加納の部屋まで連れてこられた小雨は、奥の椅子に座った老人にむかってさきほどからずっと平伏している。
「申し訳もございません。おそばについていながらこのような」
さすがに世が世であれば老中として江戸城に鎮座していたのであろう老人だ。空気はぴりりと張りつめて、無言のうちにも峻厳な迫力がある。
「おもてをあげられよ」
「…は」
「拭き掃除はしたがのう。こちらの床は汚い」
引き絞られていた糸が緩んだのを感じ、ちょっと視線を持ち上げる。
加納は長く息を吐き出した。
「姫様がお倒れになられたのは、こるせっとのせいじゃて、そのほうの責任ではない。いや、まあ、責任の一端はあるが」
「は、…その、こるせっと、とは」
加納の厳めしい咳払いがあって小雨は再び平伏した。
「それで。一色殿はここに残るとか」
伏せたまま、
「はい」
「ふむ」
といったきり、加納は黙りこんだ。
永遠に終わらないとさえ思われた沈黙はしかし、
「ま、こちらのほうが好きにやれるからのう」
案外軽やかに破られた。
深くたたまれた皺が愉快な笑みをしているように見えた。
「皮肉なものだが、外国にいれば上様姫様と言って堂々とお仕えできる。飯の味付けが雑なのだけはなんだが、うちの若いのに稲葉と八角という二人がいて、これどもは剣よりも料理がうまいという具合でな。どちらかに作らせれば間違いない。姫様に英語を教わって、こっちに残って小料理屋でも始めようかしらなんて言うておるほどじゃて」
「はあ」
「せっかく一色殿というあてがこちらにできたのだから、姫様も残ってしまえばよいものを」
「え」
「本当に、これに限ってはこのじじいの忠告を聞いてくださらぬ」
どうも話が見えない。
老人はあきれたように息を吐く。
ひじ掛けに頬杖をついた。
「六回だぞ」
「なにがでしょうか」
「あの方が階段の上から突き落とされた回数じゃ」
「っだれに」
前がかりになって眼を剥いた。
「学校や寝泊まりする寮でやられた。理由はおぬしも知っておろう。なに、東洋人であるというだけだ。そのうえ頭も顔もいいとくれば、理由は十分」
小雨は言葉を失った。
「何度かは様子を見にうかがったが、わしらとて異国でずっと姫様に誰かついていたわけではないからな。故郷が恋しくなって離脱してきたほかの留学生とか、おお、お園、来たか。このお園は二度英国に世話しに行った。六回とはそういう者から断片的に聞いた数に過ぎん」
やってきた侍女のお園は、黒い生地と巻き尺を携えていた。
「お立ちを」
すまし顔でいい、茫然としている小雨を半ば無理矢理に立たせると肩や背中に巻き尺をあてはじめた。
それよりもいまはのことだ。
「なぜそうとわかってすぐに帰国させなかったのですか」
立場も忘れ、糾弾するような言葉が喉をついて出て、直後に加納の気配が鋭さを帯びた。
ひじ掛けから腕が離れ、とても老人とは思えないまっすぐな背筋で、真正面から小雨を見据える。
「そなたの母御前と同じ目に遭うからじゃ」
脳裏で、赤い椿にかかった雪がふるえておちた。
「かの騒乱の折に幕府についた者どもが、負けを認めず時代にとりのこされた莫迦者どもがっ、新政府におもねる裏切り者と、かつての仲間を謗って斬り始めた。かつての仲間の幼い子供や、妻や、年老いた親たちをだ」
加納の拳がぶるぶる震えだし、ゆるんだ。一瞬のうちにたちこめた凄まじい殺気も、霧散した。
「ふう、いかんいかん。また姫様に叱られるところじゃったわい。心配だから帰れとじじいをいじめなさるから。なに、いまはもうそういう輩もついえたから辻切りは心配しておらんが、進歩的なこの国でさえかような仕打ちをうけるのだ。日本に戻って、女の身で、どんな屈辱を味わうことになるか。心配でおちおち隠居もできん。それで、何の話だったか」
「一色様がきのう振った我らの姫様は、かわいいだけの女じゃございませんよというお話ですよ。ほら、腕を上げてくださいよ。両方」
お園にずいぶん冷たくいわれ、小雨はいわれるがまま両腕を横に伸ばした。その肩に、加納のズボンと同じ黒色の生地があてられる。
しかしまだ、それよりものことである。
「階段落ちはのう、わしらや上様はそりゃ怒り心頭じゃが、そこはさすがに武門の娘、本人は“訳をかいた紙が破れなくてよかった”という程度で、卑怯者など相手にしない。そういう人だから、あるとき、寮の庭でボヤが起きた」
このときおなじ寮にいた、だいぶ年上の留学生が加納たちに伝えたことだ。
はからのバケツを持って、燃えカスの前にひとりでじっと立っていたという。











それから二日して、
走行練習を台無しにしたお詫びとアップルパイのお礼だといって、は天晴一行を公共図書館へ案内した。
ホトトはきょうもの胸に銀色に輝く笛があることに喜び、小雨は図書館の荘厳な門構えに圧倒され、天晴は天井まで届く書架にぎっしりと詰まった本を仰いで、はしってどこかへ消えた。

小雨はひとり、本棚の間を歩いた。
どこまでも続く読めない背表紙の行列を両側に眺めて、ぼうっとした。
上を向いて、“神々しく清浄な力で守られている”ひとの、無理してわらった顔を思い出す。
下を向いて、From the Earth to the Moonの訳書だったススを見つめる、後ろ姿をおもった。
「あいつ盗む気じゃないか」
振り返ると、二人連れの若い男がくつくつ笑って通り過ぎていった。
が心配になった。
机がずらりと並ぶ読書スペースにはや足に戻ったが、は本の傍らにノートを開いて一心不乱に鉛筆を走らせているだけだった。周りの声なんてまったく聞こえていない。
小雨は何の本かもわからない横書きの本を取り、少し離れたななめうしろの席に座って、が顔をあげるまで、何が書いてあるのかわからない英文を読んだ。



が顔をあげないまま太陽は中天にのぼり、
「聞いたか、むこうでチャイニーズのガキが本の雪崩に埋まったってよ」
という騒ぎが起きてようやくと小雨は読書スペースをあとにした。

ちょうど昼飯時に図書館を追い出され、そこにちょうどよくホットドッグの露店が出ていて、四人同時にパンにかぶりつこうとしたちょうどそのときに犬が吠え、「きゃ!」と悲鳴を上げた小雨の着物にケチャップがつき、が手巾を濡らしに水道へ走り、美人がひとりになるのをちょうど見計らっていたかのようなタイミングであやしい男たちが取り囲み、小雨が慌てて駆けつけたときちょうど通りかかったTJが、の腕を無理矢理引っ張る男たちをボコボコに殴り、「小雨も行けよ、さんのフィアンセだろ」とホトトが余計なことをいい、「子猫ちゃんのフィアンセだあ!?オメエ、ちょっと付き合えや」とおらつくTJに肩をつかまれ小雨ひとり酒場に連れ込まれ、火のような喉越しの酒に夜中まで付き合わされて、
ようやく解放された路地でぜんぶ吐いた。

涙目で、思考はままならず、ふらふらと夜の街を歩いていると、いつのまにかホテルの前に立っていた。
見あげれば、の部屋の窓にはまだあたたかい光が灯っている。
数歩下がると膝の裏が噴水のふちにあたってぺたんと座った。
カーテンの隙間からうつくしい横顔が見えた。
机と向き合って、ひたむきに、あきらめず、異国の言葉同士を結んでいる。
いつまでもあがらない横顔を、いつまでも見あげていた。



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