卒業パーティーは日没過ぎからはじまる。

夕暮れ時に
「それじゃあ、行ってくる」
と告げたら
「待て。俺も行く」
「オレも」
「お前たちは呼ばれてないだろ。それに今夜は姫様は忙しいんだから、本は借りられないぞ」
聞かず、天晴号に押し込まれてホテルまで送られた。この前シンデレラなる童話を読ませてもらったが、ずいぶんと魔法の下手なかぼちゃの馬車である。

着いた先で小雨に用意されていたのは似合わない燕尾服、ではなく、立派な黒の羽織袴であった。
家紋こそないものの羽織の前に結ぶ紐にはたっぷりとフサフサが付いていて、おろしたての黒足袋を履かされ、髪結いまでされてしまった。
「どうしたんだ、その格好」
一階に降りると、案の定の部屋に入れてもらえなかった天晴とホトトが、じろじろ見てきた。
「いや、俺にもわからん。誰かの着物を仕立て直してくれたみたいだが、わからん」
レースの前夜祭に一張羅の着物で行って門前払いされたことは記憶に新しい。現に、今も周りのアメリカ人たちは「なんだ、あの格好は」とか「なぜつまみださない」とかざわめいている。この地でずっと紳士然とした洋装をしている家臣団が知らぬはずもあるまいが。
「誰かにネクタイを借りないと」
「小雨、見て」
ホトトの声と同時に複数の足音が聞こえて、ざわめきも大きくなった。
階上から、刀を帯びた紋付き羽織袴の男たちがはや足に降りてきたのだ。加納もいる。
「控え、控えい」といって道をつくる。
その道の先に小雨はいた。
「加納様これはいったい」

姫様の、お成りにござる」

厳粛な声のあと、階段のまわりがしんと静まりかえった。
銀糸の瑞鶴が翼を広げる白綸子の打掛の、豊かな裾をながく引く。
夜空を流したような長い髪は結いあげず、えんじの絨毯に蓮歩を運び、うしろには引き摺る裾を戴く侍女が身を低くして続いた。
小雨の目に、懐剣に刻まれた葵の御紋がはっきり見える位置まで近づいて、玲瓏たる美貌のあるじが顔をあげた。
これをして、最上級の正装と見抜けぬもののあるべきか。






かぼちゃでない上等の馬車で送られた会場は、前夜祭に負けずとも劣らない華麗な建物であったが、玉体の奥底から瑞光を発するようなが降臨すると、あたり一帯はその影に入ってくすんだ。
重い打掛は馬車のなかの加納と侍女が預かって、降車のとき、その繊手を自分が支えたのだからいよいよとんでもない事態であると、小雨は思った。思ったが、朱を引いた可憐な唇が「ありがとう」と小雨にだけ微笑んだのを見たら、…見たらもう、シャンデリアのかかる高い天井も、着飾ったほかの娘たちも、弦楽器の優雅な演奏も豪勢な料理も、小雨の視界の外に行って、それきりかえってこなかった。
唯一、うしろからの帯の下あたりを触ろうとした不埒者はするどく見咎めて遮った。



パーティーが始まってしばらく、は卒業以来会っていなかった友達と親しげに語らっていた。ひどい仕打ちをした連中ばかりではなかったのだとわかって、小雨は慰められる思いでこれを見守った。
ひとしきり挨拶がおわり、中央で華麗なダンスがはじまると、の足は外庭へ向いた。

迷路みたいな垣根の間を行き、花のアーチをいくらかくぐり、円舞曲の音色は遠くなる。
月光に照らされた花と緑の景色に小雨の緊張はわずかにほぐれ、息をついた矢先、生垣の奥から夜空に向かって差し延ばされる脚を見つけてぎょっとした。
なにごとかと首を伸ばした地面に激しく絡み合う男女を見つけ、
「キャッ!や、これは失敬!」
が振り返る前に背中を押して、あわててその場を離れた。
ひらけた場所にでた。
周辺の生垣から脚が出ていないか小雨が入念に警邏している間、は立ち止まったまま押し黙っていた。
その上に、大きな白い月がかかっている。
満月だ。
小雨は、場違いにも二人のアメリカ人と一人のフランス人を乗せた砲弾を思い出した。






精密な計算と至近の月観察のすえに彼らは気付く。
どうやら自分たちはもう地球には戻れないし、月に降りることもできない。そして、もし月に降りられたとしても人は生きられない、と。
すぐそばに見える月とはるかな地球の間で、それで彼らはどうしたか。
――― なんとしても月に降りようと全力を尽くし始めた。

そうだ。やれ、やれ、行け!
笑ってしまうほど滑稽で、涙がこみあげるほど共感した。

精一杯の計算で算出した最善の地点で最後の信管を爆発させ、彼らは落下する。
誤って、地球へ向かって。







「姫様」
すぐそばで悄然としている月へと向きなおった。
「…」
「知る前は、父の決めた許嫁と結ばれることになんの疑問も持っていませんでしたが、あなたを知れば知るほど私にはあまりにももったいない。話の程度も、天晴のほうがよほど合う。私はおろかで、勇気がなく、聡明なあなたにふさわしくない。きっとがっかりさせてしまう」
うなだれた背中がぽつりいう。
「もう一度振られていますか」
「いいえ」
小雨は苦笑した。
「がっかりさせてしまうと思った私は本当に馬鹿者だ。あなたほど頭のいい方が、なんの理由もなんの見通しも持たずに、許嫁だと明かすはずがない。気に入らなければなにも明かさず帰ってしまえばよかったんですから。それに」
「…」
「好きでもない男のために、これほどのおめかしをしてくださるはずがない。しかも私を魅了するためでなく、私の羽織姿をいつも笑う者たちの目を変えるためだ」
「…」
黙ったままの絢爛豪華な最正装の後ろ姿が、からのバケツを持った後ろ姿に見えてきた。
「そんなひとを、他の、あなたのやりたいことを阻んだりするかもしれない男には絶対に渡せません。姫様も天晴も、急に止められたら衝撃で一瞬で死ぬんですからね」
うつむく頬が色づいているのを見、小雨は一世一代な勇気をふりしぼって指先に触れた。「無礼者」と袖を振られる。
「え!」
「…わたくしのことばかり、あばいて」
しまった!
小雨はビタンと膝をついた。
「やっ、こ、これは、申し訳ございません。おれ、わたしっ、せ拙者は、もう姫様のことを尊敬しきりでしてっ、しなやかで、世界一いや宇宙いち魅力的ですし、頭がよくてかっこよくてかわいくて、なんで私のことを気に入ってくださるのか、本当にそれだけわからないのですが、わ、私はっ、姫様のことがっ…す、すうーっ、すっすっ好きです!好き!大好き!あい!らぶ!ゆううううっ!」
指で作ったハートマークを力強く突き出す格好で、静止して沙汰を待つ。
我ながらどうしてこう情けないのか、涙もちょちょぎれる。
ふ、と息のもれた音が聞こえた。
次の瞬間にははしたなくもお腹をかかえて笑い出し、小雨のハートマークをちらと見るとまたぶり返したみたいに目の端に涙をうかべて笑った。
小雨こそ泣きたくなって、勢いつけてたちあがる。
「そ、そんなに笑うことないじゃないですかっ」
まだ笑っている。
「ちょっと、姫様聞いていますか」
聞いていない。
「どうせ、どうせっ、私なんかと結婚したって、走っている姫様の口に小さいおにぎりを放り込むくらいしかできないんですからねっ。しかもこっちはアメリカですし、姫様日本だし、超遠投!」
「小雨様のおにぎりがたべたい!」
突然両手を握られ、小雨は奇声を発しかけたのを必死にこらえてエイヤとばかりに握りかえした。
がきゅうにおとなしくなった。
見おろしたまつ毛に涙がたまっている。
頬は薔薇色だ。
熱をはらんだまなざしが重なって、無言のうちの短い了解があり、胸が近づく。
男の身体が迫ってさすがに怖気づいたのか、「小雨様」と小さな声が止めた。
「目はいつ閉じればいいのでしょうか」
「わかりません」
腹の奥から生じた正体不明のしびれに急かされ短く応じて再び体を寄せると、姫君は頭をそらせて避けなさり、
「知っているはずです」
とすねるようにいった。
「…表彰式で」
「え」
「…」
思い当たって、さっきまで下のほうから湧き上がってきていた血の気がひゅっと引っ込んだ。
「あ!いえ、それは誤解です。あれはですね、おそらくせせ接吻というよりは、その…拍手?そう、拍手のような意味合いのものでございまして、あるいはこう、拳や腕をぶつけあって健闘をたたえるしぐさと同種のものでありまして決して拙者、やましいところがあって受け止めたわけでは」
「鼻の下が伸びていました」
「やや、そんなはずは!拙者午年の生まれゆえ、もともとそういう顔でして」
小雨が全力で鼻の下を伸ばした真顔を作っていると、いったいさっきから何の騒ぎかと、懐から新しいほうのホトトが顔を出した。
「わ、おまえ、いたのか」
「おいで。お腹がすいたの」
「キュ」
「そう。ホテルに戻ったらまた馬草をもらってきてあげましょうね。小雨様、そろそろ帰りましょう」
「あの、ひめさま、つづきは…」
獣をなでつつ優雅な袖がふわりとひるがえり、パーティーはお仕舞いの時間と相成った。



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