かかっていた満月が雲に隠れ、あたり一面真っ暗になると見張りといってもやることがない。
ときおり大地の砂をさらってきた風が外壁や窓に当たって細かな音を立て、一応暗幕を持ち上げて確かめていたが、外は相変わらずの黒一色。
外よりもまだ中の方がおもしろい。一階では身代金の受け取り人を誰にして、どのように送り込むかで喧々囂々やりあっている。
「なんで俺たちが行く話になってんだ。もともとはお前らが行く計画だろうが」
「そんな話は一度もしてねえ!サウザンド2がしゃしゃり出てきた途端に怖気づきやがって」
「だからもう一人も攫ってくればよかったんだ、その女に行かせたら」
ずっとあの調子だ。
二階の壁沿いにめぐらされた細い通路は、鉄板の床と手すりだけの簡易なつくりだ。少し首を伸ばすと、手すりの隙間からさっきひん剥いた女の生の肩が見えた。
窓ガラスが細かく震えるのを聞いた。
女はずっとああしてうずくまっている。
「あんなのをほっぽっておくなんて」
よだれが垂れた。
下はそのうち殴り合いの喧嘩でもはじめるだろうから、その隙に、と考えたとき、またガラスが震えた。
いや、さっきからずっと震え続けている。
やまず、それどころか、震えは少しずつ大きくなっていく。
「おい、なんの音だ」
誰かが言う。
見張り男は慌てて暗幕を持ち上げた。
かかっていた雲はいつのまにか流されて、星空の中央に満月が煌々と輝いている。
化け物の絶叫みたいな声が聞こえてきた。
絶叫はみるみるうちに近づいてくる。
月下の闇にひときわ光る星がある。しかも、たくさんある。やけにでかい。大きく左右に揺れながら、これもどんどん迫って来る。
一階の男たちも騒ぎ出した。
見張り男は、星の化け物の正体を見極めようと凝視して、ようやく目が慣れてきて、戦慄した。
近づいてくるのは地上を怒涛の勢いで疾駆する巨大な鉄塊だった。
鉄塊の正面を縁取るように強烈な閃光を放つ照明が取り付けられ、さらにそこから扇状に人間が生えて、振り上げた手に手に武器を握り、振り回し、ぶっ放して、人外の雄叫びをあげて迫ってきている。
「て、て、て、敵襲だ!」
震えきった語尾と重なって廃工場に轟音が鳴り響いた。
正面の分厚い鉄扉を食い破り、もうもうと黒煙と白煙を撒いて天晴号が跳び込んできたのである。



廃工場は阿鼻叫喚の大混乱に陥った。
むろん、大声で泣きわめいているのはギルの残党たちだ。
相手にはあのサウザンド2が揃い、ガトリングガンをぶっ放すならず者兄弟もいて、さらには柳生流の侍衆とその指揮官が、封印から解き放たれた妖獣みたいに白刃の爪を閃かせるのだから、いよいよ勝ち目がない。
金属の合する甲高い音と嗚咽とが鳴きかわし、炸裂音がやまないなか、かすかに自分を呼ぶ声をきいて、は顔をあげた。
「ここにっ」
喉がはりついて思うように声がでなかったが、閃光が照らした蒸気と砂煙のなかから小雨が駆け込んで来た。
「姫!」
小雨の顔を見た途端、「ごめんなさい」と、ほとんど何も考えられないまま息みたいな声がこぼれた。
小雨はすばやく目前に跪き、外気にさらされていた体を羽織で包み、あってはならない現実を見まいとするかのように、一度きつく前衿を閉じた。痛恨の面持ちであった。
ちがう、といおうとして、はとっさの声が出ない。
すぐさま後ろの縄が切られた。
唾を飲みこみ、今度こそ小雨を見あげていう。
「大丈夫です。触られただけ」
「大丈夫ではない!」
しずかに叱られ、きつく頭を抱きしめられた。
きゅうに肌に体温が戻り、とてつもない寒さを思い出した。
こみ上げてきた涙の熱さに驚いているうちに腕がはなれ背を向けられて、今度は心細さを思い出す。
鞘を払った。
「お守りいたします」
小雨は目にもとまらぬ速さで一文字に刀を振るった。
天晴号から放たれる光線が逆光となってなにとはよく見えなかったが、一瞬光が割れたかと思うと小さいものが床に転がる音がした。
小雨は振り返らず、それから三度閃光を斬った。
なにを斬ったのかついにには見えなかったが、鉄壁といってまさにふさわしい。






果敢にも抵抗を見せた者たちはいたが、廃工場はあっという間に制圧されていった。
こちらはあらかた片付いて、向こうではまだわずかばかり抗戦する銃声がある。
そちらはならず者と家臣団にまかせて、小雨はを天晴号のなかへ確保した。
中ではいつでも発進できるようにホトトと天晴が待っていた。の姿を見ると二人はすなおに安堵の色をみせる。
「心配をかけました。ごめんなさい」
「そんなことより、怪我ないか」
「はい」
やけに優しい天晴の声に思わず聴き耳をたてたが、小雨は門番役を思い出して自らを律する。この圧倒的劣勢で、死に物狂いになって人質を奪い返そうとする輩がまだあるかもしれない。
しかし、そんな無謀者は現れないまま、廃工場はだんだんともとの静けさを取り戻していった。
突き破った鉄扉のむこうがチカっとひかった。
夜明けだ。
明るくなってきて、戦闘不能になった男たちをトリスタンが数珠つなぎに縛りあげていき、チェイスがすでに手配書を片手にその男たちの顔を検分してまわっているのが見えてきた。
向こうで戦っていた家臣団も状況を見渡し、うんとうなずき合って鞘に刀をおさめたところだ。
彼らに何か声をかけようと、口を開いたときだった。
「わっ」
小雨を押しのけて天晴が車を飛び降りた。縛られた男たちのところへ猛スピードで走っていく。
「天晴、どうした」
この場を離れるわけにもいかず、声だけ張ったが、次の瞬間には天晴は手にしたハンマーを残党の頭めがけて振り上げていた。
寸でのところでトリスタンに羽交い絞めにされ、やけくそでハンマーだけ投げつけるも、コンクリートとぶつかって金属音を響かせただけだった。
静かになりかけていた廃工場でなにごとかと、全員が振り返る。
身をよじってもトリスタンの拘束はとけず、ついに、あの天晴が、怒鳴った。

「あいつの手はっ、お前らなんかが壊していいもんじゃない!」

慄然として車内に頭を突き込んだ。
「小雨、どうしよう、どうしよう」と泣きそうな声をあげるホトトの下に、がぐったりと横たわっている。

小雨の羽織からこぼれた右手の指が二本、腫れあがって関節と逆向きに曲がっていた。



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