした。小雨も乗り込んできて、いつもの場所に座る。
「なあ、天晴は一番どの場面がよかった?」
「一番?一番、いちばん…ちょっと待て、考えさせろ」
「俺はいっぱいあるぞ。まずみんなが目を覚ましたところだな。地球の外にでたときの場面なんて、どうして書けるんだ?これを書いたひとはどうやって見たんだーってな。あとはやっぱり、全員倒れたところはおもしろかったな。本当に死んだかと思った。それから」
「一番って言ったのになんでたくさん言うんだ」
「いい場面が多すぎる。で、おまえはどこがよかったんだ?」
「いや、だから…、待て。じゃあ、いま全部書きだすから」
「普通に言えばいいだろ」と小雨は肩をゆすって笑う。
「そうか」
そういうものか。
あれと、これと、それと、と慎重に指を折って説明し、小雨が「うんうん、あの場面はよかった」などと口をはさむたびどこから話を再開すればいいのかわからずに変な沈黙がおちた。
「あ、そうか。おまえ友達いなかったから」と言い当てられて小雨のすねを蹴った。

ひとしきり感想を言い合って、小雨は満足したようにうーんと伸びをした。
「天晴のそれは何の本なんだ」
「摩擦力の本だ。読むか」
「ふうむ」
片目をつむってパラ、パラとめくる。
「英語じゃなければ完全にわかったところだが、おしい」
「ばーか」
といった口に握り飯を押し込まれた。
「おそれ多くも将軍家の姫君の許嫁様が作ったおにぎりだぞ、ありがたく、よく噛んで食えよ」
三回噛んでお茶で一息に飲み下す。
「…。おまえ、帰るのか」
小雨は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「あいつが許嫁で、あいつは一か月したら日本に帰るんだろ。あいつがここに来たときにそう言っていた」
「…そうだったか」
「それで。帰るのか」
「帰るわけないだろ」
案外きっぱり言われて今度は天晴がびっくりした。顔には出ないが。
「俺はそんな軽い覚悟でここに残ると決めたわけじゃない」
きゅうに尻がむずむずしてきた。天晴はひとまずおにぎりを三つまとめて口に放り込んだ。
それに、とため息まじりに小雨が続ける。
「どう考えても釣り合わんだろ。向こうだって、がっかりしているに決まっている」
「なんでだ」
「なんでっておまえ、まず身分があれだし」
「あいつんちもう将軍じゃないだろ」
「そ、そうだが…。外国語の本をひとりで訳しちゃうんだぞ、しかもあんなにたくさん。あのでっかい箱一つ丸ごとそうだったの、見たろ」
「良い」
「いや、いいはいいんけどな…。見た目だって月とすっぽんだ」
「どっちが月だ」
小雨は器用に顔を歪めた。
「ともかく」と言って手を打つ。
「もうその話はいい。俺は帰らないし、あのお姫様は帰る。それでおしまい!それが一番丸くおさまる」
「ふうん」
よくわからなかったが、天晴は許嫁とか結婚とかいう制度に大して興味はなかったのでまあよしとした。
「ところで…」と声の調子を変えた小雨がうかがうような視線を送ってきた。
「お前、本当にあのお姫様を見ても美人って思わないのか」
「まず美人の定義がわからん。本をしこたま持っていることか」
「なんてやつ。お前の姉さんだって村じゃ評判の美人だったんだぞ」
「姉ちゃんが?そうなのか。それで?ああ、月はの方だって言いたかったのか。わかった」
「いや、その話に戻したかったわけじゃないんだが」
「じゃ小雨はブサイクってことだな」
「そこまで悪くないわい!」



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