一方通行の車道へ飛び出した二人の前に一台の車が突進してきた。
直前で急停車し、
「乗れ!」
助手席からそう叫んだのは
「ドタチン!」
二人は3列シートの最後列に飛び込んだ。
紳士の、制止とも悲鳴とも取れない声を無視してワゴンは急発進した。
しかし1分もせず急停車し
「降りろ」
助手席からそう言ったのもドタチンこと門田であった、
「えーっ?なんであたしたちがぁ」
「そりゃないッスよ門田さァん!」
ブーイングする狩沢と遊馬崎はビニール傘とともに降ろされ、ワゴンは再び速度を上げた。
ブラウスは完全に身体にはりつき肌の色がはっきりわかる。
みずみずしい桃色の唇がいまは青紫に変色し、細い肩の震えが歯にまで伝わっていた。
覗き込んで尋ねると、「大丈夫」と声にできずに真っ白な頬がひきつった笑みを作ってコクコクとうなずいた。
「全然だめじゃん」「い、いえ」「そう?」「驚いただけ、で」「驚いたね」「ええ」「大丈夫」「平気ですわ」「俺も驚いた」「ええ」「君がかっこよくて」「ふふ」「もう大丈夫」
早口でかみ合わない掛け合いになった。
まだ心臓がドキドキいっているのだろう。
冷えた腕を何度もさすってやる。
ふと掛け合いがとまる。
気づけばひどく近い。
目があう。
長い睫はぱっと下へ向いた。不自然に。
さする手をとめてしまう。
唇を重ねた。
はなれ、それきり黙る
門田はこの光景を映すルームミラーを視界に入れないように努め、狩沢と遊馬崎を降ろした自分の判断は正しかったと改めて思う。
車内には忙しくワイパーが動く音とラジオの音だけが聞こえていた。
『道路交通情報センターからのお知らせは以上です。・・・続いて、ニュースをお伝えします』
『親善使節として来日中の王女が突然のご発病により本日の全予定をキャンセルされた件について、大使館からその後の発表がないことから一部では王女のご容態が深刻なのではないかという憶測が』
伏せていたアーニャの睫がぱっと上向いた。
赤いケータイを握る細い指に力がこもる。
「ドタチン、俺車内は音楽聞きたい派なんだけど」
臨也が言う。
門田とルームミラーごしに目があった。
「・・・おう。狩沢たちのアニソンしかないけど文句言うなよ?」
ワゴンは新宿へ向かってひた走る。
***
優秀な秘書はすでに帰宅していた。
窓にカーテンが引かれ、臨也の前には5つものモニタが並ぶ。
足元ではデスクトップパソコンの本体、いや、もはやスーパーコンピュータと言うべきパワーを持ったマシンが、稼動を示すランプを激しく明滅させていた。
時を縮めようと、シャワーは浴びず服だけ替えてキーボードを叩いていた。
キィ...とか細い音がした。
アーニャがバスルームから出てきたのを視界のはしに認めた。
臨也の寝巻きである黒の長袖上下に身を包んでいる。ワイシャツではさすがに寒いから。
デスクの前のソファーまで歩いてきた。
「貸してくださってありがとう」
「いいね、似合ってる」
5つのモニタを流れる別々の情報をすべて確認しながら返した。
アーニャは微笑みすらどこかぎこちない。
「・・・なにをなさっているの」
「なんでもない。大丈夫、すぐに済む」
「・・・」
「問題ないよ。今日は騒ぎを起こしてしまったから隠蔽しているんだ。この歳になって警察から実家に連絡されたら困るだろう。俺はまっぴら御免だ。問題ない、隠蔽なんてカンタンだ。単に情報を消すんじゃない、逆に似たような情報が溢れかえるようにすればいい。水溶性の毒を海に一滴落としてその毒を探すことができるかい?」
「イザヤさんは、なにをなさっている方なの」
手が止まる。
核心であった。
臨也の正体について核心をつかれたわけではない。
彼女の心がすでに逃げおおせるところにはないということが、臨也が「問題ない」と繰り返すこの問題の核心であった。
答えない臨也から床に視線を移して、アーニャは使い慣れた口角をひきあげた。
「もう帰らなくては」
「情報屋だ」
間髪入れずに臨也が椅子から立ち上がった。
悪人面がわらう。
「俺は情報屋だよ。知り合いの家の献立から三億円事件の犯人まで取り扱ってる」
見返すのは大きな瞳であった。
今日のすばらしさがすべて水泡となって消えるような不安がよぎっている、大きな瞳だ。
その瞳の前まで歩み寄り、手のひらを天井へむけ、大げさに肩をすくめて見せる。
「君は美人だけど、ただの美人が池袋で変態紳士に追いかけられた事件なんて芸能人の熱愛報道を1つ流せばかき消える、とるにたらないことだ。ほかにも例えば、どこか外国の株が大暴落したとしよう、偽の情報を投資家が信じてね。経済危機、民衆の暴動まで起こって国内は内戦状態、他のことなんて何も手につかないくらいの事態にしてやれば・・・」
なんで泣きそうな顔をするんだ。
「そうすれば」
せっかく素晴らしい解決策を披露しているのに
「そうすれば」
なんで泣きそうな顔をするんだ
俺は
「そうすれば、だれもきみをみつけられない」
「ありがとう」
アーニャの笑顔はいつのまにかいとしげな色をとりもどしていた。
頬をうつ涙さえかわいい。
「すばらしい日でした」
抱きしめた。
どちらから先にそうしたのかわからない。
何度もくちづけ、それから着替えて、傘を一本さして二人で夜の新宿を歩いた。
折原臨也は新宿の情報屋だ。
アーニャの正体は永遠に知らないけれど、背の高いビルが見えるホテルをもうひとつ知っている、情報屋だった。
<< □ >>