侍女は何度かの部屋と別の部屋を往復していたが、さきほど出て行って、それきり戻ってこなくなった。これを見計らい天晴は部屋に入った。

窓際の執務卓には年季の入ったペンと紙が散らばっていて、紙の上の縦書きの文字には試行錯誤のあとが見てとれる。はその椅子にはおらず、天蓋付きの寝台にいた。
クッションを積んで上体を起こし、布団の上に本を開いている。
風呂に入ったのだろう。みつあみをといておろし、和装の夜着に身を包んでいた。
なにか近寄りがたいものを感じて戸のそばに突っ立っていると、寝台の横の小棚から紙と鉛筆を取り出そうと身を乗り出したが気づいた。
「女の部屋に殿方がひとりで忍び込むのは、アメリカでも日本でも、いけないことですよ」
さっきよりは多少血色のよくなった顔が小さくわらう。
「おまえこそ、おとなしく休んでいろ」
椅子を引きずって寝台のそばに座ると、は本と紙とを小棚においた。
「小雨様たちはどちらに」
「小雨は連れていかれた。ホトトはどっか行った」
「そう」
いつもより力ない声と、布団の上にのべられた白い腕を見、小雨が病院のベッドに横たわっていたときの感覚がよみがえった。
「…怪我、したのか」
首をふった。
「じゃあ病気なのか」
また首をふった。
「コルセットをきつく締めすぎてしまって」
「コルセットってなんだ」
「革でできた硬いさらしのようなもので、端についた紐を後ろから引っ張って身体を締めるのです」
「なんで」
「腰を細くして、体のラインを美しく見せるためです。ほかの人に背中を足の裏で押してもらって紐を引っ張ってもらうんですよ」
「ええぇ…、なんで」
顔を歪める天晴に、は苦笑をこぼした。
「迷走して、おめかしをしてしまいました」
「おめかしぃ?」
天晴の頭はなんとか理論立てての話を理解しようとするが、細い腰が美しいという美的感覚がまずわからない。天晴がそういう性質だともわかっていたからこそ、ここまで近づいても咎めないわけだが、今日に限ってはその天晴にもわかることがひとつあった。
「おまえは月の方なんだから、そんなことはしなくていいだろ」
「月?」
理解していない理論をうまく説明することができず、天晴は天井を見たり、床を見たり、を見たりして、結局説明できずにガリガリと頭をかき、不本意ながら最後は感覚でものをいった。
「よくわからんが、おまえ、めかしこんださっきの格好よりいまの方がいいぞ」
「ありがとう」
話せば話すほど謎は深まり、尻がむずむずしてきて、天晴はちょっとすがるような思いで小棚に置かれた本を手に取った。
外国の童話だろう。
パラパラとページをめくる。
「おまえは、こういう本に訳をあてるほうが好きなのか。物語」
「好き」
とうなずいた。
「学問のための本は…、そういった本のほうがいまの私たちの国には現実的に必要とされているのでしょうけれど、楽しいのは、物語」
「物語は要る」
「…」
「要る」
「よかった」とつぶやいて、は秋内県にあるという訳書づくりの集まりのことを話して聞かせた。
「なんでそこでやる必要があるんだ。こっちのほうがたくさん本が手に入るし、ほかのやつの力なんて借りなくてもおまえ一人でできてる」
「ただ訳をあてて、そのまま世に出せばそれは剽窃です。書いた人に相談したり、出版社に許可を取ったりしないといけません。そうしたいですが、わたくしひとりが世界中を飛び回ってそこまでやると、訳をあてる時間が足らなくなる」
「そうだな」
言葉はかるいが天晴は深く納得した。
そうすべきだと天晴は思った。そうして欲しいとさえ思っていた。はじめて自分の好きなものを小雨と語り合って、本当はとてつもなく楽しかったからだ。この現象は小雨にも読めるようにが本を訳したことで起きた。すごいことだ。おまえは訳を続けるべきだ。
これを天晴が表現しようとすると、からりとした「そうだな」の四文字になる。
――― これは四文字にだって表さないことだが。語り合って、疲れて、目を閉じたころに怒り狂った父の声が頭の中に聞こえた。理解されることを諦めて、理解できない者たちを置いていくことにして、そこに痛みを感じなくなって長いこと経っていたのに、ひとたび理解されることがこんなにも楽しいと知ると、天晴にとっては正体不明の感情が、さびしさがやってきた。
「わたくしからも聞いてかまいませんか」
「ん」
「そのお守りはどなたから貰ったのですか」
「…なんで誰かからって知ってる」
家族のことを考えた瞬間にこう問われたのだ。いったいどうやって読み取った。“理学”か。
眉間にしわを寄せる。
「天晴様なら分度器をさげていたほうが不思議がない」
素直に「なるほど」という。
「だが、貰ったんじゃない。無理矢理持たされたんだ」
「そう」
「なんで嬉しそうにするんだよ」
「ひみつ」
「はぁ?」
直後に紙袋いっぱいのアップルパイを抱えたホトトが飛び込んで話はそこで途切れ、天晴はしばらく尻のむずむずがおさまらなかった。



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