「四木さん」

なつかしい声だ。
いや、違う
なつかしくはない
そんなに昔ではないから。
声にふれられるならきっとまだ濡れているような



「具合はどうですか」

こたえない四木の額にひやりと冷たい手がふれた。
熱をはかったわけではなく汗ではりつく髪を横に撫でつけただけだった。
色合いのうつくしい瞳が長い睫のおくでおだやかに微笑んでいる。
ベッドサイドの電子時計によれば夜中の2時だ。

「ごはん、四木さんの好きなものにしましょうね。なにが食べたいですか」

ゆっくり尋ねた。
四木はベッドに横たわってこれを黙って見上げていた。

慣れなかった。
なにをされているのかは頭にぼんやり浮かんでいたが、明文化することを四木の人格がよしとしなかった。
なにを言うべきか
どこまで言っていいのか
ラインがわからなかった。

「・・・」

「ん」と、愛しげにほほえんだままが首をかしげる。



「・・・たこわさ」

「おかゆですね。冷たいものも買ってきましょう」

ゆっくりとした、おだやかな、やさしい微笑みは有無を言わせないそれであった。
ではなぜ聞いたと尋ねるには喉が痛かった。



世の中で風邪が大流行し、粟楠会のどんな武闘派も頭脳派もことごとく熱に倒れた。
四木は最後まで風邪にかからず残っていたうちのひとりだったが、金曜の仕事を終えて自宅にもどると急に熱があがった。
迎えたはそんな彼を「お仕事が終わってから風邪にかかるなんて四木さんらしい」とくすりと笑った。
それから風呂に入って食事もとらずひと眠りし、自分の咳で目を覚ますと夜中の2時であるにもかかわらずは起きていて、しかも食事を作ると言ったのだった。
慣れなかった。
ラインがわからない。

四木はの出て行った寝室で横向きに寝返りをうった。
考える。
孤立した田舎で特異な生活をしてきたは世間からズレているところがあった。高校の学園祭を外から見て「あれはなに?」と尋ねるような人間だったのだ。四木はそんな彼女のズレを矯正し、また保護してきた。愛情がうまれてもこの関係性はかわらないのだろう。そう思っていたが、食事をつくってもらうようになったあたりから徐々に立場が逆転していった。日に日にが強くなっている気がする。それは彼女がもとから持っていた性質が見えてきただけなのかもしれないが、今日はとくにたくましく感じられた。



しばらくするとお盆を持ってがもどってきた。
手首にはコンビニの袋も下がっている。
サイドデスクにお盆を置く。
おかゆだ。

「起きられますか」

普段はリビングに置いているクッションを持ってきて背もたれにするようにベッドに盛った。
ぽんぽん、と手で叩いてクッションにくぼみを作り、そこに背を置けという意味だろう。
四木はもちろん自分で起き上がれる。もたれなければ姿勢を維持できないということもない。
一瞬背の置き場に逡巡し、何にももたれないことにした。
できたてのおかゆから湯気が上がっている。
その横には小鉢。

「たこわさはちょっとです」

慣れない

「少しでも食べて体力をつけないと」

どこまでふつうの優しさを享受していいのか

「お腹すいてないですか」

ラインがわからない。



「・・・いただきます」

レンゲですくって口に運ぶ。
熱かった。

「デザートもあるんですよ」

は嬉しそうにコンビニの袋をひっくり返す。
ゴロゴロとデザートが転がり出た。

「ウィダーインゼリーとプリンと、プリンはぷっちんの大きいやつですし、ゼリーはみかんと、桃と、ぶどう、四木さんの好きなくずきりもあったので買ってきました。あとはピノを」

いくらなんでも多すぎる。
どうしたらいい
こんな真似をしてあなたはなにをしたいのか
私は優しくされて「ありがとう」と言えばいいのか

それは四木には難しい作業であった。
ありがとうと言いながら相手の裏を探る作業は得意だったが、裏がないパターンに遭遇したことがなかったからだ。本当に裏がないのか。見えないだけなのか。四木はあたたかいおかゆを食べながら黙々と考えた。おそらくおいしい。作りなれている感がある。
そこに気づくと、ようやく納得の行く答えを思いついた。

「介護はお手のものというわけですか」

皮肉った調子になった。
は十数年、老人の介護をしてきたのだ。
喜ぶか喜ばないべきか考えていた自分がとんだ間抜けに思えてきて、四木は器をお盆に戻した。

「もう結構です。どうも」

は言葉をなくして、おだやかな表情のふりをして唇を引き結んでいる。
不愉快だ。
狭量だ。
ただの嫉妬だ。
普段ならば思っても言わない言葉ばかり口をついて、自制すらままならない。頭痛がする。誰もいないほうがよほどましだった。



「きっとこの日のためです」



あのとき、はどんな顔で言ったのだったか
驚きすぎて覚えていない。
覚えているのは、
とてもふかい声だったということ。
あのあとが下げようとしたお盆を渾身の力で引きとめてしまって、笑われたこと。






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