容赦なく雨が降る。

天空から見れば、夜の60階通りはサンシャインシティ方面だけ、地面が見えないほどの傘が敷き詰められていた。
傘にぶつかり、水たまりをはねあげ、人間の流れに押し戻されそうになりながら傘を持たない二人が走っていく。



エレベーターのドアの向こうには黒服黒帽子にチョビひげをたくわえた紳士が3人、集まってなにごとか話していた。
臨也は音を立てないように[閉]ボタンを押し込んだ。
秘密警察丸出し。極秘任務ならもっと目立たない格好をしろ。
心の中で毒づく。
ドアが閉じきる寸前で紳士のひとりと目があった。
エレベータは速やかに上昇を開始した。

黒いケータイの電波ゲージが増えていく。
臨也は両手でケータイを掴むと目にも止まらぬ速さで操作した。

「今の「乙女ロードに新しくできた探偵喫茶の店員さん」

色をうしなうの言葉を封じる。
臨也の指は高速で動き続けた。

「客引きがしつこいって評判だから近づかないほうがいい、パンツの色を推理して見せたりするらしい、変態だね、まさに見た目は紳士、中身は変態だ、日本のことわざで“仮に変態だとしても変態という名の紳士だよ”と皮肉られるような救いようのない連中さ、君は気にしなくていい」

「イザ「気にしないでっ」

直前より強い口調で封じられ、は沈黙した。エレベーターの低音だけが響く。
慄然と見開かれた瞳は水晶のように潤んでいた。
臨也はこれまで大勢の人間を泣かせたり泣き叫ばせたりしてきたが、今ほど居心地の悪さを感じたことはない。
狭いエレベーターの中だからだ、きっと。
眉をひそめ、黒いケータイをパチンと閉じてポケットにつっこんだ。

「気にしないでいいから・・・。問題ない、手は打った」

ドアが開いた。
エレベーターのすべての階のボタンを押してから、走り出せないの手を引いて雨の中に飛び出した。






『羽島幽平と聖辺ルリがサンシャイン60の展望台でデートしているらしい』

数分前に不特定多数のソースから発信されたこの情報はまたたく間に仮想世界に広がった。
そしていま、逆走する臨也たちを押し返さんばかりの人間のうねりにまで成長した。開演直前の劇場のざわつきが通りを満たしている。

隙間ない人垣からようやく抜け出して振り返る。水が散った。
傘の群れの間に黒い帽子は見当たらない。
目を凝らす。
本当にいないのか。
前髪を伝う水滴が目に落ちて視界がにじむ。
速度をゆるめた臨也の肩にぶつかってがよろめいた。倒れない。手をつないでいるから。



きゅうに臨也はぞっとした。



冷たい雨が彼を正気に戻したのだった。

黒紳士に顔を見られた上でなぜこんなことをしている。
王女という駒をあやつっていつものように自分の手は汚さず、タノシイ事件を引き起こすつもりではなかったか。
それを高い場所から見下ろして「人ラブ!」と両手を広げる予定ではなかったのか。
王女を手駒にできるのは、俺が棋士であることが大前提だ。
俺まで盤の上に転がり落ちた今、とるべき行動は王女を連れて逃げることではない。
たった一人で盤の上から逃げることだ、大至急!

臨也は自分自身に愕然とした。
芽生えた理性がきつくつながる手をゆるませる。



傘の突進をくらってがまたよろめく。倒れない。手を握ったから。

「・・・気持ち悪ィ」

臨也は細い眉を歪ませ息のような声をこぼした。

「おなか、が?」

玉の息の合間にが言う。
細い眉がさらに歪む。口まで歪んで、皮肉に哂う形になった。

「そうだよ。・・・チケットでも買ってきてくれるの?」
「かならず」



濡れると人間はどうしてこうも魅力的になるんだろうか。
むかし分析したことがあったけれど、忘れた。
遠くから傘の群れをさかのぼってくる黒紳士が臨也の視界にはいった。

いまは全部、忘れた。



「行く?」

今日の昼、同じように言ってを池袋の街へ連れ出した。
もう一度今日がはじまる気がした。






***

サンシャインへ集結するうねりを背に、ぐんぐん引き離していく。
駅から向かってくる人々を避け、ハンズ・映画館・マツキヨ・ABC-MART・デニーズ・ケンタ、十字路にさしかかったところで前方に黒い帽子が見えた。
進路を右へ、いや右も黒帽子。
左っ・・・黒帽子。

十字路の真ん中で立ち往生を強いられた。
黒ずくめの紳士は人ごみから次々染み出し、臨也の視界に入るだけでも10人をこえた。
水滴だか冷や汗だかわからないものがこめかみを伝っては落ちていく。
じりじりと円包囲が狭まる。
それにつれてとの密着度合いも増していった。
・・・女体ラブ。

無数の通行人たちは黒い縁取りの円のさらに外側から中心を覗きこむ。
ケータイカメラを向けた輩もいる。幸い大雨だ。撮影は失敗してくれることだろう。
正面にいた紳士のひとり(これを紳士Aとしよう)が臨也の前まで歩み出た。
臨也はを背にやり両手ともポケットに突っ込んで対峙する。
こちらが得物を抜いても届かないギリギリの距離をあけているのは、さすがに本職だ。

「なにかご用ですか」
「・・・」
「ポケットチーフまで差した紳士が一般人を無言で取り囲むなんて卑劣な客引きだと思うよ。その立派なちょびヒゲは100均で買ったの?」

紳士Aもまた両手をポケットにつっこむ。
黒帽子のつばから水滴をひっきりなしに落としながら紳士Aは小声でこう言った。

「動けば撃つ」

右ポケットが拳銃の形に張っている。
臨也はこれを冷ややかに見下ろした。

「おたくらのお国ではどうかしらないけどここは日本だ。公衆の面前で妙齢の女性にクロくてカタいものを向けるのは猥褻物陳列罪っていう罪に問われるんだよ、わかる?」
「黙れ。おとなしく渡せば事を荒立てる気はない」

「っ、放してっ」

背後から忍び寄った紳士BCがの腕を両側から拘束していた。
臨也のほうへ頭をのりだし身をよじるを引き摺っていく。

「イザヤさんっ」
「頭下げて!」

紳士Bの頭はの上で石の音をたてて紳士Cに激突した。
がぎゅっと首をすくめた直後、紳士Bの側頭部が握りこんだナイフの柄で横殴りされたのである。
腕が緩んだすきにの手を掴んで走り出す。
人がごったがえすサンシャインシティへ向かって。

「待て!」

人ごみにまぎれられてはたまらない。
紳士Aおよび紳士D、E、FGHIJKLMN...は慌てて二人を追いかける。
しかし二人はすぐに戻ってきた。
二人は紳士らの間を駆け去った。
地響きを引き連れて。
紳士はこれを追い忘れた。
傘傘傘傘傘傘傘傘傘傘傘傘傘傘傘傘傘傘傘傘傘傘傘傘傘傘傘傘傘傘傘傘傘傘
彼らの視界一面、押し寄せてくる傘に埋め尽くされていた。

「こっちに羽島幽平と聖辺ルリがいるって!」という折原臨也の声に、熱狂的群集は一瞬にしてその向きを反転させたのだった。







***

人の津波に拳銃で立ち向かうつもりかい?勇敢だ!

わき道へ駆け込んだ。
一旦立ち止まって振り返る。
一直線に進む人間の波が紳士たちを次々押し流して行くのを見た。王蟲(オーム)の暴走を思わせる迫力であった。
「ハハッ!」と思わず声にして笑う。
緊迫が転じ、神経を高ぶらせていた。

「大ババ様の言いつけを守らず腐海に手を出すからこうなるんだ!ジブリ観てから出直して来なよっ」

ラピュタ後半のムスカ然と、愚かな人間どもの醜態を嘲り笑う。
は背をまるめ激しく息をきらす。
苦しげな双眸が臨也に向けられた。
一泡食わせることができたというのにその表情は決して喜んではいなかった。

・・・
ああ、
そうか

きっと俺の言った意味がわからなかったからだ。

「ジブリ知らないよね」

場違いな臨也の問いに返事はなかった。
息をするので精一杯だからだね?

「帰ったら観よう」

なにか言おうとした可憐な唇がわななく。
色は紫を帯びていた。
音は成さず引き結ぶ。
強張った目のはしを水滴が伝っておちた。
焦燥であった。
さびしさであった。
かなしみであった。

それは変だ。

せっかく逃げられたというのに、どうしてそんな顔をするのか。
大丈夫、逃げて、逃げて、マンションにさえ戻ったらこんな状況はどうとでもできる。問題ない。
体を拭いてからTSUTAYAへ行こう、新宿にもあるんだ。ナウシカを借りて、観て、
ああ!5.1chのスピーカーとホームシアターがあるんだよ。
ソファーは一人掛けだけど・・・床!床に座って観ればいい。
それで、返しに行こう。もし返却ボックスが怖いなら、
そうだナウシカは買うことにしよう。
ほら、これで安心だ。
なにも心配はいらない。
だから
なんで
そんな顔するんだよ

<いたぞ!>

はっとした。

<むこうだっ!>
<追え!追え!>

日本語でない怒声をあげ、流されなかった紳士たちが追いついてきた。
再び走り出す。大丈夫、逃げて、逃げて、逃げ切ったら
一方通行車道に飛び出したところで耳をつんざくクラクションが鳴った。
行き過ぎたの体をこちらに引き戻し、泥水を跳ね上げトラックがその前を走り抜けていった。
勢いは死んだ。



「その方をこちらへ渡せ」

これだけ走って息ひとつ乱していないのはさすが紳士だ。
ぞくぞく集まってくる。
彼らの両手はいずれも黒いポケット。

この状況で

が臨也の前に立ちふさがった。

下着が透けるから胸を張らないほうがいいのに、背筋はぴんと美しい。
あごをわずかに引いて、両手を優雅に重ねる。
迎賓館で来賓全員にまなざしをめぐらせるように黒服の紳士を見渡した。
その美貌にあるのは王国の至宝とうたわれる微笑ではない。
臨也への接近を許さじとするけん制であった。
重ねられた御手からはサンシャイン国際水族館オリジナルストラップがたれているけれど。

王女の背にネオ・バロック様式の幻を見、彼らは一瞬足を止めた。
王国では、許しなく王女の御前にあがることは大罪である。
互いに顔を見合わせ、接近を再開する。
のまなじりがほの赤く染まる。しかし細く息を吸い込み、もう一度胸を張って
虚勢をはる肩は臨也によって引き寄せられた。



「彼女は俺のフィアンセだ。あした結婚する」

臨也は言う。
雨音を突きとおし、あたりの雑居ビルに響くほどはきとした声だ。

「貴様、何を言って」
「あきらめて今から3秒以内に結婚おめでとうって大声で言わないとぶっ飛ばすって言ってるんだよ、おっさん」

にやりする。
折原臨也は人を不快にする笑みをさせたら日本一の実力者だ。

「さーん」

侮辱に顔を赤くした紳士Aは臨也の大腿へ向け拳銃の引き金を

「にー」

「結婚おめでとぅおおおおおりゃぁあああ!!」

紳士Aは雨の夜空高くぶっ飛ばされた。







は眼前で起こった超常現象に息を飲んだ。
ぶっ飛んだ紳士が雨よけのため広げられていたお店の布屋根に落下したのを見てほっと息をつく。

「あーあ」

臨也は別の意味でため息する

「さん、にー、ドーンじゃなくて、さん、にー、いち、ドーンのつもりで3秒って言ったのに。やっぱりシズちゃんとは心底気が合わないね」
「るっせえ。ぐだぐだ言ってると殴り潰すぞ」

臨也との前に現れたのは、進入禁止の標識を肩にかついだ平和島静雄であった。
おののく紳士を通り過ぎて静雄と臨也がにらみ合う。
殴り潰さず、静雄はくるっと臨也に背をむけた。

「行け」

の肩を抱いたまま臨也は車道へ一歩下がる。
は髪の水滴を振り乱した

「いけませんっ、静雄さんが」
「心配すんな。俺はこのおっさん達のことは知らねえが黒い服着てる奴はたいてい悪いやつって相場が決まってんだ。そこのノミ蟲がいい例だ。俺か?俺はちげえよ。袖が白いだろうが。だからよう・・・」

バーテン服は背で語る。



「ここは俺に任せろ」



精一杯かっこよく決めた正直かっこいいこのセリフを、臨也がの耳をふさいで聞かせなかったとは背を向けたままの静雄は知るよしもなかった。




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