三日連続でホテルに押しかけた。

の蔵書には、物語だけでなく天晴の好みにドンピシャリな小難しい専門書が揃っていたものだから、天晴は加速度的にここの本を読みたい思いをつのらせ、ついに天蓋付きの姫君の寝台に大の字になって
「俺はしばらくここに住む」
と、のたまった。
これを見て聞いたお目付け役の加納もついに怒髪天を突き、「おのれ小僧、なんたる」と膝を起こしたきり、バタリと倒れた。
小雨は飛びあがって駆け寄った。
「や!これは、加納様、どうされましたか」
「小雨様、どうぞおかまいなく。お園さん、運びますから稲羽さんたちを呼んできてください。いつもの薬も用意しておくようにと」
「どちらまで!」
小雨はもう加納を背負って指示を待っていた。



「申し訳ありませんでした。重かったでしょう」
別室に加納を寝かせ、あとのことは若侍衆と侍女のお園に任せて、ふたりならんで廊下を戻った。
「なんの。アメリカについてからというもの、船の荷を運んだり、車の部品を引かされたり、車を引かされたりしましたから。加納様は、ああいうことがよくあるんですか」
すまなそうにうなずく。
「年も年だし、興奮するとああして目を回すから、日本で待っていていいと言ったのに」
「はは、姫様が心配でたまらないと見えます」
「じいのほうがずっと心配です。わたくしは八歳から一人で国の外にいるのですもの。なにを心配することがあるというのでしょう」
はあきれた様子で小さく息をついたが、一人で出歩いてあやしい輩にあとをつけられているところを先日目撃してしまった小雨である。心情は加納に寄った。
それでも、いままでずっと何事もなく暮らしてきたのだろうから、このひとは神々しく清浄な力で守られているに違いない。
そのように周りの人すべてに大切にされ、神仏にされ愛されている姫君を自分の妻にとは、いよいよ考えられないことである。
その件に話が向かないよう、小雨は昨夜遅くまでかけて読み終えた物語の感想と感謝を熱心に伝えた。
「ありがとうございます。でも、すごいのはすべてベルヌです。ほかの本も、みんなおもしろいんですよ」
完全無欠の美貌の人は、自身の訳に関してだけはよくはにかむ表情を見せる。
「やっぱりもったいない!」と強欲な小雨が腹の奥底で抗議の声を上げたが、清貧を貴ぶ小雨がこれをおさえこんで黙らせる。
「話も面白かったですが、日本人の私でもわかるように言葉があてられて書かれているのですから、それがすごいと私は思います。本当に」
「ありがとう」
うしろで不意にが足を止めた。
「冬月のおとなりの秋内県には外国語の本の訳を熱心に研究している人たちの集まりがあるそうなのです。日本に戻ってそこで働きたいと思っています」
「…」
廊下が急に静かになった。
は緊張した様子でうつむいて、上品なスカートの前で重ねられた細い指にわずかに力が込められたのを見た。
次の言葉をこの人にいわせては、己の情けなさがここに極まる気がした。
「小雨様は戻られるのですか」
「私は、ここに」
一瞬、沈黙がひろがった。
その沈黙をのぞきこんで、嫌われてしまったろうか、と心配する大矛盾が小雨の中でおきている。
その小雨にむかって、はいかにも無理をしてわらって見せたから、今更になって戦慄した。
「飛行機を作るのですね。天晴様から聞きました。とてもわくわくします」
「姫様っ、あの」
「もしよろしければ、」
臆病にも謝ろうとした機先をが制した
「今度、大学の卒業パーティーがあるのです。そこに一緒に来ていただけないでしょうか。お別れの記念に…というのは、ちょっとへんですけれど」






目を合わせない小雨とが部屋に戻ると、新しいホトトがの足元で立ち上がり、スカートに爪をひっかけた。また馬草をくれと催促しているのだ。
「こら、ホトト。やめなさい」
「なあ」
と、寝台に寝そべって本を開いたまま、天晴がいう。
「降りろ、天晴」
「おまえが大学で勉強したのは、訳をあてる学問なのか」
聞きやしない。小雨は早足に寄って天晴を床に引きずり下ろした。の近くはどうにも居づらかったというのもある。
「勉強したのはフィヅィクスという学問です」
「それはどんなだ」
「日本語にはまだ呼び名がないと思いますが、なぜ物を落とすと下に落ちるのかとか、そういった物事のことわりを探求する学問ですから、理学と、勝手に名前をつけて読んでいます。言語は違っても自然のことわりまでさかのぼればみな同じですから、あてる言葉を探すときの助けになるかと思って」
「ふうん。理学。おもしろそうだな」
でも、そうか。うん。わかった。と天晴は独り言をいって、ホトトが首をかしげる。
「なにがわかったんだ」
「ここにそういう学術書がいっぱいあることとか、が倉庫に来たとき、車の部品をあちこち見て、あれはなにをするものか、これはなにをするものかって、やたら聞いてきたこととか。てっきり車に乗りたいのかと思った」
「車にも乗ってみたいです」
「それを早く言え」



「明日は車で来る」と、四日連続の訪問があっという間に決まってしまった。
わかってはいたが、天晴は小雨との複雑な事情など意にも介さない。
日が暮れ始め、ホテルの一階につながる中央階段の踊り場まで降りていくと、下のラウンジに新聞を読むディランの姿が見えた。
ディランは露骨な視線こそないが、こちらに意識を向けている気配がある。
どこか不穏なものを感じ、だけ先に上に戻るよう小雨が言おうとしたときだった。
「あの…」
きょうはずっと静かだったホトトが、おずおずとの袖を引いた。
ずいぶん言いにくそうな様子を見て、はひざまずいた。
「どうしましたか」
「これ」
差し出された皮紐の先に、ホトトの小指ほどの小さな銀色の棒が垂れている。
「首飾り?」
「あげます」
の手のひらに首飾りを置くと、自分の手はさっと背中に隠した。
「漢字を教えてもらったから、そのお礼、です。オレたちは、もらった恩を必ず返すから、だから、それで、それは笛になってる。オレたちはそういう細工が得意だから」
ホトトにしてはずいぶん落ち着かない様子で早口に言った。
複雑な立場も忘れて小雨は目を丸くした。
小雨にはわかる。
完っ全に、色気づいている。
「ここを吹くのですか」
「うん」
は唇を棒の先にあて、ふうっと息を吹き込んだ。
しかし音が鳴らない。
さては失敗作だ。
小雨は不思議といい気分になった。
「もう少し強く」
いわれたとおり、はさきほどより強めに息を吹き込んだ。
やはり音は鳴らなかった。
格好をつけられなかったホトトに優しくてなまぬるい憐憫の情さえ湧き上がってくる。
その小雨の胸でうごめくものがあった。
「キュ?」
新しいホトトが小雨の着物から顔を出す。
新しいホトトはあたりをきょろきょろ見回し、何もないことを確かめるとすぐに着物の中に頭を引っ込めてしまった。
「もう一回やってみて」
は古いホトトのいうとおりにした。
するとまた、
「キュ?」
頭を出して、
引っ込め、
息を吹き込むと
「キュ?」
「わあ」とは子供のように笑った。
「どうしてでしょう」
「これは耳のいい動物とか、小さい子供には聞こえるっていわれてる笛で、ぁ、オレはもう全然聞こえないけどっ、オレたちは“狼の声”って呼んでる。あなたにあげます」



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